木々が囁く声が、より一層はっきりと聞こえるようになった。それはもはや、風の音や木の葉の擦れる音ではない。それは、俺たちの名前を呼んでいる。いや、正確には、俺たちの名を模倣している。
「タカ…キ…」
「ユ…ウ…ト…」
友人の一人が、虚ろな目で宙を見上げ、ゆっくりと口を開く。
「もう、疲れたよ…」
そう言って、彼はそのまま地面に座り込んでしまった。俺は彼を立たせようとするが、彼は動こうとしない。その顔は、まるで何かに魅入られたかのように穏やかで、しかしその瞳には、すでに人間としての光はなかった。
その時、背後の森から、再びあの遠野先生の模倣品が現れた。
だが、今回は一体だけではない。何体もの、手足が不自然に伸びた、人型の影が、木々の間からゆっくりと現れ、俺たちを取り囲んでいく。
その姿は、俺たち自身の姿を歪めて模倣しているようにも見えた。
俺の目には、もう一人の自分が、顔をひどく歪ませながら、こちらに手を伸ばしているように映る。
「こっちへおいで…」
俺の模倣品が、俺自身の声で囁く。その声は、耳を塞いでも、頭の奥に直接響いてくる。俺は恐怖に全身が震え、その場に立ちすくんでしまった。
友人の一人が、その誘いに抗うことなく、ゆっくりと立ち上がった。
彼の目は、すでに虚ろなままだ。
彼は、まるで催眠術にかかったかのように、自分を模倣する影に向かって歩き出す。
「やめろ!」
俺は叫び、彼の腕を掴む。だが、彼は俺の手を振り払った。その力は、以前とは比べ物にならないほど強かった。
「これで、楽になるんだ…」
そう呟くと、彼は**「それ」の腕の中に、自ら身を委ねた。「それ」**の身体は、まるでぬかるんだ泥のように彼の身体を包み込み、ゆっくりと、彼を飲み込んでいく。
彼の身体が、木の枝のように不自然に捻じ曲がり、皮膚が乾いていく 。
そして、見る見るうちに、森の中にあった奇妙な彫刻の一つと、同じ姿になってしまった。
俺は、そのおぞましい光景に、声も出せずに立ち尽くしていた。
気づけば、俺だけが残されていた。周りには、俺を模倣する**「それ」と、すでに「それ」**の一部となってしまった友人の姿が、静かにたたずんでいる。
俺は、ただ一つ残された、最後の理性で、その場から逃げ出した。再び、道なき道を、無我夢中で駆け抜ける。
どれだけ走っただろうか。いつの間にか、足はもう動かない。息も絶え絶えになり、俺は、一つの大きな岩の上に倒れ込んだ。
「もう…ダメだ…」
そう思った時、ふと、視界の端に、何か光るものが見えた。
それは、俺が首からぶら下げていた、祖父にもらった小さな護符だった。
俺は、その護符を握りしめる。すると、握りしめた部分から、温かい光が、じわじわと身体中に広がっていくのを感じた。
その光は、俺の心に巣食っていた恐怖を、少しずつ溶かしていく。そして、俺の頭の中に響いていた**「それ」**の囁き声が、次第に弱まり、遠ざかっていく。
「それは、お前自身の恐怖だ。お前が心から『それ』を信じた時、お前は『それ』になる。」
どこからか、遠野先生の声が聞こえた気がした。
俺は、顔を上げた。周りには、もう**「それ」**の姿はなかった。ただ、森の中に、無数の彫刻が、不気味に静かに佇んでいるだけだ。
俺は、護符をしっかりと握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
夜が明け、朝日が森の中に差し込んできた。俺は、朝日が照らす方向へと、ゆっくりと歩き出した。俺の心は、もはや恐怖に支配されてはいない。
だが、俺は知っている。この山は、まだ、**「それ」の支配下にあることを。そして、俺の友人が、まだこの山に、「それ」**の一部として、存在していることを。
俺は、いつかこの山に戻り、友人を、そして遠野先生を、この呪いから解放することを心に誓い、山を後にした。
もう、俺は**「それ」を恐れない。
だが、「それ」は、俺を忘れないだろう。
そして、俺の存在が、「それ」**にとって、新たな脅威となることを、俺は知っていた。
この物語は、ここで終わるが、俺の物語は、まだ始まったばかりだ。