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#現代ファンタジー
agent67
奏多
8
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どこまでも続く、底のない闇の中に私は立っていた。 音もなく、温度もない。ただ虚無だけが広がる、真っ暗な世界。
唐突に、頭上から一筋の光―トップライトが落ちた。
円を描く光の輪の中には、一匹の黒猫が佇んでいる。
…ルーネでは…ない。もっと冷たく、形を持たない影のような、別のナニカ。
黒猫は私を一瞥もせず、闇の中に突如現れた一筋の扉へと歩き出す。その扉には見覚えがあった。
私は、自分の意志に反してその背中を追っていた。
扉が、音もなく開く。
部屋の中に転がっていたのは、変わり果てたリリー、クララ、フェリクスの姿だった。
鮮血に染まり、二度と動くことのない、私の大切な家族。
「え…、あ、っ…」
膝が震え、立っていられなくなる。
叫ぼうとしても、喉に焼けた鉛でも詰まったかのように声が出ない。
黒猫はそんな私を嘲笑うように、淡々と、けれど呪いのように言葉を紡いだ。
『オマエノセイダ』
『オマエノセイダ』
『オマエノセイダ』
『オマエノセイダ』
ぐにゃりと黒猫の輪郭が歪み、見覚えのある金髪碧眼の美少女―リリーへと姿を変えた。
「ねぇ、ししょー。ししょーがあの時もっと早くに来てくれたら、私達は死なずに済んだんだよ? 全部、ししょーが悪いんだ。…なのに、今更『復讐』なんて、誰のためのごっこ遊びなの?」
虫を見るような、底冷えする蔑みを込めたリリーの顔。
私の心臓が、内側から握り潰されたような嫌な音を立てて跳ねた。
「五百年も眠りこけてたのは知っているよ。でも、それも自業自得じゃない。だって、もう私達を殺した復讐相手なんて、どこにも生きていないんだよ?」
かつての愛弟子は、その可愛らしい唇を歪め、ゴミでも見るような冷たい目で吐き捨てた。
「自分勝手すぎ。結局、ししょーは自分のプライドを守りたいだけなんだ。私達のことなんて、これっぽっちも思ってないくせに。…ねえ、本当は、私達のことなんてどうでもいいんでしょ?」
…違う!! 違う、そんなこと…!
叫びたい。喉を引き裂いてでも否定したいのに、声が出ない。
肺に泥が詰まったみたいに、息を吸うことさえ拒絶されているようだった。
「魔法を勉強したのだって、たった数年でしょ。あとはずっと、悪魔に魂を弄ばれて寝たきりだった。…あはは、最強の魔術師が聞いて呆れる。だっさーい」
図星だった。
言い返す言葉なんて、一文字も持ち合わせていない。
私の世界から色が消え、リリーの嘲笑だけが、頭の中で壊れたレコードのように響き続けた。
「あはははっ…、本当に最低で屑だね。あー、ママもパパもお前のこと大っ嫌いだからこっちに来ないでね。穢れる」
そう言って、リリーは霧の向こうへと去っていった。
「私は…、私は…、私は…、私は…、私は…、私は…、私は…」
虚ろな瞳で、意味を失った声を繰り返す。
誰にも大事にされない私。誰にも愛されない私。誰にも必要とされない私。
千の軍勢を滅ぼす呪文なら知っている。けれど、目の前の大切な一人を引き留めるための、愛されるための言葉なんて、私は一つも教わってこなかった。
人を傷つけ、時に救うはずの「言葉」という名の魔法。
それを正しく選べていたなら。あの日、あの時、適切な言葉を紡げていたなら…。
私は…あの子達に、愛されていたのかな。
答えのない問いが、冷たい泥のように私を飲み込み、意識を闇の底へと引きずり落としていった。
『ねぇ。僕に命を差し出してくれたら、君の望むままにしてあげるよ』
耳元で響く、とろけるような優しい囁き。
それは紛れもない、本物の悪魔の誘いだった。
「魔王…だっけ。私、それになるんだったよね」
感情の死んだ声で問い返すと、悪魔は愛おしそうに私をぎゅっと抱きしめた。
…温かい…。
血まみれの家族が転がる冷たい闇の中で、その悪魔の体温だけが唯一の救いのように感じられてしまう。
『うん、そうだよ。今の君より、ずっと幸せになれる』
「記憶…消える?」
悪魔は慈母のような手つきで私の頭を撫でながら、静かに、けれど深く頷いた。
『消したいなら、全部消してあげられる。君を苦しめるその泥のような思い出も、全部なかったことにしてあげよう』
「そっか…。じゃあ、お願―」
その言葉を断ち切るように、頭の中に鋭い衝撃が走った。
『お嬢さん、起きなさいっ!!』
鼓膜を突き破るような、ルーネの切迫した命令。
次の瞬間、悪魔の温もりも悪魔の囁きも霧散し、私の意識は強引に現実へと引き摺り戻された。
「私は…私はっ!」
バッと跳ね起きた私の視界に飛び込んできたのは、月光が差し込む平和な寝室だった。
自分が今、何を差し出そうとしたか。どれほど惨めに「逃げよう」としたか。
それを自覚した途端、心臓の鼓動が激しく打ち付け、情けなさと、言いようのない激しい憤りが込み上げた。
『お嬢さん、落ち着いてください。…もう、大丈夫ですから』
ルーネの静かな声に促され、私は必死に浅い呼吸を整えようとする。
けれど、一度決壊した感情は止まらない。
「ルーネ、ごめんなさい…。ごめんなさい、私…あんな…っ」
逃げようとしたこと。諦めようとしたこと。大切な記憶さえ捨てようとしたこと。
溢れ出す涙と一緒に、何度も、何度も謝罪の言葉が零れ落ちる。
『お嬢さん、もういいのです。…大丈夫ですよ』
ルーネが喉を鳴らし、私の頬に優しく顔をすり寄せた。
今の私には、眩しすぎる大勢の慰めよりも、この一匹の体温だけが何よりも有り難く、居心地が良かった。