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第1話 拾った音
夜の川は、昼のことを黙っていた。
地上の熱をすべて忘れたふりで、水だけが細く流れている。岸の近くに積まれた発電輪は止まり、木の軸に残った湿りがじわりと冷えていた。昼に触れば指先が焼けそうになる鉄の留め具も、いまは静かで、息をかければすぐ曇りそうなほど温度を落としている。
ナミオはその輪の横をしゃがんで通り、床の抜けた見張り小屋の下に身を滑らせた。
小屋の梁には昔の板が残っていて、斜めに傾いた柱がちょうど背を隠す。ここは誰かのものではない。誰も使っていないが、誰も捨てていない場所だった。そういう場所は、拠点の端にいくつもある。壊れた荷車の影、使われなくなった地下口の脇、川沿いの板小屋の裏。昼を避けて夜にだけ生きる人間は、残すことと捨てることの境目を、昔よりずっと曖昧にしていた。
ナミオは胸ポケットから細い針金を出し、布にくるんだ小さなねじを歯で押さえた。
膝の上には老爺からもらったラジカセがある。
角が欠け、持ち手は片側だけ別の鉄で継がれていた。つまみは片方が丸く削れ、片方は途中から裂けている。表面の傷のあいだに入りこんだ赤い砂が、いくら払っても完全には落ちない。裏の蓋は一度なくなったのか、別の板で閉じてあった。中の配線は見れば見るほど変だった。古いままの部分と、誰かがあとから足した部分がある。老爺の手か、その前の誰かの手か、ナミオにはわからない。ただ、壊れたまま死んでいない機械のにおいがした。
川から冷えた風が上がる。
ナミオは耳をすませ、つまみを少し回した。
ざ、と短く砂を払うみたいな音が鳴る。
すぐに止まる。
もう一度、ざ。
それから何も鳴らない。
ナミオは口の端を少し上げた。鳴らない機械の無言と、あと一歩で何かが起きそうな無言は違う。いまのこれは後者だった。
針金を差しこみ、配線の先を押さえる。指先にわずかな震えが返ってくる。電力はない。いまここで使っているのは、昼のあいだに自分で回してためた分だけだ。食事一回分にもならない小さな力。それでも、暗い場所でひとつのつまみが返事をするには足りる。
ざ、ざ、ざ。
細く開いた音のすき間に、遠くで水が跳ねる気配が混じった。
ナミオは動きを止めた。
川ではない。
ここではない。
ラジカセの奥だ。
もう一度つまみを回す。
ざあ……ざ……。
そこに、今度は人の息みたいなものが混ざる。
ナミオは反射で振り返った。背後には傾いた板と夜しかない。誰もいない。風も止まっている。
それでも、いま確かに、耳の近くで誰かが息を吐いたように聞こえた。
喉がゆっくり上下する。
ナミオはラジカセを両手で持ち上げ、自分の膝にぴったりつけた。頬にあたる金具がひやりとする。
「……もう一回」
自分にだけ聞こえるくらいの声で言って、つまみを戻した。
ざ。
ざ、ざ。
ぱつ、と小さく火花のような音がして、そのあとに低い響きが続いた。
何かが遠くで転がる音。
人の靴音。
紙をめくるようなかさつき。
そして、
短く切れた、歌のはじまりみたいなもの。
ナミオの肩がびくりと跳ねた。
それはほんの二息ぶんで終わった。言葉にもならず、旋律と呼ぶには短く、ただ、音の並びだけが残った。けれど、ざらついた雑音の海の中で、それだけが妙に丸かった。石だらけの地面に落ちたひと粒の果物みたいに、そこだけ形が違った。
ナミオはその場に固まり、口を開けたまましばらく動かなかった。
やがて、笑うでもなく、驚くでもなく、ただ奥歯を軽く噛んだ。
見つけた。
そんな顔だった。
小屋の外で足音がした。
ナミオは反射でラジカセに布をかぶせ、身を縮めた。
「いるの、わかってるぞ」
低い声が板の向こうから来た。
カザンだ。
ナミオは舌打ちしかけてやめた。出るか、このまま黙るか、一拍迷ったあとで這い出した。カザンは梁に片手をかけて立っていた。袖をまくった腕に川の湿りが乗っている。
「またそこか」
「ここ、音がよく返るから」
「返っても腹はふくれない」
カザンは言って、布の下のかたちを見た。ラジカセだとすぐ気づく顔をしたが、叱るほどの力はその顔に乗せなかった。
「食うぞ。今日はトウヤが開けるの失敗して、ひと缶つぶした」
「じゃあ早く行かないと」
「おまえの話が先だろ」
ナミオは布を持つ手を止めた。
「まだ話してない」
「話す顔してる」
カザンは笑い、鼻筋の横の傷だけ先に動いた。
夜の食堂は地下口のすぐ脇にある。といっても、もともとは倉庫だった場所だ。壁には古い棚が並び、天井の梁に吊るされた灯りは弱い。人力発電の明かりはいつも頼りなく、皿のふちに当たるとそこで止まる。部屋の奥はすぐに影になる。けれど、その頼りなさが、ここでは落ち着きの形でもあった。
人が集まる時間になると、保存食の匂いと温めた地下菜の匂いが混ざる。川水を煮た湯気には、金気みたいな嫌な後味がいつも少しだけある。それでも、あたたかいものが目の前にあるだけで場はやわらいだ。
トウヤが缶の潰れた豆を皿に移しながら、ナミオを見る。
「来た。今日は何拾った」
「まだ整理してない」
「整理してないやつのほうがおもしろい」
「たしかに」
向かいにいた女が笑った。誰も名前を呼ばない。ここでは、すぐ目の前にいる相手を呼ぶ必要があまりない。手を伸ばせば触れられる距離で、一晩をやりすごしているからだ。
ナミオは壁ぎわに座り、ラジカセをそっと膝の横に置いた。
「今日は声じゃない」
それだけ言うと、カザンがもうひとつ皿を押してきた。
「食いながらでいい」
「先に言う」
「ほらな」
笑いが小さく広がる。
ナミオは皿に手をつけず、指先でラジカセの角を撫でた。
「あれ、歌の手前みたいな音だった」
「歌の手前」
「うん。歌そのものじゃない。もっと短い。けど、ただの雑音とも違う」
「前にも似たような話した」
「前のは水の音の奥に拍があったやつ」
「ああ、それ」
トウヤが言ったが、その目はもう半分忘れていた。ナミオはそれを見ているのに、いちいち腹を立てなくなって久しい。
「今回は人の気配があった。靴音も、紙も」
「紙」
「紙をめくる音」
「紙って、あの薄いやつか」
「たぶん」
「まだあるんだな」
「あるだろ。前の時代なら」
そこで場が少し静かになった。
前の時代。
二十一世紀。
その言い方を、いまはもう誰もしない。世紀という言葉が口の中に残らなくなって久しい。けれど、老爺から断片的に聞いた話をナミオが並べるときだけ、そこはまだ続いているみたいに感じられた。
昼に外を歩けたこと。
遠い相手の顔を見ながら話せたこと。
水を冷やして飲んだこと。
動物が近くを通っても誰も息を止めなかったこと。
そのたびに労働者たちは頷いたり、笑ったり、呆れたりする。翌日には半分消えている。けれど、その場では確かに娯楽だった。
「紙をめくる音、聞いたことないな」
トウヤが缶のふちを指で弾きながら言う。
「ある。老爺の部屋で」
「それ紙じゃなくて薄い板かもしれない」
「板はあんな音しない」
「じゃあ紙なんだろ」
カザンは豆を口に運び、ナミオの皿を指で叩いた。
「食え。音は逃げない」
「逃げるよ。逃げるやつは逃げる」
「なら口に詰めこんで追え」
また笑いが起きる。
ナミオはしぶしぶ皿に手を伸ばした。地下菜は柔らかすぎて形がなく、保存豆は塩気が強い。それでも腹に入ると体が落ち着く。食べているあいだも、耳の奥ではさっきの短い音が鳴っていた。
歌の手前。
たしかにそうだった。
完成しているものではない。けれど、崩れてもいない。何かが始まる前、息を吸うみたいな一瞬。そこだけ掴んだ感じがある。
「また夜の通信あるだろ」
カザンが言う。
「今日、日本の番だったな」
「うん」
「その前にミツが機嫌悪くなる顔、見に行くか」
「見に行かない」
「見ろよ。毎日同じ時間にしか喋れないのに、毎日同じ顔するんだぞ。すごい」
ナミオは口元をゆるめた。
ミツは通信の管理をしている。決まった時刻になると、発電担当が輪を回し、送受信台に力を流す。毎日同じ時間。毎日ほとんど同じ内容。水位、収穫、故障、病人の数、川の変化、風の癖。軽い会話が混じることもあるが、それも報告の端に乗る程度だ。時間を延ばせば延ばすほど他が削られるから、言葉は短くなる。
ナミオにはその短さが息苦しく感じられることがある。
ミツには、それが唯一まともな形に見えている。
「おまえの変な音、通信に乗せるなよ」
トウヤが言う。
「乗せない」
「前もそう言った」
「前は乗せてない」
「乗りかけた」
「乗ってないならいいだろ」
「だめだろ」
誰かが吹きだした。
ナミオは皿を空けると立ち上がり、ラジカセを抱えた。
「老爺んとこ行く」
「またか」
「紙の音、確かめる」
「ついでに一食分の礼でも言っとけ」
「言ってる」
「毎回言え」
「毎回言ってる」
「じゃあいい」
カザンはそれ以上止めなかった。
地下の長い通路は、夜でもところどころ暑かった。地面の熱が抜けきらない場所がある。壁に手を触れると湿ったぬくみが残り、空気の流れが止まる角では息が重くなる。昔の地上と地下の境目は、今ではほとんど意味を失っている。人の住む場所が下へ下へとずれた結果、地下は単なる避難先ではなく、生活の表側になった。
老爺の部屋は通路の終わりに近い、小さな横穴みたいなところにある。
戸はなく、布が一枚垂れているだけだ。ナミオがそこをくぐると、乾いた油と古い布の匂いがした。
老爺は起きていた。
膝の上に別のラジカセを置き、なにも鳴らないまま撫でている。いつも通りだ。鳴らない機械に触れる手つきだけが、現役の職人みたいに正確だった。
「来たか」
「起きてた」
「寝てる日もある」
「今日は起きてる」
「おまえが来る顔してたからな」
ナミオはそれに答えず、部屋の入口に腰を下ろした。奥まで入ると出たくなくなる熱がこもっている。
「紙の音ってどんなだっけ」
老爺はナミオの腕の中のラジカセに目をやる。
「聞こえたのか」
「たぶん」
「たぶん」
「それと、歌の手前みたいなの」
老爺は少しだけ肩を動かした。笑ったのか、息を深くしたのか、曖昧な揺れだった。
「歌の手前はいい」
「いいの」
「歌より先に、手前が来る」
「手前だけで終わった」
「終わったなら、また来る」
ナミオは黙った。
老爺の言葉は、わかるようでよくわからないときが多い。けれど、わからないまま捨てるには惜しい形で残る。
「紙の音は」
老爺は自分の脇に積んであるものを探り、薄い一冊を取り出した。
布でも板でもない。端がめくれ、触れれば破れそうなもの。
ナミオは身を乗り出した。
「それ、まだ持ってたの」
「まだ、というほど持ってない」
老爺は一枚、指でめくった。
しゃり。
ほんの軽い擦れ。
そのあとに、薄いものが空気を切るかすかな揺れ。
ナミオの背中がすっと伸びた。
「それ」
「聞いたか」
「聞いた」
「紙だ」
「紙だ」
老爺は一冊を閉じ、また膝に戻した。
「前の時代は、音が今より多かった」
「多いって、通信より」
「通信より。足音より。もっと無駄な音が」
「無駄」
「役に立たん音がそこらじゅうにあった」
ナミオはその言い方が好きだった。
役に立たない。
いまの世界では、役に立たないものは後ろへ追いやられる。灯りの届かない棚の上、通路の端、食事のあと、仕事の前、眠るまでのわずかな隙間。そこにだけ置かれる。音楽はその数少ない例外だが、それでも最優先にはならない。腹の足しにはならないからだ。
「でも、役に立たないのに残ってる」
ナミオが言うと、老爺は頷いた。
「残り方が強いんだろうな」
部屋の外で風が曲がった。
布が揺れ、細かな砂が床をなぞる。
ナミオはラジカセを引き寄せた。
「いま、もう一回試す」
「やれ」
「電力、あんまりない」
「足りない時の音もある」
ナミオは裏蓋を外し、ためていた小さな電力板を差しこんだ。昼のあいだ、自分でこっそり回した手回し機の分だ。老爺はなにも言わない。止めれば止まるし、やらせればやる。それだけだった。
つまみを回す。
ざ。
ざあ。
低い雑音が部屋の熱に混じる。
ナミオは耳を近づけた。老爺もわずかに顔を寄せる。
何もない。
ざ、ざ。
何もない。
ナミオは少しずつ角度を変えた。ラジカセの上部につないだ細い針金を持ち上げ、壁に寄せる。床に近づける。布の下へ向ける。
ざ……。
そこで、不意に音の質が変わった。
ざらつきの奥に、薄い唸り。
老爺の目が細くなる。
その唸りは一定ではなく、長く伸びたあと、急に短く切れる。もう一度、長く。次は短く二回。ナミオは息を止めた。
これは前と違う。
雑音に似ているのに、偶然の散り方をしていない。
「……聞こえる?」
「聞こえる」
「いまの、規則ある」
老爺は返事をせず、ただ顎を引いた。
長い。
短い。
長い。
短い、短い。
短い。
また長い。
ナミオの脳のどこかが痺れる。胸の奥ではなく、耳の裏側が先に熱くなる感じだ。音を聞いているのに、光を見たときみたいな反応が体の内側で起きる。
長い。短い。短い。長い。
そこへ、また別の音が重なった。
低く伸びる、あの歌の手前。
ほんの二息。
その上を、規則ある唸りが通る。
ナミオは思わず笑った。
「ある」
「あるな」
「誰かいる」
「いるかもしれん」
「いまの、ただの機械音じゃない」
「ただの機械音にしては、律儀だ」
ナミオは針金を握る手に力をこめた。指先が震えている。
誰かいる。
どこかに。
ここではない場所で、何かが鳴っている。
それが今なのか、前なのか、わからないまま。
「もう一回」
ナミオはつまみを少し戻した。
ざ。
音は逃げた。
ざあ……。
戻らない。
老爺はそのまま何も言わなかった。ナミオも言わなかった。二人で雑音の海を探り、ただの砂を掬っては落とすみたいな時間が続く。
やがて電力が切れた。
ラジカセは小さく喉を鳴らして黙る。
沈黙のあとに残ったのは、部屋の熱と、遠い川の音と、自分たちの呼吸だけだった。
ナミオはしばらく動かず、やがてゆっくり顔を上げた。
「聞こえたよな」
「聞こえた」
「俺だけじゃない」
「おまえだけじゃない」
ナミオは膝に置いたラジカセを見た。
傷だらけの箱。
欠けた角。
継がれた持ち手。
赤い砂の入りこんだ溝。
そんなものが、たった今、ここではないどこかを連れてきた。
「明日の通信の前」
ナミオが言う。
「もう一回やる」
老爺は答えない。
否定もしない。
ナミオはそれを許しだと受け取った。
部屋を出ると、通路の空気が少し冷えていた。発信の時刻が近い。遠くで人の足音が集まり、発電輪の軸が回りはじめる低い唸りがかすかに響く。毎日同じ時間に、毎日同じように世界とつながるための準備。
ナミオはその流れに逆らうみたいに、通路の脇へ身を寄せた。
ミツが向こうから来る。
通信板を抱え、まとめた髪の先が歩くたび揺れる。喉の近くの小さな泥化の跡が、灯りの弱さの中でわずかに浮いた。
「そこ、通る」
ミツが言う。
ナミオは壁に背をつけた。
「今日、なに送るの」
「いつも通り」
「いつも通りって」
「水位、地下菜の数、発電輪の摩耗、軽い私語」
「私語って軽くていいんだ」
「軽くないと困る」
ミツは通り過ぎかけて、ナミオの足元のラジカセを見た。
「またそれ」
「またこれ」
「昼の分、無駄にしてないだろうね」
「無駄じゃない」
「通信より先に使ったら無駄」
「聞こえたんだよ」
ミツの足が止まった。
「何が」
「音」
「音なんていつも聞こえる」
「そうじゃない」
ナミオは言ってから、少し迷った。
説明すると、すぐに逃げていく感じがした。さっきまで確かにあったものが、口に出した途端、ただの気のせいに薄まってしまう気がする。
けれど、黙っても何も進まない。
「規則のある音。唸りみたいなやつ。あと、歌の手前」
ミツは瞬きもせず見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「疲れてる」
「疲れてない」
「みんな疲れてる」
「俺は今、ちゃんと起きてた」
「起きてて聞こえるものもある」
「聞こえたんだって」
ミツは少しだけ首を傾けた。相手を否定するときの顔ではない。相手の言っていることを、いったん棚の上に置く顔だ。
「通信が終わってから」
「うん」
「時間が残ったら、聞く」
ナミオは一拍遅れて頷いた。
それだけでも十分だった。
発信室にはすでに何人か集まっていた。
人力輪が二つ、壁沿いに並ぶ。片方にカザン、もう片方にトウヤがつく。床には発電の振動がかすかに伝わり、送受信台の針がゆっくり起きあがる。灯りが少し強くなり、壁の擦れた跡まで見えた。
ミツが板を置き、席に座る。
短い確認。
応答。
点と線のように切れた音が室内を走る。
ナミオは壁ぎわに立ち、いつもの通信を眺めた。毎日同じなのに、毎日少しだけ違う。打つ速さ、息継ぎ、返ってくる間。相手の癖がそこに残る。
今夜の通信も、最初は変わらなかった。
アメリカ。正常。
大中国。遅延あり。
ロピ。風強し。
中東。観測継続。
自治区。位置不定。
短い報告が行き交う。
ミツの指は迷わない。相手の小さな崩れもきちんと拾い、余計な感情を乗せずに返す。その正確さを、ナミオは少しだけ羨ましく思うことがあった。自分にはたぶん無理だ。音を聞くたび、余計なものまで一緒に拾ってしまう。
通信が半ばを過ぎた頃、発電輪を回すトウヤの足がわずかにもつれた。
針が揺れる。
音が一瞬、ふくらんだ。
その、ほんの一瞬だった。
送受信台の乾いた信号音の底に、別の響きが混じった。
低く、長い。
短く二回。
長く。
ナミオの背筋が立つ。
同じだ。
さっきの。
「待って」
思わず声が出た。
室内の全員が一瞬だけナミオを見る。
ミツの手は止まらない。
「静かに」
「今、混じった」
「発電の揺れ」
「違う」
「ナミオ」
「違うって」
次の瞬間、また混じった。
低い唸り。
短く、長く、短い。
送受信の規則とは別の、もうひとつの規則。
ナミオは壁から離れた。送受信台に近づく。ミツが片手で制する。
「触らないで」
「今の聞いて」
「聞いてる。だから触らないで」
その声は低いが、怒鳴ってはいない。
ナミオは止まり、かわりに耳を寄せた。
信号音。
応答。
発電輪の回転。
息。
汗の落ちる気配。
その全部の下に、ある。
見えない糸みたいに、別の音が通っている。
「……これ」
ナミオは呟いた。
「誰にも、聞こえない?」
誰も答えない。
カザンは輪を回しながら眉をひそめ、トウヤは息を乱し、ミツは板に目を落としたまま指を打ち続ける。
聞こえていないのか。
聞こえているのに、今はそれどころじゃないのか。
わからない。
通信は最後まで続いた。
終わりの打音が消え、針がゆっくり伏せる。発電輪も止まり、部屋に残るのは急に大きくなった人の呼吸だけだ。
ミツは板から目を上げた。
「今の」
ナミオが先に言う。
ミツは喉元を押さえるように一度指を置き、そして言った。
「最初の一回は聞こえた」
ナミオの目が開く。
「ほんとに」
「混線か、摩耗か、外からの拾いかはわからない」
「でも聞こえた」
「聞こえた」
トウヤが輪から手を離し、その場にへたりこんだ。
「俺はわかんなかった。足で死んでた」
「俺も半分は床の音だと思った」
カザンが肩を回す。
「でも、ナミオの顔がうるさかったから、何かあったのはわかった」
ナミオはその言い方にむっとしながらも、笑いそうになった。
ミツが送受信台の側面を確かめる。
「明日、点検する」
「今じゃだめ」
「今は電力がない」
「俺の分使う」
「明日の食事一回分と交換になる」
「いい」
「よくない」
ミツはようやくナミオをまっすぐ見た。
動きの速い目だが、その時だけは静かに止まった。
「聞こえたなら、逃げない」
その言葉は短かったが、ナミオには十分だった。
発信室を出ると、夜は少し深くなっていた。
川の方から湿った風が上がる。上の地上では、赤い砂が昼の名残を抱えたまま沈んでいる。誰もいない時間の広がりが、天井のさらに上にある気