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その岩崎は、通された兄の書斎で渋い顔をしている。


兄、岩崎男爵から聞かされた事に驚いてもいたが、自分の判断は間違っていなかったと思っていた。


「まあ、そうゆうことで、西条家の佐紀子さんと瀬川さんがやって来た……」


どうやら、岩崎男爵邸にも佐紀子は足を運んだようだった。


神田旭町の岩崎の家と、こちらと、どちらへ先に現れたのかは、はっきりしないが、投資という形で借金の申し入れにやって来たようだ。


「もちろん、お断りしたよ。言ってしまえば、岩崎家は西条家と何も取引実績がない。月子さんが嫁いで来るから縁続きになるだけの家だ」


男爵は少し冷たく言った。そして、月子を使って、投資という耳障りの良い借金の申し入れは、非常識じゃないと京介へ問うて来る。


「まあ、つい人を頼る、という気持ちも分からなくはないがね。月子さんの事がある。散々な目に合わせておいて、今更というやつだよ。そんな家を信用できるか?それに……」


火事で焼け出されたなんだと、供をして来た瀬川が泣きついて来たが、佐紀子は、まるで他人事で、身繕いもしっかりしていたという。


「京介、そんな風で泣き落とされても、誰が動くという話だろ?」


ええ、と、岩崎は兄に返事する。同時に、岩崎の家へ現れた時の佐紀子の様子を思い出していた。


確かに言われてみれば、西条の屋敷へ見舞いに行った時の佐紀子の姿は、所々着物に焼け焦げが見られ草履すら履いていなかった。


しかし、岩崎の元へ訪ねて来た時の姿は、お屋敷のお嬢様として品格ある装いだった。


おそらく、店へ移動し、着る物も整えたのだろう。


とにかく、災難に会ったとは思えない程、佐紀子の見かけは普通のものだったのだ。


つまり、どうにか落ち着いたということで、そこで、なぜ借金を、それも、わざわざ岩崎男爵邸へやって来るのか。


店は無事だったのだ。なにがしかが入り用ならば、店と付き合いのある銀行なりに声をかければ良いだけの話だろに。


もしや、実《みのる》との破談が、影響して金融関係には相手にされないのだろうか?


そんなことは……と、岩崎がいぶかしんでいると、男爵が、声を潜めた。


「……京介、余計な事だが、西条家とは関わるな。どうも、株取引でかなりの損失を出しているようだぞ。だから、本宅が全焼したと聞き付けた融資先や、取引先が、一斉に取立てに、押し掛けて来たらしい」


「兄上……そんな。仮に、損失があったとしても、一斉に取立てに合うというのは……」


「ああ、よほどのことだろう?」


「しかし、あの実《みのる》とかいう男の家は、銀行業では……?」


「そうなのだが、あそこの銀行も正直、パッとしなかった。むしろ、危なさが見え隠れしていた。私も、気を付けてはいたのだが、あの西条家への挨拶でかち合った時の態度がなぁ。佐紀子さんとの祝言を急いでいたのは、やはり……」


「……互いに財産目当てだった」


西条家の本宅が全焼し、資産が減った、はたまた、負債が増えたと判断した実《みのる》の父は、佐紀子との縁談を破棄した。


そう考えると、なんとなく辻褄が合う。


「京介、もちろん、私の憶測だ。しかし、お前の所まで佐紀子さんがやって来たとなると、ますます、危うい話だな。月子さんの心情もあるだろう。西条家とは、手を切るぞ。お前もそのつもりで。いいな」


男爵は、険しい顔で言い切った。


「はい。わかっております。ですから……申し訳ありませんが、月子を本宅の方で、お願いできませんでしょうか」


岩崎は男爵へ、暫くの間こちらに滞在させて欲しいと願い出る。


「ああ、もちろんだとも。というよりだなぁ。芳子とも話したのだが、こちらに住めば良いだろう?音楽学校へは、かなり遠くなるが、三田の車で通えば良いだろう?」


「いえ、兄上、三田は口は達者ですが、まだ、運転が……というより!そう!演奏会ですよ!どうゆうことですかっ!!」


岩崎は、忘れる所だったと、演奏会について男爵へ問いただす。


そこへ……。


「らぁーらららーー」


芳子の発声練習が聞こえて来た。


「まっ、あーゆーこと。なのだ。どうせなら、早い方が良いと芳子が言い出してだなぁ……」


「それで、演奏会を前倒しに?!」


抗議しようとする岩崎を、男爵は、なんだかんだ芳子のせいにして誤魔化した。

麗しの君に。大正イノセント・ストーリー

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