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仕事中でも、総務部では、遊佐課長の話題で持ちきりだった。
無理もないのかな。
社内に恋愛対象皆無と見限って合コン三昧だったところに、不細工と決めつけていた「幻の課長」が超イケメンだったって急展開が起きたんだから。
先輩たちとはちがった意味で、わたしの心中もまた穏やかではなかった。
というか、もう暴風吹き荒れていた…。
あの遊佐課長が、まさかあの「幻の課長」だったなんて…。
これで、昨晩感じた謎が一気に解けた。探偵ドラマで言うところの「すべてのピースがうまった!」状態。
課長はついこの間までアメリカに長期出張していて、次に発表するソフトを開発するかたわら、ソフトウェア開発先進国のアメリカで最新のプログラミング技術を習得していたそうだ。
そしてこの度その任を終えたので、帰国して本社勤務となった―――というのが、朝の発表と飛び交うウワサを足した見解。
ここからがわたしの推測。
ひとつ、わたしに謎の名乗り方をした理由。
これは単純に、まだ異動が正式発表されていなかったからだろう。
誰もいない退社時間後の社内で働いていたのは、たぶん時差に慣れていなくてあの時間帯の方が集中できたから、なんだろう。
ふたつ、昨晩出会ったことを内緒にしてと言った理由。
やっぱり、残業禁止の職場に時間外業務しているのを知られるのが管理職としてまずかったから、なんだろう。
そして…最後、わたしにキスした理由。
……たぶん海外生活が長かったせいだ。
スキンシップで唇にキスする人がいると聞いたことがある。
つまりは単なる挨拶。
深い意味なんてない。
よって、いつまでも動揺する必要なんてない。
そもそも、わたしは恋愛に縁がない女だ。
男の人と初めて付き合ったのは大学生になってからで、所属していたサークルの先輩になかば押し切られるような感じで付き合ったのが始まり。
あんまり、いい思い出じゃなかった。
彼はわたしとはまるきり正反対の性格をしていて、明るくて社交的な分、調子が良くて自己中だった。
振り回されるように付き合って、それでも、やっと好きになってきたかな、と思い始めた矢先、彼が浮気していることを知った。
結局、彼は浮気相手を選び、わたしの初めての交際は置いてきぼりを食うかのようにあっけなく終わった。
そのあともアルバイト先やゼミで好意を寄せられたことはあっても、その経験が邪魔をして、進展させることができなかった。
なんとなく、男の人が怖かった。
ううん、男の人全般と言うよりか、都会の男の人が、と言う方が正しい。
地元の高校生だった頃は、一応好きな先輩がいた。
一年生の頃からずっと想い続けて、思い切って一世一代の告白をしたけどフラれて、親友の前で大号泣したのはよき青春の思い出。
「付き合っている人がいるから」と何度も頭を下げてくれたやさしい先輩だった。
素朴であまり目立たない人だったけれど…わたしには憧れの王子様だった。
けれど進学先の大学には、そういう感じの人があまりいなかった。
都市部に近く、各地から生徒を集めるような有名校でもなかったので、ほとんど生徒が地元の人だった。
みんなあか抜けていて、華やかで、都会に住んでいる人ならではの軽さがあって…悪い人たちではないと解かってはいたんだけれど、どうしても心を開くことができなかった。
だから男の人に対しても、どこか距離を感じてしまって…それを克服できないまま社会人になってしまった。
遊佐課長みたいに、きれいで華やかで恋愛感覚がラフそうな人は、まさにわたしが遠いと感じてきた部類の人だった。
だから、あんなことをされたって戸惑いしか覚えない。
ああいう恵まれた人がわたしのような地味女に深い感情を持つはずがないんだ。
昨晩は絶対にからかってやったにちがいない。
こうして立場のちがいがわかった以上、もうわたしが彼に近づくようなことはない。
時差のちがいさえ慣れれば、課長のような敏腕が残業なんてするはずもないだろうし、わたしのような新米と仕事を一緒する機会もゼロだ。
遊佐課長とは昨晩の出会いが最初で最後。
昨晩こそが、夢だったんだ。
だから…早く忘れてしまわなきゃ。
課長の声も笑顔も…キスも。
※
そんなことを考えながら、どうにか一日を終えようとしていた。
幸いなことに、今日はミスらしいミスもせず終われそうだ。
先輩たちも早々と帰り支度をしだしていて「帰る時、遊佐課長見てこようか」なんて話をしていて、わたしのことは目に入っていないみたい。
これはチャンス
退勤時間になったら、さっさと帰ろう。
そして今夜は楽しい映画でも借りてきて気分転換しよう…。
と思っていたんだけど。
「…ちょっと、三森くん」
「あ、はい?」
デスクの上をすこしずつ片付け始めていたわたしに、総務部の部長がちょっとちょっと、と手招いた。
ぎくぎくしながら、わたしは部長のデスクへ行った。
「なんでしょう…」
「急で申し訳ないけど、君今日は残業ね」
「ええ?」
部長からとはまさかの不意打ち。
つい露骨に嫌な顔をしてしまったわたしに、部長は気弱そうな笑みを作った。
「僕の意志じゃないよ。開発部からの命だよ」
「開発部?」
「ほら」
先輩たちをちらと見て声を潜めた。
「朝の課長。特別開発課の遊佐くんだよ」
えーーー…!
「ど、どういう…」
「ごめん、僕もわからないんだ。ただ『このあと特別開発課まで来るように伝えろ』ってそれだけで」
「そんな…」
「残念だったねぇ。これ、預かってきから」
と差し出されたのはカードキーだった。
わたしが持っている全社員用のものと同じデザインだけど…わざわざ渡してくれるということは、特別な用途に使うものなのかな…。
どういうことなの…。
この期に及んでなんの用があると言うんだろう…。わたしはすぐにでも彼のことを忘れたいのに…。
そうこうしている内に、退勤時間が過ぎたようだった。
「じゃ、そういうことだから、帰りここのロックお願いね」
先輩たちが我先に帰り始めたのに続いて、部長も席を離れた。
今日もわたしひとりだけがオフィスに取り残された。