◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・深夜】
体育館の夜は、長い。
眠れている子もいる。
けれど眠れない子のほうが多い。毛布の中で目だけが光っている。小さな咳、鼻をすする音、床をこする寝返りの音――そのどれもが、怖さを起こす合図みたいに聞こえてしまう。
先生たちは交代で見回りをしていた。
「大丈夫だよ」
「水、飲める?」
「寒くない?」
同じ言葉を、何度も。祈りみたいに。
ハレルは体育館の壁際で、背中をつけたまま目を閉じた。
閉じても、頭の中は止まらない。
(消えた兵士)
(影の擬態)
(サキのスマホ)
(円を使えば穴が残る)
胃の奥が痛い。
不安が、硬い石になって沈んでいる。
その時だった。
体育館の出入口――扉の隙間から、すっと影が滑り込んだ。
先生が一人、反射で声をかける。
「……生徒? 勝手に出ないでって――」
入ってきたのは、学園の制服だった。
高等部のブレザー。ネクタイ。上履き。
髪型も、背丈も“それっぽい”。
ただ、顔が暗い。
照明を落としているせいだけじゃない。
目線が合わない。視線が床をなぞるように動いている。
その生徒は、体育館の中央に向かって歩きながら、ぽつりと言った。
「……今日、寒くないですか」
言葉が、妙に丁寧だった。
それだけで、周囲の空気が一度凍る。
(まただ)
ハレルの喉がひりついた。
現実側の黒い影――木崎が言っていた“世間話”の言い方と同じだ。
サキも気づいたのか、息を止めたままスマホを握り直した。
画面を開く。地図アプリ。
そこに、赤い点が出た。
体育館の中――今歩いている“生徒”に、丸いマークが重なる。
「……お兄ちゃん」
サキが小声で言う。声が震えているのに、目は逃げていない。
「……マーク、ついてる」
ハレルはネックレスを指で押さえた。
主鍵が、じわりと熱を持つ。
熱が合図みたいに、二度脈打つ。
体育館の奥で、別の生徒が泣きそうな声を出した。
「……何あれ、なんか変……」
先生が慌てて前に出る。
「君、名前は? クラスは――」
生徒は首を傾けた。
動きが、少し遅い。
そして、口がまた動く。
「……終電、もうないですよね」
「……寒いですね」
「……助けて」
言葉が、交互に出る。
意味のある会話と、壊れた救難が混線している。
「……下がって!」
保健の先生が声を張り、近くの生徒を後ろへ押す。
ざわめきが大きくなる。悲鳴が一つ上がる。
このままでは崩れる。
崩れた瞬間、影は“増える”。
ハレルはサキの肩に手を置いた。
「……やる」
サキが唇を噛む。
「でも、充電が――」
サキのスマホの残量表示は、すでに心細い。
使うたび減る。減れば終わる。
それでも、今使わないと終わる。
サキは震える指で、画面の赤いマークをタップした。
《強制退出させますか?》
《YES/NO》
サキが顔を上げる。
ハレルは頷いた。
サキは「YES」を押した。
――床が、光った。
体育館の床板に、淡い円が浮かぶ。
魔術陣のようで、でも魔術の匂いがしない。
青白い発光が走り、文字列が輪郭を作る。
“生徒”は、立ち止まった。
立ち止まったまま、まだ話す。
「……今日、寒くないですか」
「……助けて」
「……寒いですね」
声は普通。
普通すぎて、逆に異様だった。
次の瞬間、その身体の表面に――青白い文字列が走った。
腕、胸、頬、制服の襟元。
プログラムみたいな文字が無数に羅列して、身体を縛る。
影は笑ったように見えた。
顔の筋肉が動いたのか、煤が動いたのか分からない笑み。
「……大丈夫ですよね」
最後にそれだけ言い、
そのまま円の中へ――飲まれていった。
床が“吸う”。
空気が引っ張られる。
そして、影は消えた。
静寂が一拍だけ落ちる。
次の瞬間、体育館が爆発した。
「うわあああ!」
「消えた!?」
「何それ!? 何が起きたの!?」
泣き声と叫び声が混ざる。
先生たちが必死に声を張る。
「落ち着いて! 大丈夫! 今のは――!」
「みんな、座って! 走らない!」
ハレルは息を吐いて、サキのスマホを見る。
残量が、ごっそり減っていた。
サキの顔が青くなる。
「……減った……一気に……」
ハレルは言葉が出ない。
代償が、目に見える形で突きつけられる。
そして――床の円が、消えない。
光は薄くなったのに、輪郭だけが残っている。
そこだけ空気が冷たい。
近づくと、吸われる感じがする。
《……穴です》
セラの声が、かすかに耳の奥に触れた。
《膜が削れました。踏まないで》
ハレルはすぐに先生へ伝える言い方に変えた。
「そこ、近づかないで! 危ない! ……床が変なんだ!」
教頭がすぐ理解し、先生たちに叫ぶ。
「その辺に寄るな! 線を引け! 生徒を遠ざけて!」
体育教師がガムテープを引っ張り出し、円の周囲にバツ印のラインを作る。
それだけで、体育館の空気が少しだけ戻る。
“危険が見える”と、人は動ける。
サキはスマホを握りしめ、声を絞った。
「……これ、あと何回……」
ハレルは答えられない。
答えを言葉にしたら、心が折れる気がした。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/正門内側・警戒線】
イヤーカフがちり、と鳴った。
ノノの声が飛ぶ。
『アデル、今の円、二回目。学園の膜、削れた』
『残留、消えない。穴が“口”みたいに残ってる』
アデルの眉がわずかに動く。
「……やっぱり残るか」
リオが小さく舌打ちした。
「便利だけど、傷が残るってやつか」
『うん。しかも、放置はよくない』
ノノの声は速いが、変に命令口調にはならない。
『塞ぐならダミエ。
今イルダ側で忙しいけど、学園にも来てもらったほうがいい』
『穴が増えると、影が“通る”可能性が上がる』
アデルはすぐに返す。
「分かった。ダミエに連絡する。優先を一つ上げる」
門の外は静かだ。
静かすぎる。
獣も、影も、目に見える形では出てこない。
だからこそ、余計に嫌だ。
アデルは短く息を吐く。
「学園内の巡回を増やす。入口に人を寄せすぎない。夜明けまで持たせる」
兵士たちが頷き、警戒線がもう一段厚くなる。
それでも、欠けた兵士は戻らない。
戻らないまま、夜が進む。
◆ ◆ ◆
【現実世界・臨時指揮車両/移動中】
車両の窓の外で、赤色灯が流れていく。
湾岸へ向かう道は渋滞していた。
救急車、警察車両、自治体の車。
それでも進む。止まったら負けだ。
日下部はノートパソコンを膝に置き、地図ソフトを睨んでいた。
点が増える。円が濃くなる。
そして――円の上に、妙な“揺れ”が乗る。
「……動いた」
日下部が呟く。
城ヶ峰が即座に聞く。
「何が」
「円の縁。学園中心の輪、その一部が一瞬だけ跳ねた」
日下部は喉を鳴らした。
「向こう側で何か“使った”感じがある。……痕が残るタイプのやつ」
城ヶ峰は眉を寄せる。
「……学園側で動きがあった可能性か」
日下部は頷く。
「たぶん。便利な手段ほど、痕が残る。……地図の円が、その痕を拾ってる」
城ヶ峰のスマホが震える。
木崎からの返信――すぐに写真が数枚届く。
黒いOL型。煤の筋。文字列。
城ヶ峰は短く返す。
「受けた。現地に向かう。合流点を送る」
木崎からすぐ返事が来る。
《了解。俺も湾岸へ回る》
城ヶ峰はスマホを伏せ、前を見る。
ヘッドライトの列。遠くの煙。
世界が、現象じゃなくなっている。
「クロスゲートの“縁”を踏む」
城ヶ峰が言う。
「輪の上にある関係地を潰す。次の中心を作らせない」
車が湾岸の入口へ入った瞬間、空気が少しだけ変わった。
潮の匂いに混じって、乾いた白い粉の匂いがする。
ガラスを削ったような、冷たい匂い。
日下部が顔を上げた。
「……近い」
何が、とは言わない。
言わなくても分かる。
地図ソフトの点が、ここで一段濃くなった。
城ヶ峰が短く命じる。
「到着したら、二分で降りる。確認して、入る。迷うな」
日下部が唇を噛む。
「……はい」
車両が湾岸の暗い建物群へ滑り込んでいく。
その先に、クロスゲートの“残り香”がある。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・深夜】
体育館の床の円は、まだ残っていた。
誰も踏まないように、先生が線を引き、生徒を遠ざける。
それでも、円の中心から冷たい風が吸い上がる。
ハレルは、その円を見つめた。
穴。
戻るための可能性。
でも、開けば開くほど世界が削れる。
サキが小さく言った。
「……使ったら、守れた。でも……怖い」
ハレルは頷く。
「俺も怖い」
怖いと言える相手がいるだけで、まだ折れない。
体育館の端で、泣き疲れた子が眠っている。
先生が毛布を直している。
その光景が、今夜の“守る理由”だった。






