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昇降口で「待ち伏せ」はなかった。靴箱の中の上履きが、水道水でビショビショにされているとか、上履きの中にゴミが詰め込まれていることもなかった。
いつもより十分注意して階段を登っていく。階段を登っている最中に突き飛ばされて、危うく大怪我をしそうになったこともあったから。
3階の教室に向かう道筋でも、連中は仕掛けて来なかった。
じゃあ、アイツ等は教室で待っているんだな、と根岸は思った。
通学路を36号と並んで歩いている時は、数十人のSPに守られているような安心感があった。
今は違う。自分の身一つと、胸ポケットの中に居る、口の達者なちびトカゲだけだ。
勇気、勇気が……燃え尽きた打ち上げ花火の残骸のように、急速に光を失い、色褪せていく。
「兄貴、大丈夫?具合が悪いの?」
ポケットの中から、フリーダが根岸を心配する。
「うん、ちょっと、おしっこ」
極度の緊張感のせいで、股間に尿意を覚えたものの、実際にトイレに来てみると、丸で尿は出なかった。このまま、HRが始まるまで、トイレの個室に隠れていようか、と根岸は思った。
「駄目だよ兄貴」
ポケットの中の味方が、根岸の思考を読み取って反論する。
「折角、ここまで来たんだよ。後は教室へ行って、アイツ等をぶっ倒してやるだけじゃない」
「怖いんだよ。僕、どうしようもなく怖いんだ」
根岸の膝が震えていた。
「何がそんなに怖いのさ?叩かれたり蹴飛ばされて痛いこと?皆の前で侮辱されて恥をかくこと?大事な物を取り上げられたり、壊されること?」
「分からない……分からないけど怖いんだ……」
知らず知らずのうちに、根岸の目尻に涙が溜まっていた。
4月の新学期からずっと植え付けられてきた恐怖心は、一朝一夕に拭い去れるものでもなかったのだ。
「最大戦力のデブは居ないよ。残っているのは腰抜けのカスばかりだよ」フリーダが説得を続ける。
「兄貴も見たよね。顔面を一発殴られて逃げ出した野球バカ。幻覚を見せられて女の子を見捨てて逃げ出したカス共のボス。耳たぶを千切られてメソメソ泣いていた馬鹿女。怖がる必要なんて無いんだよ。それでも怖い?」
「……」
根岸は黙って俯いている。
意気地とか勇気とか、そういう問題じゃないんだな、とフリーダは思った。
人間たちから度を越した虐待を受けた子犬のように、本能のレベルで全てを警戒している。そして、全ての者を、心から信頼していない。
信用しなければ、裏切られることもないから……
「ねぇ兄貴、ボクはね、こんな体だし、姐御ほどじゃないけど。それでも魔法は使えるんだ。だから、約束する。兄貴が一発でも殴られた瞬間、ボクがソイツを焼き殺す」
「え?」
フリーダの過激な提案に、根岸は耳を疑った。
「そして、もしボクが約束を果たさなかったら、その時は、ポケットの上から思いっ切り殴ってボクのことを叩き潰していいから」
「だって……お前……それじゃあ、あんまりにも……」
「信用と信頼は、命よりも重いよ兄貴。少なくともボクはそう教えられた。今からボクの命を兄貴に預ける。だから、教室に行こうよ兄貴」
このトカゲ、いや、フリーダは、覚悟と信念を持っていた。
信用と信頼を全てに優先させるという鋼鉄の信念。相手の弱さに寄り添う優しさ。必要な時に、ためらいなく命を棄てる覚悟。
末席とはいえ、七王の子は、王族に相応しい白銀に輝く高潔な魂を持っていた。
魂と魂は引かれ合う。
太陽の光を受けて月が輝くことが出来るように、フリーダの高潔な魂が、根岸の負け犬魂に火をつけたッ!
「お前っ……お前がそこまで言うのなら……僕、ボクは」
勇気を振り絞るために、根岸は力一杯、手を握りしめていた。
そうだよ、それでいいんだよ兄貴。
根岸のポケットの中で、フリーダは確かな手応えを感じていた。
勇気が恐怖心を打ち砕いた。次は、アイツ等をぶっ飛ばす。
「さあ兄貴、行こう」
根岸の膝は、もう震えていなかった。