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教室に戻ると、わたしたちは次の授業――現代国語の教科書やノートを机の上に置き、馬屋原先生が来るのを待った。
馬屋原先生はいつもゆっくりとしたペースで歩き、授業開始のチャイムが鳴って少し遅れてから教室に入ってくる。
今日も先生はチャイムが鳴ってから数分後に教室に入ってくると、柔和な笑みを浮かべながら教卓に立ち、
「――じゃぁ、始めようか」
そう言って、現国の教科書をぺらぺらとめくった。
あとはお決まりの、眠たくてたまらなくなる低音ボイスが教室に静かに響いていく。
お昼を食べた後ということもあって、わたしだけじゃなくて、教室の大半の生徒がゆらりゆらりと舟をこぎ始める。
お腹いっぱいの状態で、緩やかな温かさの中、馬屋原先生の声はまるで子守歌のように眠りへとわたしたちの意識を誘って……
駄目だ、眠い、でも起きなきゃ。ちゃんと先生の授業を聞いて、ノートに取らないと。
わたしは頭を激しく振って、眼を大きく見開いて、黒板に書かれる文章を必死にノートに写すのだけれど、それはどう見てもミミズが這ったようなおぼろげな文字で、何と書いたのか自分でも判読不能なほどだった。
わたしは目をぱちぱちさせながら消しゴムをかけて、もう一度書き直して――カクンッ。
思わずノートの上に涎を垂らしそうになって、慌てて袖口で口元を拭った。
馬屋原先生の声は催眠術だ。完全にわたしたちを眠りにつかせようとしているようだった。
教室を見回してみれば、もうすでに眠りこけている男子やわたしと同じように、必死に眠気に耐えようともがく女子たちの姿があって。
ユキの方に目を向ければ、ユキもまたとろんとした眼でノートに目を向けており、その手は全く動いていなかった。
はっと我に返り、自分の手元に目を向ける。
いつの間にかわたしの手はぐるぐると連続した円をノートの上に書き滑らせており、ぐるぐると書きあげたそれは夢魔の顔のように見えて、すぐに消しゴムでそれを消した。
「――つまり、この時の主人公は」
馬屋原先生の声は、けれど全然わたしの頭の中に入ってこなくて、どうしようもなくて、眠たくて、眠たくて、眠たくて……
わたしの意識は、そのまま深い深い灰色の世界に飲み込まれていって……
……
………
…………
トンッ
突然、わたしのおでこに何かの感触があって、バッと上半身を起こして目を見開く。
そこには馬屋原先生の姿があって、先生はにこにこ顔でわたしのおでこに人差し指を突き出して当てたまま、
「やれやれ。そんなに僕の声は眠たくなっちゃうのかなぁ?」
自嘲気味にそう口にして、わたしのおでこから人差し指をゆっくり離した。
わたしもそのおでこを擦りながら、
「す、すみません……」
一応、謝っておく。
「ま、いいけどね」
馬屋原先生はそう言って、今度はユキの方へ歩いていき、
「はいはい、キミも早く起きなさい――」
私にしたのと同じように、ユキのおでこに人差し指を近づけて。
次の瞬間。
「やめてください!」
ユキが突然叫んだかと思うと、先生の腕を力強く叩いたのだ。
これにはわたしだけじゃなくて、半分寝ていたほとんどの生徒たちが慌てたように起き上がり、ユキと馬屋原先生の方に顔を向けた。
ユキは目を見開き、
「そういうこと、しないでもらえますか? セクハラで訴えますよ!」
その言葉に、一瞬教室中がざわざわと騒めく。
馬屋原先生もあまりのことに驚いたのか、眼を皿のように見開くと、じろじろとユキの顔を見つめてから、一瞬身体をぶるんっと震わせ、
「――おぉ、怖い怖い。訴えられるなんてたまったもんじゃないねぇ。次からは気を付けるよ」
言ってユキに背を向けると、こそこそと教卓の方へと戻っていった。
ユキはそんな馬屋原先生を睨みつけたまま、しばらく口を真一文字に引き結んでいたのだけれど、不意にわたしの方に顔を向けると、
『――信じられない!』
声もなく、わたしにそう言ったのだった。
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