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#一次創作
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第2話 意味のない信号
その夜、地下の通路は少しだけ湿っていた。
川の水位が上がると、土の奥から重いにおいが上がってくる。腐るほどではない。けれど、乾いた日が続いたあとの湿りには、誰かの古い服をほどいた時みたいな、閉じ込められた時間のにおいがある。
ナミオはそのにおいの中を急ぎ足で抜けた。
胸の前には布にくるんだラジカセ。脇には細い針金を巻いた板。工具の入ったポケットが歩くたびに小さく触れ合う。音は小さいのに、本人にはうるさく感じる。頭の中に、昨夜の長い音と短い音がまだ残っているせいだった。
長い。
短い。
長い。
短い、短い。
あれはただの混線じゃない。
起きてからずっと、その形だけが耳の裏に引っかかっていた。
昼のあいだ、みんなが寝たり、短い仕事を片づけたり、発電輪の補修をしたりしている時間も、ナミオは古い整備室にいた。誰も使っていない机の上にラジカセを置き、何度も蓋を開け、何度も閉めた。中の線は少し焼けていた。昨夜、無理に拾った熱が残っていたのだろう。古い部品に新しい力を押し込めば、どこかが先に悲鳴を上げる。
それでも、止める気にはならなかった。
やっと見つけたものだった。
紙の音。
靴音。
歌の手前。
そして、規則のある唸り。
ただ拾うだけじゃ足りないところまで、もう気持ちは進んでいた。
ナミオは通路の角を曲がり、半分埋もれた倉庫跡に入った。
扉はとうになく、入り口の脇に積まれた箱も空だ。中には古い棚と、足の短い台と、欠けた椅子がひとつある。壁の一部は湿気で膨らみ、指で押せば柔らかい音がしそうだった。ここは夜の仕事が一段落したあと、誰にも見られたくないものをいじるには都合が良かった。
ナミオは椅子を蹴って壁際へ寄せ、ラジカセを台の上に置いた。
布を外す。
傷だらけの箱が、弱い灯りの中で鈍く沈む。
「よし」
誰に言うでもなく呟き、ポケットから小さな電力板を二枚出した。昼のあいだに自分でためたものと、前に壊れた発電灯から抜いた残りだ。食事一回分にもならない。けれど、鳴らすだけなら足りる。拾うだけでなく、今夜は流してみたかった。
昨夜拾ったあの形を。
意味にも命令にもならない、あの手前を。
ナミオは板を差し込み、針金を上部の継ぎ目に巻いた。そこから先は手が勝手に動く。細い線を削る。別の端子に触れさせる。戻す。つまみを回す。角度を変える。
ざ。
ざあ。
いつもの雑音が小さく開く。
何もない。
ナミオは片耳を寄せたまま、机の上に指先で昨夜の規則を打った。
長い。
短い。
長い。
短い、短い。
「……これを」
音で返せないか。
言葉じゃなく。
信号でもなく。
音の並びとして。
それは無茶だった。もともとの送受信台みたいに整ったものではない。古びたラジカセに針金を足し、線をつなぎなおしただけの箱だ。けれど、だからこそ、命令された通りにしか鳴らない機械より、変な鳴り方をする余地がある気がした。
ナミオはつまみを半分戻し、小さく息を吐いた。
ざっ、と雑音が揺れる。
そこへ、指先で端子を二度触る。
短い音がふたつ、砂を弾くように走った。
ナミオの目が開く。
もう一度。
今度は長く押さえる。
低い唸りがわずかに伸びる。完全な直線ではない。途中でかすれ、雑音の底に沈みかける。けれど、昨夜のものに少しだけ似ていた。
「いける」
ナミオは立ったまま、台に膝をぶつけた。痛みより先に笑いが出る。
短い。
短い。
長い。
短い。
端子に触れる時間を変えるたび、音の形が変わる。
整ってはいない。けれど、並べれば何かになる。
ナミオは何度も試した。長く押さえれば唸りが伸びる。短く叩けばはじける。途中でつまみをずらせば、二つの音のあいだにざらついた幕が落ちる。その幕が、かえって面白かった。綺麗すぎる音より、赤い砂が少し混じったもののほうが、この世界では本物に感じられた。
やがて、ただの規則では足りなくなってきた。
長い。
短い。
長い。
そこへ、昨夜の歌の手前に似た揺れを足したい。
ナミオはつまみをゆっくり回した。低い雑音の底に細い鳴りが生まれる。さらに端子を押さえると、鳴りは少しふくらんだ。ほんの短い、二息ぶんの揺れ。
それを長い音のあとに置く。
短い音のあいだに挟む。
順番を変える。
何度も。
何度も。
台の上で、誰にも名前をつけられていない小さな列が生まれていく。
ナミオはもう笑っていなかった。顔つきが静かになる。耳に入るものが増えるたび、表情は消えていく。指先だけが忙しい。
長い。
揺れ。
短い、短い。
かすれ。
長い。
その並びが突然、ひとつのかたまりに聞こえた。
言葉ではない。
歌でもない。
けれど、投げればどこかへ届きそうな形。
ナミオはそこで手を止めた。
「これだ」
倉庫の外を誰かが通る足音がした。
ナミオは反射でラジカセに布をかけかけて、やめた。
足音は遠ざかる。
胸の奥だけが速く鳴っていた。
誰にも聞かせたくない気持ちと、誰かに聞かせたい気持ちが、喉の下で押し合っている。
結局、ナミオは布をかけずにそのままにした。
もう一度、同じ並びを流す。
長い。
揺れ。
短い、短い。
長い。
雑音がそれを包み、輪郭を崩す。
崩れるたび、かえってそれらしくなった。
整いすぎると報告になる。
崩れすぎるとただの故障になる。
その間に置けるかどうか。
ナミオは自分でもわからないまま、何度も同じ列を流した。
やがて電力板のひとつが切れ、音がふっと痩せる。
それでも止めず、二枚目の残りで続ける。
いつのまにか息は浅く、肩は前へ出ていた。外の気配も、通路の温度も消えている。耳と指先だけが、この暗い倉庫で先に起きていた。
その時だった。
「やっぱりいた」
入り口の影から声がして、ナミオは本気で飛び上がった。
ユラが立っていた。
肩のあたりで切りそろえた髪を雑に布で縛り、長い袖の上着の中で両腕を組んでいる。目の下には薄い影。けれど、何か見つけた時だけ先に弾むあの目をしていた。
「びっくりした」
「そっちだよ。今の何」
「何って」
「鳴ってた」
ナミオはラジカセを抱え込むように引き寄せた。
「聞いてたの」
「通る時に聞こえた。報告みたいで、報告じゃなかった」
ユラは中へ入り、欠けた椅子の背に手を置いた。
「変なの」
「変でいい」
「いいんだ」
「うん」
ユラは少し笑った。
「意味あるの」
「まだない」
「まだ」
「たぶんそのうちできる」
「意味が」
「意味かもしれないし、意味じゃないかもしれない」
ユラは眉を少し上げた。眠そうな顔をしていても、その仕草だけは子どもみたいだった。
「それ、何に使うの」
「流す」
「どこに」
「どこにって……」
ナミオはそこで口を閉じた。
本当は自分でも決めていなかった。ただ鳴らすだけでは足りず、流すと言ってみたかっただけなのかもしれない。けれど、一度口に出した言葉は戻らない。
ユラは椅子に腰を掛けた。
「私、今日の地下菜運び終わった」
「うん」
「あと少しで通信の時間」
「うん」
「その前にやる気なんだ」
ナミオはラジカセから目を離さず頷いた。
「今日、送受信台に混ぜてみたい」
「混ぜる」
「一瞬だけ」
「怒られるよ」
「わかってる」
「ミツに」
「わかってる」
ユラは長い袖の端を指でいじった。
「でも、聞いてみたい」
ナミオはやっと顔を上げた。
ユラは笑っていなかった。けれど、止める顔でもなかった。
「何も意味がなくても、聞いてみたいのってあるし」
その言い方が、ナミオには少し嬉しかった。
「今の、もう一回やって」
ナミオは返事をせず、つまみを回した。
ざ。
ざあ。
長い。
揺れ。
短い、短い。
長い。
ユラは目を細めた。灯りが弱い中で、その目だけが少し遠くを見る。
「変」
「そう」
「でも、途中だけ、誰かが息吸う前みたい」
ナミオの喉が動いた。
「それ」
「何」
「それだ」
「何が」
「昨日も、そんな感じだった」
ユラは何度か頷いた。
「息を吸う前。あと、何か思い出しそうで思い出せない時みたい」
ナミオはその言葉を心の中で繰り返した。
思い出しそうで、思い出せない。
歌の手前。
言葉の手前。
意味の手前。
たぶん、自分が掴みたかったのはそこだった。
「ナミオ」
「うん」
「これ、ほんとに流すなら、今しかないよ」
ユラは立ち上がった。
「発電輪が回る前後は、雑音が多い。ちょっと混じっても、たぶんすぐわかんない」
「わかってるね」
「地下菜の換気音で耳育ってるから」
それだけ言って、ユラは入口の影へ戻った。
「私、見てないことにしてあげる」
「やさしい」
「あとで面白かったら教えて」
「うん」
「つまんなかったら?」
「黙っとく」
ユラは少し笑い、そのまま通路へ消えた。
ナミオはひとりになると、いっそう静かになった。
今しかない。
その言葉が、倉庫の湿った壁にくっついて離れない。
一瞬だけ混ぜる。
送受信台に。
毎日同じ時刻に、毎日同じように世界とつながる、その決まった線の中へ。
ナミオは残った電力を確かめた。足りるかどうか、ぎりぎりだった。けれど、ぎりぎりじゃない時なんて、この世界にはあまりない。
倉庫を出ると、通路は通信前の静けさに変わっていた。
仕事終わりのざわつきが薄れ、発電担当の足音だけが少し速い。誰もが同じ時刻を意識して動く時間。食堂に残る皿の音も小さくなり、地下口の近くでは会話が自然に短くなる。
通信は最優先だ。
今日も変わらない。
変わらないはずだった。
発信室の前では、カザンがすでに手首を回していた。トウヤは壁にもたれて靴先を見ている。ミツは通信板の端を布で拭き、ハジメは部屋の隅で灯りの揺れを見ていた。
ナミオがラジカセを抱えて現れると、最初に眉を動かしたのはミツだった。
「持ち込まないで」
「まだ何もしてない」
「まだの話はしてない」
「ちょっと見てるだけ」
「その顔で言うな」
カザンが吹き出す。
「その顔ってどんな顔だよ」
「何か隠してる顔」
「いつもじゃん」
トウヤが言うと、ナミオは睨んだが、本人は靴先のままだった。
ハジメだけがラジカセに目を留め、少し近づいた。
「昨夜の続きか」
「うん」
「鳴ったのか」
「少し」
「少しは、一番やっかいだな」
ハジメはそれだけ言って、また隅へ戻った。興味はあるが、手は出さない距離。研究者らしいといえばそうだった。
発電輪が回りはじめる。
床がわずかに震える。
送受信台の針が起き、灯りが一段だけ強くなる。
ナミオは部屋のいちばん後ろへ下がり、ラジカセを脇の棚にそっと置いた。送受信台と壁配線のあいだ、古い金具が出ている場所がある。昨夜から目をつけていた場所だ。細い針金を引っかければ、直には触れなくても、流れの端に少しだけ寄り添える。
ミツが席につく。
短い確認。
応答。
いつもの打音が始まる。
アメリカからの返しは早い。大中国は少し重い。ロピは風で間が崩れる。中東は打音が乾いていて、自治区はいつもどこか遠い。
ナミオはその全部を背中で聞きながら、棚の陰で針金を伸ばした。
汗が手のひらに出る。
滑る。
一度外し、もう一度。
細い先が金具に触れる。
小さな震え。
これだ。
ナミオはラジカセのつまみに指をかけた。
今ならまだ、誰も見ていない。
ミツの指は板の上を走り、カザンとトウヤは輪を回し、ハジメは針のわずかな揺れを見ている。
今しかない。
ナミオは息を止め、昼から作っていた列を流した。
ざ、と雑音がひと膜だけかぶさる。
その下で、長い音。
揺れ。
短い、短い。
長い。
ほんの一瞬。
ほんの一息。
けれど、送受信台の乾いた打音の底に、それは確かに混ざった。
ナミオの背中に冷たいものが走る。
もう一度。
長い。
揺れ。
短い、短い。
今度は短い終わりを少しだけ伸ばす。
その時、ミツの手が止まった。
ほんの半拍。
それだけで部屋の空気が変わる。
「……今の何」
ミツの声は低かった。
カザンの輪が少しだけ遅れ、トウヤが顔を上げる。
ナミオはラジカセを引こうとしたが、針金が金具に引っかかり、わずかに大きな雑音が鳴った。
ざあっ。
もう隠れようがなかった。
ミツが椅子を引いて立つ。
「ナミオ」
名前を呼ばれるのは珍しい。
その響きだけで、部屋の全員が何かを察する。
ナミオは針金を外しきれず、そのまま固まった。
「それ、何した」
「ちょっと」
「ちょっとじゃない」
ミツは近づき、送受信台の側面を見る。ハジメも横から覗きこんだ。
「混入してる」
ハジメが言う。
「流れの端を拾って、別音を重ねたな」
「できるの、それ」
トウヤが輪を止めかけ、カザンに肩を叩かれて回し直す。
ミツはナミオの手元を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
怒鳴らない時ほど怖い。
「外して」
ナミオは黙って針金を外した。
送受信台の音がすっと軽くなる。
異物の消えた空気。
さっきまで混じっていたものが消えると、かえってそこにいたことがわかる。
ミツは送信を再開した。遅れを最小限に戻すため、指の動きがいつもより速い。余分な言葉を打たず、必要な返しだけで整えていく。部屋にはもう誰も余計なことを言わなかった。
ナミオだけが、ラジカセを抱えたまま立っていた。
通信が終わるまでの時間が、やけに長かった。
ようやく最後の打音が消え、針が伏せる。
発電輪も止まる。
今度こそ本当に静かになった発信室で、最初に口を開いたのはハジメだった。
「面白いことはした」
ミツが顔を上げる。
「褒めないで」
「褒めてない。記録に残るという話だ」
その言い方が、ナミオには少しだけ助かった。
ミツは通信板を見下ろし、端に何かを書き足した。爪の短い指が、いつもより強く板を押している。
「異常音混入。発信時、二度。規則性あり。発生源、内部」
ナミオの喉が動く。
「規則性、あった?」
ミツは顔を上げない。
「なかったら記録しない」
「ただの故障じゃなくて」
「故障なら故障で記録する」
「でも」
「でも、あなたは故障を流した顔じゃなかった」
ミツはそこでようやくナミオを見た。
目の奥が冷えている。怒っている。けれど、その奥にほんの少しだけ、見逃していない色もあった。
「何を流したの」
ナミオはラジカセを抱え直した。
「昨夜拾った音の、真似」
「真似」
「全部じゃない。似せたかっただけ」
「何のために」
言われて、ナミオは口を開いたまま止まった。
何のために。
聞かせたかったから。
届くか試したかったから。
あの形を、自分だけの中に置いておけなかったから。
どれも本当だった。けれど、どれもぴったりではない。
「……そこに混ざったら、どう聞こえるか知りたかった」
ミツの眉がわずかに寄る。
「知ってどうするの」
「わからない」
「わからないことを流したの」
「うん」
トウヤがそこで吹き出しそうになり、カザンに肘で止められた。
ミツはしばらく何も言わなかった。
通信板を見て、ナミオを見て、また板を見る。
「意味のある信号しか流れない場所で、意味のわからないものが混ざった」
その声は静かだった。
「それを異常って言うの」
ナミオは目を逸らせなかった。
「でも、聞こえたろ」
「聞こえた」
「規則もあった」
「記録した」
「じゃあ、意味がないわけじゃない」
ミツは喉元の小さな泥化跡を指で押さえた。
その癖は、考える時にだけ出る。
「意味がわからないものと、意味がないものは違う」
ハジメが横から言った。
ミツは少しだけ顔をしかめたが、否定しなかった。
カザンが腕を組む。
「で、何だったんだよ結局。歌なのか、報告なのか、命令なのか」
「どれでもない」
ナミオが答えると、トウヤが小さく笑った。
「一番困るやつ」
「困るの」
「困るだろ」
ユラがいつのまにか入り口に立っていた。
長い袖の中で手を隠し、壁にもたれている。
「でも、少しだけ、続き聞きたくなる」
ミツが振り向く。
「いつからいたの」
「途中」
「途中っていつ」
「怒る前くらい」
カザンが肩を揺らす。
「一番おいしいとこだな」
「見てないことにするって言ったのに」
ナミオが小さく言うと、ユラは平気な顔で答えた。
「見てないことにはしてる。聞いてただけ」
それで何人かが笑った。
緊張が少しだけほどける。
けれど、ミツの手元には板が残っている。記録された異常は消えない。書かれたものは、口の上で笑いに変わっても、板の上ではそのままだ。
ハジメが送受信台の側面を確かめ、ナミオの針金を見た。
「作り方は荒い」
「うん」
「でも、端に触るのはうまい」
「うん」
「直にいじると壊れる」
「わかってる」
「わかっててもやる顔だな」
ナミオは返事をしなかった。
ハジメは少しだけ口元を動かした。
「次は、壊れないやり方を考えろ」
ミツがすぐに言う。
「次を前提にしないで」
「もう一度やるだろう」
「やらせない」
「やる」
ナミオとハジメの声が重なった。
それで今度はカザンがはっきり笑った。
「わかりやすいな、おまえら」
ミツは額を押さえた。
「明日、送受信台の点検。ナミオは立ち会うこと」
「いいの」
「よくない。でも目の届かないところでやられるよりいい」
「信用された」
「されてない」
即答だった。
けれど、部屋に残る空気はさっきよりましだった。
ナミオはようやく浅く息を吐いた。胸の奥に固まっていたものが、少しだけ解ける。怒られた。記録もされた。異常扱いもされた。でも、消されなかった。
意味のない信号。
そう記録されるのかもしれない。
それでも、一度混ざった。
送受信台に。
決まった時刻の、決まった線の中へ。
発信室を出たあと、食堂ではさっきの話がすぐに広がった。
もっとも、広がると言っても地下の一角だけだ。保存食の缶を開ける音、湯気の上がる鍋、疲れた足を引く床の擦れ。その合間に、ナミオが怒られたとか、妙な音を流したとか、ミツが板に書いたとか、そういう言葉が細く飛ぶ。
トウヤは皿を受け取るなり言った。
「意味のない信号、っていい名前だな」
「名前じゃない」
「もう名前だろ」
カザンは豆を噛みながら頷く。
「異常音よりましだ」
「異常なのは変わらない」
ミツが向かいに座り、皿を置く。
喉元の小さな跡が、灯りの揺れで見えたり消えたりする。
ナミオは少し身構えたが、ミツはそれ以上責める気配を見せなかった。
「板は残るから」
「うん」
「明日になっても、今日のことは消えない」
「うん」
「だから、次にやる時は」
ミツはそこでスプーンを持つ手を止めた。
「私のいないところでやらないで」
ナミオは一瞬ぽかんとした。
「……止めるんじゃなくて」
「止める。止めるけど、見えるところで止めたい」
それがミツらしい言い方で、ナミオは皿を見たまま少し笑った。
ユラが地下菜をちぎりながら言う。
「でも、途中ほんとに、息吸う前みたいだった」
「それ、私も少し思った」
思いがけずミツが言い、場が静かになる。
「思ったの」
ナミオが顔を上げる。
ミツはすぐ皿に目を落とした。
「思っただけ。記録には書かない」
「書いてよ」
「書かない」
「なんで」
「そういう記録板じゃない」
トウヤが小さく笑う。
「そのうち、別板作るか。意味のない板」
「それはそれで要るだろ」
カザンが言うと、何人かが頷いた。
疲れた夜には、意味のある話ばかりだと喉が乾く。
そういう顔をしていた。
ナミオは皿の豆を口に運びながら、食堂の灯りの揺れを見た。弱い。すぐ消えそうで、でも毎日ちゃんとつく。人力の灯りは頼りないのに、頼るしかない。通信も同じだ。意味があるから最優先になる。けれど、そこに意味のないものが一瞬混じっただけで、空気の流れが変わる。
面白かった。
怖かった。
少しだけ、広がった。
そのどれもが本当だった。
食事のあと、ナミオはラジカセを抱えて通路を歩いた。
今夜の地下は、人の声が少しだけ長く残る。誰かがさっきの話をまだしている。意味のない信号。変な音。呼吸の前。異常。名前になりきらない言葉たちが、壁に引っかかっている。
老爺の部屋の前まで来ると、布の向こうに灯りが見えた。
「入る」
返事を待たずに入ると、老爺はいつものように膝の上へ鳴らない機械を置いていた。
「顔でわかる」
開口一番それだった。
ナミオは座る前に言った。
「混ぜた」
「何を」
「昨日のやつに似せた音」
老爺の目が少し細くなる。
「どこへ」
「送受信台」
「怒られたか」
「怒られた」
「そりゃそうだ」
老爺はそれだけ言って、膝の機械を撫でた。責めも笑いもしない。ただ、当然の場所に当然の石が置かれたみたいに受け取る。
ナミオは入口に座り、ラジカセを置いた。
「でも、記録された」
「ほう」
「異常な信号って」
「異常か」
「意味のない信号、とも言われた」
老爺はそこで初めて、少しだけ笑った。
「いいじゃないか」
「いいの」
「最初から意味のあるものなんて、つまらん」
ナミオは黙った。
老爺の部屋の熱は、いつ来ても少し重い。けれど、今夜はその重さが心地よかった。
「意味がないのに、記録される」
老爺が言う。
「それは強い」
「なんで」
「意味がないと片づけたやつが、忘れられないからだろう」
ナミオは膝の上で手を組んだ。
忘れられない。
そうだろうか。
明日にはみんな半分くらい忘れるかもしれない。労働のあとの疲れは、面白い話も平気で流していく。けれど、板の上には残る。ミツの指で書かれた文字は、少なくとも次の確認までは消えない。
異常音混入。
規則性あり。
発生源、内部。
それだけで、今日の自分が地下のどこかに固定されたような気がした。
「明日、点検立ち会いだって」
「また近づけるな」
「壊れないやり方考えろって」
「考えろ」
「簡単に言う」
「簡単な顔で言ってない」
老爺の目尻にだけ、小さな皺が寄った。
ナミオはそこでやっと肩の力を抜いた。
「今日、ユラがさ」
「うん」
「息を吸う前みたいって言った」
「そうか」
「ミツも少し思ったって」
「そうか」
「それ、たぶん合ってる」
老爺はしばらく黙っていた。
部屋の奥で、古い紙が風に触れたみたいな音がする。あの薄い冊子だろうか。ナミオは耳を寄せかけて、やめた。今は別の音のことを考えていた。
「吸う前なら」
老爺が低く言う。
「まだ誰のものでもないな」
「誰のものでもない?」
「吐けば言葉になるかもしれんし、歌になるかもしれんし、何にもならんかもしれん」
ナミオはその言葉を胸の中で回した。
吸う前。
まだ誰のものでもない。
だから、どこへでも行ける。
その夜、寝床に戻ってからも、ナミオはすぐには眠れなかった。
地下の部屋は狭く、壁越しに誰かの寝返りや咳が聞こえる。遠くではまだ片付けの音がしている。発電輪の軸が乾く音。川水の管を伝う鈍い揺れ。人の暮らしが完全には止まらないまま、眠りだけが少しずつ降りてくる。
ナミオは布をかぶり、目を閉じた。
長い。
揺れ。
短い、短い。
長い。
今夜、自分が作った並びは、本当に昨夜の模倣だったのか。
途中から、別のものになっていた気もする。
真似していたつもりで、勝手に自分の息が混じっていたのかもしれない。
意味のない信号。
そう呼ばれたものが、もし自分のものなら。
いや、まだ自分のものでもない。
ただ、一度流れた。
それだけだ。
眠りかけた頃、通路の向こうで誰かが小さく笑った。
夢の入口みたいな笑いだった。
ナミオはうっすら目を開け、また閉じた。
明日になれば、今日のことを面白がる声は減るだろう。カザンは半分忘れ、トウヤは変な名前だけ覚え、ユラは一番印象の残った一瞬だけ持っていき、ミツは板を見て思い出す。ハジメは送受信台の側面を確認しながら、端に触る方法を考えるかもしれない。
それでいい気がした。
全部が残る必要はない。
ひとつだけでも、どこかに引っかかれば。
眠りの底へ落ちる寸前、ナミオの耳の奥で、昨夜拾ったあの規則がまた鳴った。
長い。
短い。
長い。
短い、短い。
今度はそのあとに、自分が作った揺れが続く。
どちらが先だったのか、もう少しわからなくなる。
翌夜、発信室の前でミツは通信板を抱えたまま言った。
「昨日の記録、確認した」
ナミオは階段の途中で足を止めた。
「消してない?」
「消す理由がない」
「異常なのに」
「異常は消さない」
ミツは短く息を吐き、板の端を指で軽く叩いた。
「でも書き足した」
「何を」
「再現性、不明」
ナミオは思わず笑った。
「ひどい」
「事実」
「じゃあ、今日で変える」
ミツはそれを聞いても眉を動かしただけだった。
「変えるなら、私の見てる前で」
ナミオはラジカセを抱え直し、狭い発信室のほうを見た。
毎日同じ時刻。
毎日同じ線。
その中に、まだ誰のものでもない音がまた混ざろうとしている。
意味のない信号。
そう呼ばれたものは、消えずに二夜目へ進んでいた。