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六月の美術室は、絵具の匂いが抜けなかった。
窓を細く開けても、入ってくるのは湿った空気ばかりだった。雨が朝から降り続いていて、校舎の屋根を叩く音が天井にくぐもって響く。窓の向こうに見えるはずの連峰は、灰色の雲に覆われて影もなかった。
県展の出品締め切りが七月に迫っていた。放課後の制作時間は五月までの一時間半から、二時間、三時間と伸びていった。他の部員が帰った後も蓮と奈々瀬が美術室に残る日が増えた。六時を過ぎ、七時近くまでいることも珍しくない。六月は日が長い。窓の外がまだ薄明るくても、廊下を歩く足音はとうに消えている。
美術室は三階の端にあるから、雨の日は屋根に近い分だけ音が響く。雨脚が強まると窓ガラスを水の筋が流れて、外の景色がぼやけた。晴れた日には見える海浜公園も湾も、今日は何も見えない。視界が閉じたぶん、美術室の中だけが世界になる。
蓮のイーゼルと奈々瀬のイーゼルの間隔が、いつの間にか狭くなっていた。パレットナイフの貸し借りや、筆洗の水を替えるとき、近い方が動きやすい。理由はそれだけだった。
奈々瀬は県展に出す新作に取り組んでいた。F20号のキャンバス——蓮が使う水彩紙よりずっと大きな画面だ。何を描いているのかはまだ見せてもらっていなかった。制作途中の絵を見られたくないのは蓮も同じだから、覗こうとはしない。ただ、奈々瀬の使う色は変わっていた。春までのウルトラマリンとバーントシェンナを軸にした配色に、カドミウムイエローやバーミリオンの暖色が混じり始めている。パレットの上の色が変わると、テレピン油に乗って漂う匂いも少し違った。梅雨の湿気にその匂いが籠もって、美術室の空気はいつもより重い。
蓮は水彩で通学路の夕景を描いていた。六月の夕方は雲が多くて、空がいくつもの層に分かれる。その色を拾おうとするのだが、筆を動かすたびに画面がどこか物足りなくなる。写生大会のときの言葉が、まだ筆の先にひっかかっていた。
ラジカセのFMがノイズ混じりになった。奈々瀬が席を立って電源を切る。雨と絵具の音だけが残った。蓮は時計を見なくなっていた。
奈々瀬がふいに筆を止めて、蓮の画面を覗き込んだ。数秒だけ見て、何も言わずに自分のキャンバスに戻った。
「何か、あった?」
「別に」
「さっき、見たやろ」
「見た」
蓮は「それで?」と聞きたかったが、声にならなかった。写生大会のときと同じ答えが返ってきそうで、筆を動かし続けた。奈々瀬も何も足さなかった。雨の音だけが、二人のあいだを流れていた。
六時前に、廊下から声がした。
「おつかれー。まだやってんの?」
陽菜がドアから顔を出して、美術室に入ってきた。手にクリアファイルを抱えている。
「装飾のラフ描いてきたんだけど、ちょっとだけ見てくれない?」
「俺に聞いても——」
「いいから」
蓮のイーゼルの横に椅子を持ってきて座り、ファイルからA4の紙を広げた。教室の壁の装飾ラフ。テーマは海。波と灯台のシルエットが太いマジックで描かれている。素人の線だったが、配置の感覚は悪くなかった。
「ここの色、何がいいと思う?」
「青系で統一して、灯台だけ濃淡つけたら。ここは白残した方がいい」
「なるほど。メモメモ……」
陽菜がペンでラフの余白に書き込んでいる。蓮は自分のイーゼルに向き直ったが、パレットの上の絵具がもう乾き始めていた。
「ねえ、描いてるとこ見ててもいい? 静かにしてるから」
「……別に」
筆を取り直して空の色を塗ろうとしたが、隣に人がいるのを意識した途端に手が止まる。
「あ、今迷った?」
「見るなって言ったやろ」
「見てないよ。筆の音が止まったから分かっただけ」
蓮は黙って筆を動かした。陽菜はそれ以上話さず、蓮の手元を見ていた。声は出さなかったが、蓮の筆が画面に色を載せるたびに、隣でかすかに息を吸う音がした。海の色に新しい青を重ねたとき、陽菜が小さく「あ」と声を漏らした。
「ごめん。色が変わったから、つい」
「重ねただけやけど」
「重ねたら全然違う色になるんだね」
陽菜はそう言って、また黙った。教室のあの声量からは想像できない静かさだった。
美術室の奥で、奈々瀬は変わらず筆を動かしていた。陽菜の声が部屋を満たしていても、手のリズムは変わらない。
控えめなノックが聞こえた。ドアが少しだけ開いて、顔が覗く。
「蓮、おる?」
高瀬みつきだった。制服のまま、手にビニール袋を下げている。
「まだおったが。ほんとあんた帰り遅いがいね」
みつきは美術室の中を見た。蓮のイーゼルの横に座っている陽菜。その奥の窓際で、大きなキャンバスに向かっている奈々瀬。テレピン油と雨の匂いが混じった空気の中に、蓮を含めた三人がいた。みつきの足が、敷居の手前で止まった。
「これ。おにぎり。母ちゃんが多めに作ったから」
ビニール袋を蓮に差し出した。ラップに包まれたおにぎりが二つ入っている。白ごまが混ぜてあるのが、ラップの上から見えた。
「ありがと」
「余りもんやし。別にわざわざ作ったがじゃないがに」
蓮は受け取って、机の端に置いた。二つのおにぎりは同じ大きさで、同じ三角の形をしていた。
「あ、おにぎり! 手作り? いいなあ」
陽菜が椅子から身を乗り出した。みつきは陽菜を見て、小さく頷いた。
「幼なじみだからさ。ずっとこうしてくれてんだよね」
蓮が言う前に、陽菜がそう言った。みつきは答えなかった。一歩下がって、蓮に「じゃ、帰るね」と言った。
「え、もうちょっとおればいいがに」
「ううん。邪魔したら悪いし」
ドアが閉まった。みつきの足音が廊下を遠ざかっていく。来たときより、少し速かった。蓮はドアの小窓の向こうにみつきの背中を探したが、もう廊下の角を曲がっていた。
「忙しかったのかな」
陽菜が首を傾げた。蓮はドアの方を見たまま、何も言わなかった。
奈々瀬が一瞬だけ筆を止めて、蓮の方を見た。すぐにキャンバスに視線を戻した。
十分ほどして、陽菜も「あたしもそろそろ」と立ち上がった。「色のアドバイス、助かった。ありがとね」
クリアファイルを抱えて出ていく。廊下を遠ざかる足音が軽い。陽菜が帰ると、美術室は一気に静かになった。いつもそうだ——陽菜が去ると、開いていた窓を閉めたように空気が変わる。美術室には蓮と奈々瀬だけが残った。雨の音が、急に近くなった気がした。
蓮は机の上のおにぎりを見た。ラップの上から白ごまが透けている。みつきの家のおにぎりは、いつも白ごまが入っていた。小学生の頃、海浜公園で遊んでいるときに腹が減ると、みつきが鞄から出してくれたのと同じ味だ。十年経っても、塩加減も白ごまの量も変わらない。
七時になった。窓の外の灰色が、少しだけ暗さを増していた。蓮は筆を洗って片づけを始めた。
「帰る」
奈々瀬に声をかけると、「うん」とだけ返ってきた。キャンバスに向かったまま、振り向かない。蓮は鞄とビニール袋を持って、美術室のドアを閉めた。廊下に出ると、雨の匂いが絵具の匂いを洗い流した。
雨は上がっていた。
校門を出ると、アスファルトが濡れて街灯の光を反射していた。水たまりに、雲の切れ間から覗いた夕焼けの残りが映っている。六月の七時はまだ薄明るくて、空の端が橙色とも灰色ともつかない色に滲んでいた。
みつきが、校門の脇で自転車を押して立っていた。
「遅いがいね」
「……待っとったが?」
「図書室におったがに。別に待っとったわけじゃないちゃ」
図書室は六時で閉まる。蓮はそれを知っていたが、口にはしなかった。
水たまりが多くて、自転車は押して歩いた。タイヤが濡れた路面を転がる音が、二人の間に挟まっている。雨上がりの空気は湿っていて、アスファルトの匂いと田んぼの泥の匂いが混じっていた。蓮のブレザーの袖口には、まだ絵具の匂いが染みている。田んぼの方からカエルの声がいくつも重なって聞こえてきた。通学路の電柱の下を通るたびに、軒先から水滴が落ちる。みつきがそのたびに小さく首をすくめたが、声は出さなかった。
いつもならみつきの方から話を始める。学校のこと、兄ちゃんのこと、漁港の話。蓮が短く答えて、みつきが続ける。十年間変わらなかったリズムだ。
今日はみつきが黙っていた。蓮の方から話しかけようとして、何を話していいか分からなかった。美術室のことは、さっきみつきが見た通りだ。
水たまりを避けながら並んで歩く。みつきの自転車の前かごに入った鞄が、歩くたびに揺れていた。
しばらく歩いた。住宅街の生垣から、紫陽花の花が道にせり出している。雨に濡れた花びらが街灯の光を拾って、青紫に光っていた。
「蓮」
みつきが言った。名前だけ呼んで、続きが来ない。
「なに」
「あんた、最近——」
みつきは口を開いたまま、前を向いていた。横顔の輪郭が、残照の中に薄く浮かんでいる。雨上がりの湿気のせいか、いつもよりくせの出た黒髪が、首筋に張りついていた。二秒ほどの沈黙の後、首を振った。
「ううん。なんでもない」
「なに?」
「なんでもないって」
みつきはハンドルを握り直した。
「——あ、そうや。港祭り、今年も行くやろ? 花火」
「たぶん」
「たぶんって。毎年行っとるがに。今年もうちが場所取りするから」
「……わかった」
港祭りの花火は、毎年、海浜公園の防波堤から見ていた。みつきが朝からシートを敷いて場所を取って、蓮が夕方に合流する。去年は蓮とみつきの二人だった。今年も二人だろうと、蓮は何となく思っていた。
みつきの声が、少しだけ軽くなった。田んぼの水面に映っていた夕焼けが、ゆっくりと暗くなっていく。代わりにカエルの声が、その分だけ大きくなっていた。
分かれ道で「また明日ね」とみつきが手を振って、左の路地に曲がった。タイヤが水たまりを踏む小さな音が、路地の奥に消えていく。
蓮は一人で残りの道を歩いた。鞄に引っかけたビニール袋の結び目が、歩くたびに揺れている。
おにぎりは、まだ温かいだろうか。