「築島課長!」
俺は呼び止められて、足を止めた。懐かしい顔ぶれに、驚いた。毎日顔を合わせていた二か月前が、何年も前のことに感じる。
「香山さん?」
それに、庶務課のみんな。正装して、胸に『STAFF』の名札を付けている。
「パーティーのお手伝いです」と、斉川さんが言った。
「そうですか。ご苦労様です」
「課長、タキシードがお似合いですね!」
香山さん、相変わらずだな……。
「ありがとう。香山さんもいつもと違った雰囲気のスーツが新鮮だね」
「ありがとうございます!」
庶務課にいた頃は相手をするのも気が滅入った香山さんのテンションに、なぜかホッとした。
「庶務課は変わりありませんか?」
「はい。人手不足ではありますけど、それなりにやってます」と、斉川さんが言った。
「あの……」
後ろの方にいた春田さんが、意を決したように前に出てきた。
「春田さん、お疲れ様」
「お疲れ様です。あのっ、課長……」
もう、課長じゃないけど……。
『課長』だったのはたった二か月なのに、辞めてから二か月経った今も『課長』と呼んでもらえて、嬉しかった。
「成瀬さんは……お元気ですか?」
「え……?」
春田さんは今にも泣きそうだ。
見ると、庶務課のみんなもそれぞれ複雑な表情で俺を見ていた。
そうだ。庶務課のみんなは、俺は咲を裏切って政略結婚しようとしていると思っているに違いない。
「噂……嘘ですよね?」と言った春田さんの目には、涙が滲んでいた。
春田さん……。
「蒼さん、お待たせしました」
呼ばれて振り向くと、麗花さんが立っていた。真っ赤なドレスは、胸は隠せているが背中が大きく開いていて、前丈は膝少し上までだが後丈は踵まである。ハイヒールもバッグも真っ赤だ。
店員がドレスの名前を言っていたが、俺はまるで聞いていなかった。
これから、彼女をエスコートしてパーティーに出ると思うと、気が滅入る。
庶務課の面々は、噂の『課長の婚約者』の登場に、口をポカンと開けていた。
そりゃ、そうなるよなあ……。
咲とはまるでタイプが違う。
「あら? スタッフがここで何を?」
「前の部署の部下です」と、俺は麗花さんに言った。
「そう……。今日は伯父さまの大事なパーティーですから、粗相のないようにね」
麗花さんは庶務課のみんなを見下すように言い放って、俺の腕に手を掛けた。
「行きましょう」
「課長!」と、春田さんが縋るような目で俺を見た。
「もう課長じゃないのよ」
麗花さんが冷ややかな目で春田さんに言った。
「失礼でしょう」
くそっ! いつまで我慢しなきゃならないんだ。
「麗花さ——」
「咲先輩?」
香山さんの甲高い声に、俺は麗花さんへの叱咤の言葉を飲み込んだ。
え、咲?
正面から男性と歩いてくる黒のロングドレスの女性は、確かに咲だ——。
大きく胸が空いて、身体のラインを強調する裾広がりのドレス。麗花さんも試着したが、お世辞にも似合うとは言えず、咲に着て欲しいと思った。
咲、どうして……。
「詩織ちゃん?」
咲は懐かしい顔に、目を細めた。
「お久し振りです」
「成瀬さん!」
「みなさん、お元気ですか?」
「はいっ!」
咲が庶務課のみんなと笑顔で挨拶を交わすのを、俺は呆然と眺めていた。正確には、見惚れていた。
ヤバい……。
「蒼」
呆けている俺は、充兄さんに呼ばれてハッとした。
『ニヤけてんじゃねーぞ』と言われているようで、俺は意識して笑顔を作った。
「蒼さんのお兄様ですよね?」
麗花さんが充兄さんに声をかけた。
「築島充です。城井坂麗花さんですね? 弟がお世話になっています」と、充兄さんが余所行きの声で挨拶をした。
「お世話だなんて……、他人行儀ですのね」
咲がタイミングを見計らったように、スッと充兄さんの隣に立った。麗花さんを見る咲の表情に、俺は全身の産毛が逆立つのを感じた。
「初めまして、成瀬咲と申します。蒼さんには前の部署でお世話になりました」
軽く会釈して顔を上げた咲は、穏やかに微笑んでいた。
「お兄様の噂のお相手? 今は秘書をなさってるとか」
俺の目の前で、充兄さんが咲の腰に腕を回して抱き寄せた。
「ええ……。公私ともに僕をサポートしてくれています」
俺は二人を引き離したい衝動を必死で堪えていた。
後で……覚えてろよ!
「そうでしたの。咲さん、長いお付き合いになりそうですし、仲良くしましょうね」と、麗花さんが咲に言った。
「そろそろ会場に入りましょうか」
俺は、その場の張りつめた空気にいたたまれず、麗花さんの背中に手を回した。
「蒼」
俺は咲に呼び止められ、身体を凍らせた。咲は俺の首に右手を伸ばすと、スーツの襟を直して、その手を俺の胸に下ろした。
「タキシードも素敵ね」
いつもより低く、静かで、甘い声。咲が麗花さんを挑発しているのは、息をのむような強張った表情でその場を見守る庶務課のみんなもわかったはずだ。
咲……、どういうつもりだ?
咲の意図は読めなかったが、俺がしらを切る必要はないと判断した。
「ありがとう。咲も綺麗だよ」
俺は咲の手に自分の手を重ね、彼女を見つめた。
「そうだろう? 俺が選んだドレスだ」
充兄さんが咲の肩を抱いた。
「時間だ、行こう」
充兄さんが選んだ……?
「充兄さん、前に俺が言ったこと……忘れるなよ?」
咲に手を出したら、殺す。
俺は充兄さんを睨みつけて、同じように咲を睨みつけている麗花さんの腰を抱いて、会場に入った。
会場に入ると、次々に声を掛けられ、麗花さんとの婚約を祝福された。
「ありがとうございます」と笑顔で答えながら、俺は充兄さんの隣に寄り添う咲の姿を目で追ってばかりいた。
今日のパーティーで和泉兄さんの復職と、T&Nフィナンシャルと城井坂マネジメントの提携解除、俺と麗花さんの婚約についての噂を払拭することになっている。
けれど、咲がパーティーに出席することは聞かされていなかった。
庶務課のみんなは、グループ会社の庶務課と一緒に、ウエルカムドリンクのサービスに走り回っていた。
会場がほんのり薄暗くなり、出席者が雛壇に注目する。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!