テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
再建から数年。平和の陽だまりに慣れ始めたその国に、死に損ないの亡霊たちが音もなく這い寄っていた。
かつて若井滉斗に凍てつかされ、すべてを失った旧軍の幹部たち。彼らは地下に潜み、禁忌の外法――精神を汚染し、自我を塗りつぶす「呪印の術」を完成させていた。
「……若井、滉斗。貴様は再び、我らの忠実な狗(いぬ)となるのだ」
視察の帰路、多勢に無勢の奇襲を受け、意識を失った滉斗が目を覚ましたとき、その瞳からは一切の感情が消え失せていた。
深淵のような闇が脳内を侵食し、元貴との温かな記憶は、分厚い鉄の扉の向こうへと封じ込められる。
「行け。偽りの王、大森元貴の首を獲ってこい。それが貴様の存在理由だ」
呪詛に満ちた命令が下される。
洗脳状態の滉斗は、ただ無機質な殺戮兵器として、かつて愛した人の元へと解き放たれた。
月も出ぬ闇夜。
王邸の私室で書類を整理していた元貴の背後に、冷気が走った。
かつて知った、けれど今はあまりにも刺々しい氷の気配。
「……ひろぱ? 帰っていたんだね」
元貴が振り返った瞬間、視界を真っ白な閃光が埋め尽くした。
氷剣の一閃。
反射的に展開した防御術の障壁が火花を散らし、凄まじい衝撃に元貴の体が吹き飛ぶ。
「ひろぱ……! 何をして……っ」
返ってくる言葉はなかった。
そこにあるのは、自分を慈しんでくれた夫の瞳ではない。ただ標的を屠ることだけを刻まれた、空虚な硝子玉のような眼差し。
滉斗は機械的な動作で間を詰め、容赦のない連撃を叩き込む。一撃ごとに障壁が悲鳴を上げ、元貴の腕に鋭い冷気が食い込んだ。
「思い出して、ひろぱ! 僕はここにいる、元貴だよ!」
叫びは届かない。滉斗の剣は、かつてないほど冷たく、鋭く、元貴の喉元を貫こうと迫る。
死の予感。
しかし、元貴は逃げなかった。彼は防御の障壁を広げるのではなく、あえてそれを極限まで収束させ、滉斗の剣先を自分の胸元へと引き寄せた。
「……っ!」
剣が元貴の肩を浅く貫く。
鮮血が、白銀の刀身を伝って滉斗の拳にこぼれ落ちた。
その熱。
その、生々しい命の温度。
「……ひろぱ。僕を、見て」
元貴は痛みで顔を歪めながらも、血に濡れた手で、滉斗の頬を優しく包み込んだ。
翡翠の首飾りが触れ合い、微かな光を放つ。
呪印の術によって閉ざされていた記憶の扉に、元貴の流した「熱い血」が亀裂を入れた。
「ぁ……あ……っ」
滉斗の瞳に、激しい混濁が生じる。
殺せという命令と、守れという本能。
二つの意識が衝突し、脳裏に雷鳴のような衝撃が走った直後、彼の瞳から闇が霧散した。
「……もと……き?」
焦点が合った先にあるのは、自分の剣で傷つき、血を流している最愛の人の姿。
視線を落とせば、その血で紅く染まった己の手。
「……おかえり、ひろぱ」
「……おまえ…なぜ……っ!」
一瞬、理解ができなかった。しかしすぐにわかった。
その瞬間、滉斗の心に宿ったのは、自分を操った者たちへの、地獄の底よりも深い怒りだった。
「……許さない。あいつらだけは、万死に値する」
我に返った滉斗の咆哮が、夜の静寂を切り裂いた。
彼は負傷した元貴を布団へと寝かせ、気配を辿り、旧軍の隠れ家へと一瞬で躍り出た。
「な……なぜだ! 洗脳は完璧だったはず!」
狼狽える幹部たちに対し、滉斗は言葉を返さなかった。
冷気ではない。それは、すべてを無に帰す絶対零度の意志。
彼が剣を一度だけ振るうと、隠れ家は一瞬にして巨大な氷の墓標へと変わった。
命乞いをする暇さえ与えない。
元貴に刃を向けさせた報いは、永遠に解けることのない、凍てついた絶望だった。
旧軍の残党は、その夜、歴史から完全に抹消された。
数日後。
傷の癒えた元貴は、庭園でぼんやりと空を眺めている滉斗の隣に腰を下ろした。
「ひろぱ。まだ気にしてるの?」
滉斗は自分の手を見つめたまま、絞り出すような声で呟く。
「……俺は、お前を殺そうとした。この手でお前を……」
その言葉を遮るように、元貴は滉斗の手をぎゅっと握りしめた。
「違うよ。君の剣を止めたのは、君自身の心だった。僕が信じた通り、君は世界で一番強かったんだよ」
元貴の笑顔に、滉斗はようやく、深く長い溜息をついた。
その瞳に、いつもの柔らかな光が戻る。
「……お前には、一生かけても敵わないな」
最強の剣士は、今度は自分の意志で、最愛の盾をその腕に抱き寄せた。
風は相変わらず清冽で、二人の絆は、傷つくたびに磨かれる宝石のように、より一層の輝きを増していくのだった。
コメント
2件
リクエスト書いてくれてありがとうございます♪