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#一次創作
#薔薇
げすと
90
第4話
『忘れられた神様の神事』(リメイク版)
朝霧がゆっくりと町を包み込む頃。
路地裏のさらに奥、人の足音もまばらな細い石畳の先に、小さな喫茶店がひっそりと暖簾を揺らしていた。
喫茶猫又亭。
朝の柔らかな陽射しが窓から差し込み、木の床を黄金色に染めている。
店内では、たまが静かに珈琲豆を挽いていた。
ごり、ごり、と規則正しい音。
その香りが店いっぱいに広がった、その時だった。
カラン――
風鈴よりも少し低い音で、扉が開く。
「いらっしゃいませ。本日も――」
声を掛けたたまは、思わず言葉を止めた。
扉の前に立っていたのは、一人の青年。
雪のように白い長髪。
淡く光る灰色の瞳。
古びた狩衣のような装束はところどころ擦り切れ、それでもどこか神々しい気配をまとっている。
背中には、小さな社を思わせる木箱。
右手には鈴。
左手には一本の榊。
まるで祭礼から帰ってきた神職のような姿だった。
そして、その存在から漂う空気は、人間でも妖でもない。
もっと古く、もっと静かなもの。
たまは微笑んだ。
「……久しぶりですね。」
青年も小さく笑う。
「覚えていてくれたか。」
「忘れるわけありません。」
青年はゆっくりと窓際の席へ腰を下ろした。
しかし椅子が軋む音はしない。
まるで、この世に半分しか存在していないようだった。
しばらく沈黙が流れる。
たまは静かにお湯を沸かし始めた。
やがて青年がぽつりと口を開く。
「……猫又よ。」
「はい。」
「私は、もう神ではないらしい。」
たまは手を止めなかった。
青年は続ける。
「昔、この町には小さな祠があった。」
「春になれば花祭り。」
「夏には子どもたちが走り回り。」
「秋には豊穣を願い。」
「冬には静かに一年の終わりを祈る。」
鈴を見つめながら笑う。
「皆が私の名を呼んだ。」
「皆が手を合わせてくれた。」
「……それだけで十分だった。」
少し間を置いて。
「だが今は。」
窓の外を見る。
「あの祠は駐車場になった。」
「石碑も鳥居も取り壊され。」
「社は誰にも知られず土へ還った。」
静かな声だった。
だからこそ胸が痛くなる。
「神とは、人に忘れられた時、静かに力を失う。」
「もう、私の名を知る者はいない。」
「いや……もしかすると。」
苦く笑う。
「私がいたことすら、誰も知らない。」
店内には珈琲の香りだけが漂っていた。
たまは棚の奥から一つの珈琲缶を取り出す。
深く焙煎された豆。
この店でも滅多に使わない特別なものだった。
「今日は、この豆にしましょう。」
青年は目を細める。
「その香り……。」
「覚えていますか?」
「……祭りの朝。」
青年は懐かしそうに笑った。
「村人が大鍋で煎っていた麦の香りだ。」
「ええ。」
たまも微笑む。
「あなたが昔、『神酒より好きだ』って言っていたでしょう?」
青年は驚いたようにたまを見る。
「そんなことまで覚えていたか。」
「忘れませんよ。」
静かに湯を注ぐ。
ぽたり。
ぽたり。
珈琲がゆっくりと落ちていく。
その時間だけ、世界が止まったようだった。
やがてカップが運ばれる。
青年は両手で包み込み、一口飲んだ。
その瞬間。
閉じていた瞳がゆっくり開く。
「……温かい。」
その声は、まるで長い冬を越えた人のようだった。
しばらくして青年は静かに尋ねる。
「猫又よ。」
「はい。」
「神とは何のために存在すると思う。」
たまは少し考えた。
「人を幸せにするため……でしょうか。」
青年は首を横に振る。
「違う。」
「願いを叶えることではない。」
「人に願われることでもない。」
鈴が小さく鳴る。
「誰かが”そこにいてくれる”と思えること。」
「それが神だった。」
たまは黙って聞いていた。
「だが忘れられれば。」
「その居場所さえ消える。」
青年は笑う。
寂しそうに。
「私は願われたいわけじゃない。」
「ただ。」
「忘れられたくなかった。」
その一言だけが。
静かな店内に長く残った。
たまはカップを磨きながら言った。
「それなら。」
青年が顔を上げる。
「今日は私がお願いしましょう。」
「お願い?」
「はい。」
たまは優しく笑う。
「また来てください。」
「……。」
「信仰じゃありません。」
「神様だからでもありません。」
「あなたが、お客さんだから。」
青年は何も言えなかった。
「この店では。」
「神様も。」
「妖も。」
「人間も。」
「みんな同じです。」
「疲れたら帰ってきて、一杯飲んでいけばいい。」
「それだけです。」
青年の瞳が少し潤む。
「……久しぶりだ。」
「こんな願いを聞いたのは。」
ゆっくりと頷く。
「願われたなら。」
「応えよう。」
「神とは、本来そういうものだから。」
青年は穏やかに笑った。
その笑顔は、最初に店へ入ってきた時よりずっと柔らかかった。
珈琲を飲み終えると、青年は懐から小さな木の実を取り出した。
茶色く乾いた、親指ほどの実。
「これは?」
たまが尋ねる。
「昔。」
「豊作を願う祭りの日だけ供えられた”まじないの実”だ。」
「最後の一つ。」
「もう誰にも必要とされなくなったものだ。」
たまは両手で受け取る。
「ありがとうございます。」
青年は静かに立ち上がった。
帰ろうとした時。
たまはその木の実を店の神棚へそっと供えた。
その瞬間。
店いっぱいに、どこか懐かしい祭囃子が聞こえた気がした。
笛。
太鼓。
子どもたちの笑い声。
「ありがとう。」
青年は振り返らずに言う。
「今日は少しだけ。」
「神でいられた気がする。」
カラン――
扉が閉まる。
朝霧の向こうへ青年の姿は溶けていった。
店には静かな珈琲の香りだけが残る。
たまは神棚の木の実を見上げ、小さく微笑んだ。
「忘れられても、消えるわけじゃない。」
「誰かが覚えている限り、その存在はちゃんとここにある。」
神棚の木の実は、春の陽射しを受けて、ほんの一瞬だけ淡く輝いた。
――今日も猫又亭は、まったり営業中。
忘れられた神様にも、帰ってこられる場所がある。
そしてこの店は今日も、誰かの「おかえり」を静かに待っている。
コメント
3件
うわっ…第5話、沁みたぁ…😢💕 「忘れられたくなかった」って神様の一言が、めっちゃ刺さった……願われたいんじゃなくて、ただ"そこにいる"って思われたいだけって、すごく切なくて、でも温かいよね。 たまさんが「お客さんだから」って言うの、もう最高すぎるし😭✨ 神様も妖も人間も全部同じって、その距離感がたまらなく優しい……。 珈琲の香りと一緒にしたためられた静かな時間が、心にじんわり広がりました。 また次話、絶対読みます!!🌸