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菱形の札の貼られた椅子がこねくり回された泥の塊のようにぐねぐねとうねり、巧みな塑像家の手になるような美しい人の形を成す。そうして受肉した魔導書の魔性が訳もなく涙を流し、表情を歪めながら素早く四方に視線を走らせる。
「何もするな」とベルニージュが【命じる】と魔性泣く者はその場に――椅子はもう無いので床に――力無く座り込んだ。「『何もするな』で禁止された行動の中に『座る』は含まれていないの?」とベルニージュは尋ね、しばらく答えを待つ。待たされる。「……ああ、そうか。ワタシの問いに答えろ」
「命令は絶対だけどね。私たちは解釈することができるんだ」と泣く者は潤んだ声で答える。ベルニージュが手振りで先を促す。「たとえば『ある人物を殺せ』と命じられたとしても、皆が出来ることは『ある人物を殺すために最大限の努力を継続する』なんじゃないかな。誰でも簡単に殺せる力を持つ奴以外はね」
「そんなのもいるの!?」と寝台に腰掛けて尋問を見守っていたユカリが身を乗り出して声をあげる。
人に聞かれているとは思っていない風と潮騒の秘密の語らい、深い夜の騒がしくはないが確かに感じる宿泊客の気配、深く重い梟の泣き声と魔性の鳴き真似。そしてそれら無関係なはずの音が初めから楽譜に書き込まれているかのように旋律に組み込んで奏でられる素晴らしい音楽がどこか遠くに聞こえる。
ロムドラの町の最初の夜、久々に借りた広い部屋でのこと。魚灯油の揺らめく明かりと臭いが遠い潮風を宿の一室に呼び寄せ、海の気配の揺蕩う中、ベルニージュたちは受肉した魔導書を尋問していた。グリュエーだけは窓のそばで暗い夜にもたれかかるようにして不思議な楽の音に耳を傾けている。
「らしいよ」涙を拭いながら震える声で魔性はユカリの方をちらりと振り返る。「使い魔同士はあまり交流させてもらえなかったから詳しくは知らないけどさ」
「少なくとも。今のところユカリを抹殺できてないよ」とベルニージュは怯えるユカリを慰めるつもりで言う。逆効果だったが。「それで、使い魔って? あんたたちの総称?」
「そうだよ」泣く者は頷き、上目遣いで続ける。「一〇一白紙文書はまだ読んでないの?」
「文字通り白紙だからね」ベルニージュはユカリの方を一瞥する。ユカリも今の言葉を聞いて白紙の魔導書をぱらぱらとめくるがやはり何も書いていないらしい。尋問を続ける。「読み方を教えろ」
泣く者は不満そうに唇を尖らせ、ベルニージュを睨みつけた。
「命令しなくたって教えるよ。白紙文書に封印を貼ってみて。対応する使い魔についての記述が読めるようになるからさ。ま、使い魔にしか読めない文字だけどね」
さっそくユカリが泣く者以外の封印、お道化る者と焼べる者を白紙の頁に貼り付ける。傍から見て特別な変化はないが、とりあえず魔導書を媒介に受肉することはできないのだと分かる。
ユカリの眼下で、長らく眠りについていた書が眼を開くように、頁の底に秘められた言葉が静かに浮かび上がり、白い紙の上に見慣れない文字が踊る。
「本当だ! 文字が現れた」とユカリが歓声を上げる。「えっと。お道化る者、第十階級。第百一位。魔法少女一〇一柱の寄居虫。背後に立つ者。指と同じ数の命を持ち、運命を捻じ曲げ、不幸と不運の元へ走る告げ口屋。東方の魔性を統べる者。だってさ」
泣く魔性は不思議なものでも見るようにユカリを見つめて呟く。「……本当に読めるんだね。魔法少女ってもっと恐ろしい奴かと思ってた」
ユカリの読み上げた胡乱な内容を聞き、ベルニージュは泣く者に目を向ける。「そんな力があるの? お道化る者には」
「ううん、ないよ」目を潤ませながらもあっけらかんと答える。「仕組み上自分のは読めないから聞いた話だけど、名前以外は何が何やらって感じ。実際に持ってる魔術ともほとんど関連性が無かったもん」
「ああ、焼べる者の方に一〇一の使い魔の一柱って書いてるね」とユカリが魔導書に目を通しながら説明する。「でも、うん、麺麭とも火ともまるで関係ない感じ」
「魔導書のことはおいおいで良いだろう」とソラマリアが堪え切れないという様子で口を出す。「まずは連中の、魔法少女狩猟団の思惑だ。ユカリの、そして我々全員の命に関わることを話させないか?」
「そうですわね」ソラマリアのそばで寝台に座るレモニカも加勢する。「ユカリさまのお命をどうやって狙うつもりなのか、作戦のようなものがあるのではないですか?」
「他の皆の問いにも答えろ」とベルニージュが【命令】を付け加える。
「作戦ね。あるかもしれないけど、全体の策に関しては聞かされてないよ。それこそこういう事態は想定済みだもん。封印を奪われて、命令のままに全て話してしまうって状況ね。私の予想だけど、私たちは先駆けというより捨て石じゃないかな。魔法少女ユカリの出方を探るためのさ。どう考えても戦闘向きじゃないもんね、私たち」
ベルニージュもまたそのように感じている。百の魔導書たちで囲む、あの策を何度でも講じるだろうと予想していた。
「それじゃあ、魔法少女狩猟団の団長? シャナリスだっけ? が、全ての作戦を決めてるのかもしれないのか。じゃあ完全に魔導書任せにしてるの?」
泣く者は首を横に振り、長い髪を棚引かせる。
「シャナリスはシャナリスだけどシャナリスじゃないよ」
夜の静寂を押し分ける楽の音はロムドラの街を寝かしつけるように、ほんの一時の休みも無く響き続けている。
「分かるように説明して」とベルニージュは頼む。
「シャナリス団長は使い魔じゃなくて普通の人間の僧侶ってこと。全ての使い魔が彼に貼られているから彼の命令に従うの」
「何者なの? 機構でも上位の僧侶ってことだよね?」とベルニージュは問うが、泣く者は肩をすくめるだけで答えない。
命令されても知らないことには答えられないということだ。
「そりゃ偉いんじゃないの?」ユカリが不思議そうに首を傾げる。「下部組織の長は総長とかいうやつでしょ。たしかモディーハンナもそうだよね」
モディーハンナは救済機構において魔術研究の一切を担う恩寵審査会の総長だ。
「だとしてもかなりの信を置かれているはずだ」とソラマリアが信じられないという様子で説明する。「ただの兵隊百人を貸すのとは訳が違う。魔導書を百枚自在に扱える魔術師など、魔導書を所持していない相手であれば国家転覆も容易いことだろう。反逆でも起こされればシグニカとてただでは済まない」
「その人が何者であれ、裏を返せばその人さえ押さえれば全ての魔導書を手に入れられるってことじゃない?」とユカリが無邪気に尋ねる。
「まあ、そうだね」泣く者は背後のユカリを振り返る。「ただ、一つ言っておくけど、全員がただ命令を聞いているってわけじゃないよ」
「どういうこと? 命令を聞かないのは解釈の範疇を越えるでしょ」とベルニージュが指摘する。
「そういう意味じゃない」瞳を濡らす魔性はベルニージュの方を向く、というよりもユカリに背を向けるという態度だった。「命令なんてなくたってシャナリスに従う者もいるってこと。私たちだって信念とか考え方とかを持つ一個の人格だってこと」
誰もが口を閉ざし、遠くから聞こえる音楽がただ一人真実を告白する告発者のように存在感を増す。まるで物語の一説のように、その部屋という舞台に揃った役者たちを称えるように響く。多くの家々や空気の厚みを越えて、なおその楽の音はそれらの障壁すら前提としているかのような重層的な美しさだった。
「まだ言いたいことがありそうだね。全部言っちゃえば?」とベルニージュは言い、さらに付け加える。「これは命令じゃないよ」
泣く者は少し躊躇い、しかし覚悟を決めたように口を開く。
「私たちを全て集めた時、魔法少女は私たちを封印する。私たちの人格は消滅し、平たくいえば死ぬ、と聞かされた」
ユカリが勢いで反論しようとし、ベルニージュが制止し、代わりに説明する。
「封印は事実だけど、人格の消滅は根拠がない。そんなことない、とは言えないけどね。救済機構があんたたちを御するためのでっち上げだよ」
「そうでなくても魔導書の中に永遠に封じられるんでしょ? それにこれを言ったのは救済機構じゃない。魔法少女、かわる者だよ」
「魔法少女かわる者!?」とユカリが素っ頓狂な声を出す。「それって、あの!?」
「魔導書を奪われたんでしょ? 変身できない魔法少女さん」背後の魔法少女を嘲るように魔性は答える。「かわる者は私たちを解放しようとしている。救済機構からも魔法少女ユカリからも」
ならば考えないといけないことは、とベルニージュは頭の中で考えをまとめる。魔導書が封印されてなお使い魔の人格を残す方法だ。でなければ確実にユカリが封印を躊躇う。不可能ではないはずだ。魔導書がなくても適切で正確な手順と十分な力があればその魔法は再現しうる。
それに、と考えながらベルニージュは胸元に隠れている蝶の形の首飾りの感触を感じる。記憶を封じ、人格を再現していた魔女シーベラならばその手立てが分かるかもしれない。
しかしベルニージュは皆に期待をもたせないよう、まだ黙っておくことにした。
「で、封印を逃れるため、ユカリを抹殺することに同調している使い魔もいるってことね」とベルニージュが軽い口調で確認する。「まあ、不可能だけどね。ワタシの見立てではあんたたちは根本的に力不足だよ。束にならなきゃ万に一つも勝ち目はないね」
「そんなことないよ!」と泣く者は反論する。「私はともかく、私が知ってるだけでも、ありとあらゆる魔術に通じている使い魔とか、この世の全ての剣術を修めた使い魔とかがいるんだから!」
ベルニージュはおもむろに立ち上がり、泣き止まない子供を慰めるように泣く者に微笑みかける。
「まあ、どんな使い魔がいるかは後で一通り聞くとして、ちょっと待っててね。すぐ戻る」
そう言ってベルニージュは一人部屋を出て行った。
しばらくして、何も事情の分からない皆が状況を把握しようとしている中、ベルニージュは部屋に戻ってくる。
「ただいま」とベルニージュ。
「おかえりなさいませ」とレモニカ。「どこに行っていらしたのですか? すぐとおっしゃっていましたが、グリュエーは寝てしまいましたわよ」
いつの間にか鳴り止んだ音楽はまるでロムドラの町に添えられていたのが当たり前であるかのように、夜の港町にもの寂しさだけ残していた。
「あれ? 時間をかけすぎたか、結界が甘かったかな。グリュエーは窓に近かったしね。ユカリはワタシが何をしに行ったか分かってるんじゃない?」
「どうして私にも気配を感じない距離にいる魔導書に気づけたの?」ユカリは怪訝な表情でベルニージュに尋ねた。
「魔法使いとしての経験と勘だよ」そう言ってベルニージュは懐から新たな封印を取り出す。「はい。耳障りな音楽家の使い魔を回収してきたよ。眠れない時には使えそうだね」
皆が、何より泣く者が言葉を失った。