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木々は闇に溶け、風の音すら不気味な静寂に吸い込まれていく。
俺たちは、好奇心とほんの少しの恐怖を胸に、この深山へと足を踏み入れた。目的はただ一つ、十数年前に姿を消したとされる伝説の民俗学者、遠野先生が最後に目撃された場所を探すことだ。
先生は、この山に伝わる奇妙な**「山に潜むモノ」**の伝承を追っていたという。道なき道を進むうち、薄暗い森の中に奇妙なものが現れ始めた。
それは、まるで木々の枝や根が絡み合ってできたかのような、不自然な形をした彫刻だ。
しかし、よく見ると、それは彫刻などではない。獣とも人ともつかない、乾いた皮膚のようなものが薄く覆われ、中には硬い骨のようなものが透けて見える。
「これ……なんだ?」
友人の一人が声を震わせる。俺は答えられなかった。それは、あまりにもおぞましく、そしてどこか、生きているような気配を放っていたからだ。
日が傾き、あたりが紫色の靄に包まれる頃、私たちは小さな廃屋を見つけた。
遠野先生が拠点にしていた場所だろうか。
中に入ると、埃っぽい空気の中に、かすかに墨の匂いが残っていた。壁には、先生が書き残したであろうメモが所狭しと貼られている。
『ヤツらは、山そのものだ。木となり、岩となり、我々を監視している。』
『姿を変える。人間の姿を模倣する。』
『言葉を持たない。しかし、音で意思を伝える。』
最後のメモは、走り書きのように乱れていた。
『耳を塞げ。ヤツの声を、聞いてはならない。』
その時、背後で「パキッ」と小枝を踏み折る音がした。振り返ると、誰もいない。だが、聞こえる。風でも、動物でもない、奇妙な囁き声が、遠くから近づいてくる。
それは、日本語のようで日本語ではない。まるで、無数の舌がもつれ合い、重なり合っているような不協和音。
その声は、私たちの頭の中に直接響き、内側から何かを抉り取ろうとしているかのようだった。
友人が耳を両手で塞ぎ、蹲った。
もう一人の友人は、虚ろな目で宙を見つめている。
俺もまた、その声の恐ろしさに、次第に正気を失いかけていた。
その時、廃屋の窓の外に、**「それ」**が現れた。
それは、遠野先生にそっくりだった。だが、顔はひどく歪み、手足は不自然に長く伸びている。そして、その口元は、不気味な笑みを浮かべていた。
次の瞬間、遠野先生の模倣品は、その長い腕で窓ガラスを突き破り、私たちに向かって手を伸ばしてきた。その手は、まるで木の根のようにゴツゴツと節くれ立っている。
「逃げろ!」
俺は叫び、友人を引っ張り、必死で廃屋を飛び出した。山の中を、無我夢中で駆け抜ける。背後からは、**「それ」**の奇妙な囁き声と、木の枝が擦れるような音が追いかけてくる。
どれだけ走っただろうか。気づけば、夜はすっかり更け、あたりは完全な闇に包まれていた。息を整え、振り返ると、**「それ」**の姿はもう見えない。
安堵したのも束の間、俺はゾッとするものを見た。
俺たちが走ってきた道の両側に、奇妙な彫刻が延々と続いている。それは、さっき森の中で見た、人とも獣ともつかないあの形だ。
そして、その一つ一つが、俺たちの方を向いていた。
まるで、俺たちが「それ」の一部になるのを待っているかのように。
俺は、その時初めて理解した。この山は、遠野先生が言ったように、**「それ」**そのものなのだと。
そして、私たちはもう、この山から逃れることはできないのだと。
俺はゆっくりと、自分の耳を塞いだ。もう、**「それ」**の囁きは、すぐそこまで来ていた。