テラーノベル
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『なるほど。演奏する順番をチェンジしたくなるほど、あなたの人生に大きな影響を与えたのね。なら早速弾いてみましょうか』
波照間先生は椅子に腰掛け、奏の十分以上に渡る演奏を、目を閉じながら微動だにせずに耳を傾けている。
最後の分散和音の一音を丁寧に紡ぎ、そっと鍵盤から手を離すと、一呼吸置いたところで、師匠が瞼をゆっくりと開いた。
『あなた、学生の頃は音が硬かったし、無機質な自動演奏って感じだったけど……今のあなたの演奏は表情豊かで、音に艶があるような気がするわね。もしかして、恋人ができたのかしら?』
『げっ……バレた……サイアク……』
師匠の前にも関わらず、奏が思わず素の状態でボソっと言うと、それが笑いのツボに嵌ったのか、波照間先生が手を叩いて突然爆笑し出した。
『あっははははっ! あなたみたいな人が……げっなんて言うのねぇ……あはははっ……はあぁ〜お腹痛いわぁ……! 学生時代のあなたは頑なで、レッスンの時も能面みたいに無表情だったから…………そんなあなたが……あっははははっ……」
『いや先生……笑い過ぎですよ……』
ごめんごめん、と笑いを堪えながら、恩師は弾んでいる呼吸を整えるように、大きく深呼吸をすると、改めて奏と向かい合った。
『とにかく、『音楽』が『音が苦』にならないように、ステージを楽しんで演奏しなさい。彼も当日聴きに来るんでしょ? 頑張って!』
『ありがとうございました。頑張ります』
久しぶりに師匠に演奏を聴いてもらった事で、人前で演奏する事に少し自信が持てた彼女。
更に仕事の合間を縫って練習を重ね、できる限りの準備をして、奏は今、本番のステージに臨んでいる。
***
スクリャービンはロシアの近代の作曲家。
練習曲『悲愴』は、作曲者本人も好んでよく弾いていた楽曲らしい。
練習曲で副題が付いた有名な曲といえば、ショパンの『別れの曲』や『革命』が特に知られているだろう。
スクリャービンの『悲愴』は、当時ショパンの『革命』に似ている、と指摘を受けた事もあったそうだ。
奏は、左手で跳躍の大きい分散和音を弾きながら、右手のオクターブの旋律を力強く奏でた。
悲しい思いの中に見え隠れする情熱的なメロディを弾きながら思い出すのは、高校時代の、あの失恋の痛手。
今でも思い出すと自分が情けないが、その気持ちを指先に伝わせ、鍵盤に乗せていく。
展開部の美しくも躍動感のある旋律と和音進行に、あの頃はまだ、かつての恋人、中野に本命の彼女がいる事も知らずに浮かれていたな、などと回想する。
曲調が徐々に力強くなっていくと、比例するように奏の感情も昂っていく。
再現部では、怒涛のように刻み込まれる三連符の和音の伴奏にオクターブの旋律が重なり、激情を纏わせて演奏していると、顔の見えない本命の彼女が浮かんできた。
悲しくて悔しくて情けない自分と決別するように、ラスト八小節は気持ちを煽らせ、次第にテンポを上げつつ、力を指先に託しながら音を紡いでいく。
曲の最後の和音を強烈に弾き放った時、奏の中で、あの男の事や失恋の苦い思い出を完全に断ち切れたような気がした。
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