「課長」
背後から小声で俺を呼んだのは、春田さん。麗花さんに悟られないように、彼女の死角に立つと、封筒を差し出した。
「成瀬さんからです」
「ありがとう」と言って、俺は封筒を受け取った。
「か……、築島さん。また……一緒にお酒飲んだり出来ますよね? 成瀬さんも一緒に……」
春田さんが俺と咲の関係を心配してくれているのが、嬉しかった。
「もちろん」
俺がそう言うと、彼女はとても嬉しそうに微笑んで、仕事に戻っていった。
麗花さんに見られないように、俺は封筒の中身を確認した。写真が一枚とメモが一枚。
『彼女が騒ぐようなら、これを使って黙らせて』
薄暗くて写真が見づらい。
諦めて写真を封筒に戻そうとした時、雛壇が照らされた。
なっ——!
俺は慌てて写真を封筒に戻し、封筒をジャケットの内ポケットに入れた。
なんだよ……あれ……。
衝撃で早まる鼓動を鎮めようと、大きく深呼吸をした。左隣に立つ麗花さんは雛壇で挨拶をする広正伯父さんを見ていた。
俺は咲の姿を探して、目を凝らした。
右斜め前方に咲の後ろ姿を見つけた。雛壇の照明が彼女の身体のラインを際立たせていた。
綺麗だな……。
心から、そう思った。
咲は下ろした髪を右肩に流していて、顎から左肩の肌が無防備にさらけ出され、締まりの良い黒いドレスのお陰で肌の白さを強調している。
あのドレスが、充兄さんチョイスでなければ、もっと素直に見惚れられたはずだ。
俺の視線に気がついたのか、咲がほんの少し首を傾けて、横目で俺を見た。気怠そうな視線に、静まりかけていた俺の心臓がまた動きを加速させる。
いやいや、興奮してる場合じゃない。
俺は内ポケットから封筒をチラリと見せ、確かに受け取ったと知らせた。咲は小さく頷いて、視線を雛壇に戻した。
広正伯父さんは上機嫌で挨拶を終え、雛壇を降りた。司会者が一時の歓談を促すと、会場の照明が灯された。
俺は再び麗花さんをエスコートし、会場内をうろうろと歩き回る羽目になり、最後は城井坂社長、つまり麗花さんの父親の元に行きついた。
「似合いの二人だ」と、城井坂社長は早くも酔っているように顔を赤らめて言った。
「先日はご挨拶もせずに席を中座しまして、申し訳ありませんでした」
「いや、麗花の為にも仕事は頑張ってもらわなければいけないからね。それよりも、麗花にドレスをプレゼントしてくれてありがとう」
「いえ、喜んでいただけて良かったです」
城井坂社長はすっかり俺の義父気分でいた。
もう少しの辛抱だ。
パーティーが終わる二時間後には、事態は一変しているはずだ。
しばらくして、会場内が騒めいた。
会場内の注目を一身に集めたのは、和泉兄さんだった。
隣には真さん。
二人の紳士の登場に、女性たちの目つきが変わる。
女性たちの恍惚とした眼差しとは相反して、男性たちは驚きや嫌悪の表情を向けている。中でも、広正伯父さんと城井坂社長は、亡霊でも見ているかのように、口と同じくらい目を大きく見開いて立ち尽くしていた。
麗花さんはギリッと歯ぎしりの音をさせて、顔を歪ませている。
こえー……。
真っ先に和泉兄さんに声をかけたのは、慎治おじさん。とても嬉しそうに、和泉兄さんと挨拶を交わしたところで、充兄さんが歩み寄り、おじさんは席を外した。
充兄さんの隣には咲。俺が見ている限り、充兄さんの左手は常に咲の腰に添えられている。
それを見る度に、充兄さんの腕を捻り上げて、二人を引き離したかった。実際にそう出来るかは別としても、この状況からして、俺はまだこの場を動くわけにはいかない。
和泉兄さんと充兄さんの不仲は親戚のみならず、グループ内でも広く知れ渡っていることだ。挨拶を交わすだけにしても、兄弟で糾弾したものと糾弾されたものの接触は、周囲の人間の興味を誘った。
話の内容こそ聞こえなかったが、表情からして和泉兄さんと充兄さんの間に険悪なムードはなく、咲と真さんを交えて笑顔も見られた。
話の流れで俺の名前が出たのか、充兄さんが俺を見た。
「お兄さんたちに挨拶させてもらえるかな?」と、城井坂社長に請われ、俺は仕方なく城井坂社長と麗花さんを引き連れて、和泉兄さんの元へと歩みを進めた。
「久し振りだな、蒼」と、和泉兄さんが微笑んだ。
「元気そうで良かったよ、兄さん」と、俺は少し他人行儀な返事をした。
真さんから俺が置かれている状況は聞いているはずだ。
「そちらが噂の婚約者かな?」
咲の前で『婚約者』という言葉を肯定する気になれず、その場の誰もがそれを察していたと思う。その証拠に、真さんが助け舟を出してくれた。
「素敵なドレスですね」
「ありがとうございます! 蒼さんが選んでプレゼントしてくださいましたの」
一瞬、服の中に氷を落とされたように、背筋が冷たく張りつめた。振り向かなくても、咲の視線だとわかった。
「お前の趣味かぁ……」と、充兄さんが呟いた。
今も、充兄さんの手は咲の腰にある。
「初めまして、築島和泉です」と言って、和泉兄さんが麗花さんに笑顔を向けた。
「城井坂麗花です」と、麗花さんは見るからに作り笑顔で言った。
麗花さんにしてみれば、和泉兄さんは城井坂マネジメントがT&Nフィナンシャルを乗っ取るのに邪魔な存在だ。
「城井坂社長にこんな可愛いお嬢さんがいらしたなんて、知りませんでした」と、和泉兄さんは今度は城井坂社長に挨拶をした。
「お久し振りです、築島社長」
さすが、伊達に長年経営者をしていない。城井坂社長は自然な営業スマイルで挨拶をした。
「謹慎中とお聞きしていましたが、本日はお姿を拝見できて良かった」
公の場で声を落とさずに『謹慎』という言葉を使った城井坂社長の、和泉兄さんへの敵意は明らかだった。この敵意に対して、和泉兄さんは慣れた様子で言葉を返した。
「ええ……。私も伯父の大切なパーティーに謹慎が解けて安心しました」
和泉兄さんの言葉に、城井坂社長と麗花さんは驚き、そして俺たちの様子を窺っていた出席者の一部がどよめいた。
「それ……は……」
「社内機密ですので詳しくは父から説明させていただくことになっています」
「そう……ですか」
城井坂社長は隠せないほど動揺し、笑顔が引きつっていた。
会場内が騒めき、不穏な空気に包まれた。その時、司会者がグループ会長からの挨拶を告げ、父さんが登壇した。
「皆さま、本日はお忙しい中————」
父さんは決まり文句で挨拶をし、広正伯父さんの長年の功績を労った。そして、核心に触れた。
「皆さまもご存知の通り、長男でフィナンシャル社長の和泉があらぬ疑いで謹慎しておりましたが、記念すべきこの日に晴れて謹慎が解け、社長に復職する運びとなりました」
耳を疑う出席者たちの沈黙を破り、充兄さんと咲、真さんが拍手をした。続いて慎治おじさん。更に、俺も続く。会場がゆっくりと拍手に包まれていく。
「ありがとうございます。和泉の謹慎中、フィナンシャルを支えてくださった皆さま方には感謝してもしつくせません。特に、城井坂マネジメントの城井坂社長には、並々ならぬご尽力を頂きました。本日の主役である内藤広正の義弟であるというご縁で、提携会社とのパイプ役を買って出て頂き、何とか社長不在を乗り切ることが出来ました。本当にありがとうございます」
今度は和泉兄さんが率先して拍手をした。再び会場内で拍手が響き、城井坂社長が複雑な表情で頭を下げた。
「この場を借りて皆さまの誤解を解かせていただきます。社内を始め、巷では私の三男である蒼と城井坂社長のお嬢様である麗花さんの婚約が噂されていますが、それは事実ではありません」
やっと……解放される——。
俺は心底、安堵した。だが、隣の麗花さんは、まさに鬼の形相だった。