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コメント
1件
めっちゃ面白かった!語彙力あるね笑
その国の最果て、霧の深い森の奥に、一人の老画家が住んでいた。
彼はかつて「神の写し身」とまで称えられ、その筆が動けば枯れ木に花が咲き、描かれた鳥はキャンバスを飛び出すとさえ噂された男だった。しかし、彼は全盛期に表舞台から姿を消し、以来三十年、たった一枚の肖像画だけを描き続けていた。
モデルは、彼が若き日に愛し、病で失った最愛の妻である。
アトリエの壁に立てかけられたその絵は、もはや「絵」という概念を超越していた。描かれた彼女の肌には柔らかな産毛が見え、瞳の奥には窓から差し込む光が反射し、唇は今にも愛の言葉を紡ごうと、微かに震えているように見えた。
ある晩、師の隠居生活を心配した一人の弟子が、何年かぶりにアトリエを訪れた。
弟子は、完成間近のその肖像画を見て、あまりの神々しさに言葉を失い、震える声で言った。
「先生……これこそが人類の到達点です。あとは、左の頬にあるこの小さな影。ここをひと撫ですれば、彼女は真の意味でこの世に蘇るでしょう。なぜ、その最後の一筆を入れないのですか?」
老画家は、使い古された筆をパレットに置き、窓の外の月を見上げた。
「お前には、これが完成に向かっているように見えるか?」
「もちろんです。これ以上、何を付け加える必要があるというのですか」
老画家は首を振った。
「逆なのだよ。私は三十年間、彼女を**『終わらせないために』**戦ってきたのだ。」
弟子の顔に困惑が広がる。老人は静かに続けた。
「考えてもみなさい。『終わり』とは、変化の拒絶だ。 完璧な円を描いた瞬間、その円はそれ以上大きくも小さくもなれず、ただの図形として固定される。もし私がこの絵を完璧に仕上げてしまったら、彼女は永遠に『その瞬間の姿』に閉じ込められ、思考を止め、未来を奪われた、美しい死体になってしまう。」
老人は震える手で、あえて昨日描いたばかりの美しい髪のラインを少しだけ崩した。
「私が毎日、どこかを少しだけ描き変え、どこかをあえて描き残すことで、この絵の中の彼女は、私の筆を通じて呼吸をし、老い、迷い、生きることができる。『終わらない』でいることだけが、彼女に流れる時間を保証しているのだ。」
最高の矛盾。
その夜、老画家は静かに息を引き取った。
翌朝、弟子がアトリエに入ると、そこには主を失ったキャンバスが残されていた。
不思議なことに、最後の一筆が入っていないはずのその絵は、朝日を浴びて、昨日よりもわずかに微笑んでいるように見えた。しかし、弟子がどれだけ目を凝らしても、昨日まであったはずの「微かな塗り残し」がどこにあるのか、もう誰にも分からなかった。塗り残された小さな影も、筆の跡も見当たらない。
ただ、朝日に照らされたキャンバスの上で彼女は初めて自由を手にしたのだ。