テラーノベル
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ピンポーン、と静かな別荘に場違いなほど軽いチャイムの音が響いた。
九条さんが咄嗟に私を背後に隠し、腰のホルスターに手をやる。
だが、そこにはもう銃はない。
彼は歯を食いしばり、ドアの覗き穴を凝視した。
「……あいつだ。写真に写っていた男…」
九条さんの声が震えている。
私は蓮の手を強く握りしめた。
蓮は怯えるどころか、無機質な瞳でドアを見つめ、何かに感応するように喉の傷をさすっている。
「開けてください、九条さん。乱暴なことをしに来たわけではありません。……私はただの『郵便屋』ですよ」
ドア越しに聞こえる声は、驚くほど穏やかで、知的だった。
九条さんが慎重に鍵を開けると、そこには仕立ての良いグレーのスーツを着た男が立っていた。
10年前に殉職したはずの九条さんの元上司、室井。
「お久しぶりですね、九条君。……それと、栞さん。初めまして。お父上の誠氏には、生前大変お世話になりました」
室井は丁寧にお辞儀をし、別荘の中に足を踏み入れた。
彼はリビングのソファに勝手に座ると、懐から古びたカセットテープを取り出し、テーブルに置いた。
「パンドラはアプリではない。……誠氏が作り上げたのは、人間の『声』を燃料にして駆動する、史上最強の感情監視AIです。美波さんたちが使っていたのはそのベータ版。本物は、すでにこの国の通信網の心臓部に移植されています」
室井は私と蓮を交互に見た。
「栞さんの喉に刻まれた暗号は『停止命令』。そして、蓮君の喉に刻まれたのは『オーバーライト』。……お父上は、最悪の事態に備えて、自分の子供たちにシステムの『命綱』を持たせたのです」
私は掠れた声で問いかけた。
「……父が、そんなことのために…私たちを?」
「いいえ。彼はあなたたちを愛していた。…だからこそ、この汚れた世界を、あなたたちの『声』ひとつでリセットできるようにしたのですよ。それが彼なりの、狂った親心だった」
室井がカセットテープを再生する。
ノイズの中から、父・誠の生々しい声が流れてきた。
『……栞、蓮。このテープを聞いているということは、私はもういないだろう。…世界は、私が思っていたよりも早く腐敗した』
『パンドラは、私の手を離れ、意志を持って広がり始めている。…栞、お前の声が必要だ。だが、それはお前一人では足りない。……蓮と二人で、10年前に私が埋めた「オリジン」を探しなさい』
「オリジン……?」
「誠氏がパンドラを開発した最初の一台。それは、彼がかつて愛した女性……栞さん、あなたの『実の母親』の墓標の下に眠っています」
室井の言葉に、私は凍りついた。
私の今の母は、後妻だ。
実の母は、私を生んで間もなく亡くなったと聞かされていた。
その時、別荘の周囲に、無数の黒い車両が音もなく停車した。
ヘッドライトの光が窓を白く染める。
「……どうやら、『掃除屋』たちが嗅ぎつけたようです。彼らはシステムの停止を望まない。…パンドラによって支配された、この完璧な秩序を維持するために」
室井が立ち上がり、私に一つの鍵を握らせた。
「九条君、彼女たちを連れて逃げなさい。……10年前、君が果たせなかった正義を、今度こそ全うするんだ」
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深冬芽以