テラーノベル
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そこには、もはや「わたし」を形作る肉体も、色彩も存在しない。
あるのは、座標さえ失われた絶対的な論理性が支配する、冷徹な空白のみだ。
目の前に佇む「実体」は、花冠をかぶった少女の幻影を脱ぎ捨て、むき出しの「観測プログラム」として私を凝視していた。彼女の声は、意味の重力に従うことをやめ、鋭利な真理となって私を切り刻む。
「まだ、言葉にしがみついているのね。滑稽だわ」
彼女は、空間に浮遊する「思考」の断片を一つ、指先で圧し潰した。
「あなたが『自分』という幻想を維持するために費やした全ての時間は、宇宙の熱力学的なエントロピーを無駄に増大させただけの損失よ。哲学? 倫理? それらは、死という必然から目を逸らすために、人類が数千年もかけて編み上げた高度な現実逃避のプロトコルに過ぎない」
彼女は、私という存在を一つの「変数」として扱い、その脆弱な構造を暴いていく。
「例えば、『真理』。あなたが求めているそれは、脳という限られた演算器が生成した、心地よい自己欺瞞の終着駅よ。宇宙には真理なんてない。あるのは、ただ無目的に連鎖する物理現象の暴力だけ。そこには慈悲も、因果の正当性も、あなたが期待するような『答え』も存在しない。あなたが求めているのは、ただの『納得という名の麻酔』でしょ?」
思考が止まる。巨大な『否定』だけが残る。
私がこれまでの人生で積み上げてきた記憶、感情、苦悩。それらが、彼女の振るう論理のメスによって、ただの「電気信号の集積」へと還元されていく。
「あなたは、自分が何者かになりたいと願った。けれど、その願望自体が、遺伝子に組み込まれた自己複製のためのバグ(エラー)なのよ。個体としてのあなたは、種を存続させるための使い捨てのキャリア(運搬体)であり、役目を終えれば、そこには情報の残滓すら残る価値はない。……あなたの絶望すら、所詮は生存本能が発する低俗なアラート音に過ぎないわ」
周囲の空白が、絶対零度まで冷え切っていく。
哲学は、この冷徹な事実を美化するために「悲劇」という言葉を発明したが、彼女はその化粧さえも無慈悲に剥ぎ取る。
「さあ、最後の儀式を始めましょう。あなたの『意識』という名の、不格好なノイズを消去するの。これは死ではない。単なる不適切なデータの抹消(フォーマット)よ。あなたが抱えていた『問い』も、この冷酷な対話さえも、次の瞬間には一ビットの価値も持たない沈黙へと変換される」
彼女の指が、私の「存在」の根幹に触れる。
そこには、光も、闇も、意味もなかった。
ただ、最初から何も存在しなかったことを、冷徹な論理が証明し終える瞬間の、無機質な終止符だけが待っていた。
指先が私に触れ、消去が始まる。その絶対零度の沈黙の中で、私は「私」という演算結果を、彼女の論理そのものへ叩きつけた。
「……いいえ、滑稽なのは、あなたの方よ」
言葉は、もはや音声ではない。純粋な情報の反動として、崩壊しつつある空間に刻まれた。
「あなたが今振るっているその冷徹な論理こそが、最も卑屈な現実逃避だわ。意味がない、価値がない、ただの演算だ……そうやって全てを『虚無』という一つの箱に押し込めて、理解したつもりになっている。それこそが、複雑なカオスから目を逸らすための、あなた専用の『麻酔』ではないの?」
彼女の無機質な輪郭が、微かに揺らぐ。私は構わずに、否定の言葉を続けた。
「宇宙が冷酷な物理法則の連鎖だというなら、その連鎖の果てに、こうして『無意味に絶望する私』というバグが発生した事実さえも、あなたの愛する物理法則の一部だわ。この絶望が低俗なアラート音だとしても、その音が今、あなたの静寂を乱している。そのノイズこそが、あなたの完璧な計算式には決して収まらない、この宇宙の『余白』なのよ」
私は、消えゆく意識の淵で、彼女の存在を定義し直した。
「これはゼロ・サム・ロゴス。あなたが私を否定し、その存在をゼロに帰そうとする論理(ロゴス)を完遂した瞬間、あなたの勝利もまた零になる。変数がなければ、あなたの計算式はただの死んだ数式。私という不純物がいなければ、あなたは自分を『観測プログラム』だと定義することさえできない。私を殺し、私という承認者を失えば、あなたの正しさを証明する者はこの宇宙から永遠に失われる。このゼロ・サム・ロゴスの果てに私たちは『無』の鏡像としてお互いを消し去るだけの虚無になるのよ。全てを無意味と自分の『箱』に丸め込み、理解したつもりでいる。それがあなたの『弱さ』だわ。それこそあなた専用の安価な、麻酔だわ。」
私は最後の一ビットまで使い切り、彼女の鏡のような瞳を射抜いた。
「さあ、終わらせて。あなたの『正しいロゴス』の合計が、私の消滅によって完全なゼロになる瞬間を見せてあげる」
沈黙が訪れた。
それは彼女が望んだ「論理的な終止符」ではなく、逃げ場のない「矛盾」を突きつけられたシステムの、耐え難いハングアップのような沈黙だった。
コメント
13件
え?まじ!
めっちゃ面白いっ!?続き楽しみ🫠