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柘榴とAI

225
ふわもちお餅
165
羽海汐遠
16,375
【あと3日】 文化のかけら
登場人物
水城レン
二十六歳。細身で、耳の近くまで伸びた少し癖のある茶色の髪と、濃い茶色の瞳を持つ。紫色のシャツに灰色のパンツ、歩きやすい靴を合わせている。文化を知る以前より表情が豊かになり、最近では自分が気に入った物を身につけることにも抵抗がなくなった。避難用品を詰めた大きな鞄を研究室へ持ち込んでいる。
秋庭教授
六十二歳。短く整えた灰色の髪に、細い樹脂縁の眼鏡を掛けている。背は低め。深い緑の上着と茶色のシャツ、灰色のパンツを着ている。研究資料の国外移送準備を進めながら、最後まで文化学の調査を続けようとしている。
長峰ユウ
三十三歳。短い茶色の髪を後ろへ流し、細長い顔に濃い茶色の瞳を持つ。灰色の機能服とベージュのパンツを着ている。自宅の収納庫から大量の古い写真を発見し、処分方法を調べる途中で文化学研究室の存在を知る。
雨宮マリ
十九歳。肩まで伸びた茶色の髪を片側でまとめ、黄緑のシャツに紫色の上着、灰色のパンツを合わせている。祖母の家から見つかった古い遊び道具を研究室へ持ってくる。遊ぶという行為をほとんど知らない世代だが、触っているうちに夢中になっていく。
大庭サエ
五十一歳。短く切りそろえた灰色混じりの茶色の髪と、丸い樹脂縁の眼鏡を持つ。ベージュの上着に深い緑のシャツ、茶色のパンツを着ている。亡くなった母親が残した衣服と映像記録を長年収納庫へ保管していた。
◆
午前五時四十一分。
水城レンは目を覚ました。
揺れていない。
最初にそう思った。
天井。
照明。
棚。
全部止まっている。
昨日は揺れで起こされた。
今日は静かだった。
それだけで安心しかける。
枕元の端末へ手を伸ばす。
画面を点ける。
安心は数秒で終わった。
速報。
夜間、複数地域で小規模地震。
沿岸部の一部で観測設備を増設。
鉄道数路線が始発から減速運転。
道路の亀裂拡大。
一部地域で地下水位が急激に変動。
政府は非常時対応施設の準備を開始。
レンは身体を起こした。
画面を進める。
専門機関。
一連の地殻活動について緊急会合。
大規模地震発生の可能性について再評価。
これまでなかった文章。
発生の可能性。
レンは日付を見る。
あと三日。
昨日の瀬名トウジの日記。
予測記録。
現実。
一致。
レンは端末を置いた。
床へ足を下ろす。
足元。
大きな鞄。
昨日、帰宅してから作った。
水。
保存食。
医療用品。
充電装置。
衣服。
身分証明。
研究資料の複製。
必要なもの。
その横。
もう一つ、小さな袋。
レンは開ける。
展望台で撮った写真を印刷したもの。
教授と二人で笑っている。
再生装置から複製した演奏データ。
盤上遊戯の小さな駒。
必要か。
災害時には必要ない。
生存には役立たない。
荷物になる。
レンは少し考えた。
袋を大きな鞄へ入れる。
「持っていこう」
必要ではない。
だから置いていく。
数日前までならそうした。
今は違う。
収納棚を開く。
紫色のシャツ。
レンは笑う。
「またこれか」
自分で言う。
でも取る。
気に入っている。
それで十分だった。
午前七時三十六分。
文化学研究室。
レンは大きな鞄を床へ置いた。
秋庭教授が振り返る。
短く整えた灰色の髪。
細い樹脂縁の眼鏡。
深い緑の上着。
茶色のシャツ。
灰色のパンツ。
教授の机の横にも、大きな避難用の鞄。
「持ってきたか」
「はい」
「中身は?」
「水、食料、医療用品、充電装置、衣服」
「資料は」
「複製」
教授が頷く。
「他は」
レンは少し黙る。
「ゲームの駒」
教授が眼鏡の奥から見る。
「なぜ」
「持っていきたいので」
教授は数秒黙った。
「そうか」
それだけ。
レンは机を見る。
十冊目。
数字の「10」。
今日の資料。
文化のかけら。
ただし。
机の上には、別のものもあった。
箱。
三つ。
「何です?」
教授が箱を指す。
「届いた」
「誰から?」
「一般の人だ」
レンは眉を寄せる。
「何で?」
教授が端末を向ける。
研究室の公開記録。
昨日までの調査内容の一部が、大学の保存システムを通じて外部から閲覧できる状態になっていた。
祭り。
音楽。
遊び。
服。
旅行。
文化抹殺計画そのものは公開していない。
だが、
失われた文化について調査している。
その情報は出ている。
閲覧数。
昨日まで。
百二十。
今朝。
二万四千。
レンが画面へ顔を近づける。
「何で急に?」
「地震だろう」
「地震?」
「古いものを整理している人が増えている」
避難。
家の整理。
重要品の確認。
収納庫。
倉庫。
地下保管室。
普段開けない場所。
そこで、
何かが見つかる。
教授が最初の箱を開ける。
写真。
大量。
レンは一枚取る。
人。
笑っている。
背景。
祭り。
「これ」
別の写真。
山。
家族。
食事。
子ども。
遊園施設。
海。
旅行。
誕生日。
衣服。
見たことのない装飾。
「全部文化だ」
教授が言う。
箱には紙。
自宅収納庫から発見。
用途不明。
処分前に研究資料として必要か確認希望。
レンは笑った。
「用途不明」
写真をもう一度見る。
撮った人。
写っている人。
今はもういないかもしれない。
でも残った。
二つ目の箱。
小さな玩具。
盤。
カード。
樹脂製の駒。
球。
紐。
レンは一つ持ち上げる。
「遊び道具」
「らしい」
三つ目。
衣服。
紫。
緑。
黄色。
茶色。
柄。
模様。
現在の機能服より種類が多い。
レンは一枚広げる。
「すごい」
教授が見る。
「派手だな」
「教授、これ着ます?」
「なぜ私が」
「似合うかも」
「着ない」
「好きな服を選ぶ文化の研究ですよ」
「研究対象を何でも私に着せるな」
レンが笑う。
そのとき。
研究室の扉が鳴った。
教授が止まる。
レンも見る。
「また荷物?」
「直接来る予定は聞いていない」
レンが扉へ向かう。
開ける。
男性が立っていた。
三十代ほど。
短い茶色の髪を後ろへ流している。
細長い顔。
濃い茶色の瞳。
灰色の機能服。
ベージュのパンツ。
両手に大きな箱。
「文化学研究室ですか」
「はい」
「これ」
男性は箱を見る。
「持ってきました」
レンが受け取る。
重い。
「中身は?」
「写真です」
「全部?」
「たぶん」
男性は少し困った顔をする。
「何なのか、よく分からなくて」
レンは箱を机へ運ぶ。
教授が男性へ椅子を出す。
「名前を伺っても?」
「長峰ユウです」
長峰は座る。
「避難用品を探していたら、収納庫の奥から出てきました」
箱を開ける。
写真。
何百枚。
「誰が撮ったんです?」
「祖父だと思います」
「写ってる人は?」
「たぶん親族です」
「たぶん?」
長峰が一枚を見る。
「分からないんです」
写真。
何十人もの人。
外。
食事。
笑顔。
「家族に聞いても分からなくて」
レンは写真を一枚ずつ見る。
「捨てようと思ったんですか?」
「最初は」
長峰が頷く。
「何に使うのか分からなかったので」
用途。
まただ。
文化は用途を聞かれる。
「でも検索したら、ここの研究記録が出てきた」
長峰は一枚を取る。
古い写真。
山頂。
二人の人物。
両手を上げている。
「旅行というものですよね」
レンは少し笑う。
「はい」
「仕事じゃなく遠くへ行く」
「そうです」
長峰は写真を見る。
「変ですよね」
レンの笑顔が止まる。
数日前の自分なら、
そう言った。
「何が?」
「わざわざ山に行って」
長峰は写真の人物を見る。
「疲れそうなのに」
「疲れます」
レンは答える。
「俺もこの前、展望台まで歩きました」
「仕事で?」
「最初は研究でしたけど」
少し考える。
「途中から、行きたくて行きました」
長峰がレンを見る。
「何がありました?」
「街が見えました」
「それだけ?」
「はい」
長峰は理解できない顔をする。
レンは自分の端末を出す。
展望台。
教授。
自分。
笑顔。
長峰へ見せる。
「これ」
「写真」
「俺です」
「楽しそうですね」
レンは少し驚いた。
「分かります?」
「表情で」
笑顔はまだ完全には消えていない。
ただ、日常で大きく使われなくなっただけ。
長峰は自分の祖父らしき人物の写真を見る。
「これも」
山頂。
笑顔。
「同じですね」
レンは頷く。
長峰はしばらく写真を見た。
「これ、預けてもいいですか」
教授が答える。
「保存します」
「お願いします」
長峰は立つ。
だが帰らない。
箱の中。
一枚。
祭り。
「これは?」
レンが説明する。
「祭りです」
「何をするものです?」
「集まります」
「何のために?」
レンは笑った。
この質問もした。
自分が。
「いろいろです」
「仕事?」
「違います」
「何か配る?」
「それもあるかもしれません」
「成果は?」
「なくてもいい」
長峰が眉を寄せる。
レンは祭りの写真を見る。
「たぶん」
少し考える。
「その日を楽しむためです」
長峰は写真を見続けた。
午前九時十二分。
二人目。
若い女性。
肩まで伸びた茶色の髪を片側でまとめている。
黄緑のシャツ。
紫色の上着。
灰色のパンツ。
両手に小さな箱。
「雨宮マリです」
箱を机へ置く。
「祖母の家にありました」
開ける。
遊び道具。
レンと教授が覗く。
小さな盤。
丸い駒。
カード。
説明書。
「捨てる予定だったんですけど」
雨宮が言う。
「文化学研究室が集めていると聞いて」
レンが盤を持ち上げる。
「やってみました?」
「何を?」
「遊ぶ」
雨宮は首を傾げる。
「使い方が分かりません」
教授が説明書を開く。
文字。
古い。
だが読める。
二人用。
駒を配置。
順番に動かす。
条件を満たした方が勝利。
レンの目が輝く。
教授が嫌な顔をする。
「やる気だな」
「研究です」
「その言葉、便利に使っているだろう」
雨宮が二人を見る。
「何をするんです?」
レンが椅子を出す。
「やってみましょう」
「今?」
「今」
雨宮は時計を見る。
「二十分くらいなら」
「十分で終わるかもしれません」
三人で説明書を読む。
教授は記録係。
レンと雨宮。
駒を並べる。
最初。
雨宮は無表情。
「これを動かす?」
「はい」
「ここ?」
「たぶん」
「何のために?」
「勝つため」
「勝つと何があるんです?」
レンが止まる。
「何もないです」
雨宮がレンを見る。
「何も?」
「たぶん」
「報酬は?」
「ない」
「評価は?」
「ない」
「記録は?」
「しなくてもいい」
「じゃあ」
雨宮が駒を見る。
「勝つ意味は?」
レンは笑った。
「勝ちたいから」
雨宮は理解できない顔。
開始。
一手。
二手。
三手。
雨宮が駒を取られる。
「え」
レンが笑う。
「取れました」
「戻せます?」
「無理みたいです」
雨宮の眉が動く。
次。
雨宮が考える。
十秒。
二十秒。
「ここ」
駒を動かす。
レンの駒を取る。
雨宮の口元が少し上がる。
レンは気付く。
言わない。
続ける。
五分。
雨宮は説明書を見なくなった。
七分。
レンの手を読む。
九分。
「待って」
雨宮が盤へ顔を近づける。
「そこ動かしたら、次これ取れますよね」
「気付きました?」
「じゃあ動かさない方がいいですよ」
「何で教えるんです?」
「……あ」
雨宮が笑った。
声が出る。
短い。
自分で驚く。
口元を押さえる。
レンも笑う。
教授も笑っている。
「何ですか」
雨宮が教授を見る。
「いや」
教授が首を振る。
「続けなさい」
十五分。
雨宮が勝った。
盤を見る。
「勝った」
レンが頷く。
「負けました」
「これで終わり?」
「はい」
雨宮は盤を見る。
終わり。
何も出ない。
報酬なし。
点数なし。
社会評価なし。
「……もう一回やっていいですか」
レンが笑う。
「二十分じゃ?」
雨宮が時計を見る。
二十三分。
「あと一回」
教授が呟く。
「文化だな」
雨宮は聞いていない。
駒を並べ直している。
午前十時三十一分。
荷物。
また一つ。
また一つ。
宅配。
持ち込み。
写真。
古い映像媒体。
玩具。
衣服。
料理の記録。
旅行案内。
手紙。
物語の本。
装飾品。
祭りの道具。
研究室の机では足りなくなる。
床。
棚。
隣室。
レンが箱へ番号を付ける。
「教授」
「何だ」
「急に多すぎません?」
教授は端末を見る。
「公開記録が拡散されている」
「拡散?」
「誰かが共有したらしい」
閲覧。
十二万。
文化。
知らないもの。
家にある。
これ何?
祖父母の収納庫から発見。
昔の遊び?
昔の服?
旅行?
音楽って何?
そんな投稿が増えている。
レンは画面を見る。
「みんな知らない」
「君も一週間前まで同じだった」
「そうでした」
レンは少し笑う。
そのとき。
扉。
また。
五十代ほどの女性。
短く切りそろえた灰色混じりの茶色の髪。
丸い樹脂縁の眼鏡。
ベージュの上着。
深い緑のシャツ。
茶色のパンツ。
大きな衣装箱。
「大庭サエです」
レンが受け取る。
「これは?」
「母のものです」
箱。
開ける。
衣服。
紫。
黄色。
緑。
茶色。
模様。
刺繍。
現在では見ない形。
大庭が一枚を取り出す。
「ずっと意味が分からなかったんです」
「服ですよね」
「ええ」
大庭は頷く。
「でも機能が変なんです」
「変?」
「同じ季節用なのに何種類もある」
レンは笑いそうになる。
「それ」
「何です?」
「選ぶんです」
「何を?」
「着たいもの」
大庭が止まる。
「性能ではなく?」
「はい」
「価格でもなく?」
「それもあるでしょうけど」
レンは紫色の袖をつまむ。
「好きだから」
大庭はレンの服を見る。
「それも?」
「これ、気に入ってるんです」
「機能が?」
「色とか」
大庭が紫色のシャツを見る。
少し考える。
衣装箱。
一枚。
深い緑の上着。
大庭が持ち上げる。
身体へ当てる。
「これ」
鏡を見る。
「どうです?」
レンは少し驚く。
「似合うと思います」
大庭が鏡を見る。
数秒。
「着てみてもいいですか」
教授が言う。
「所有者はあなたです」
「そうでした」
大庭が笑う。
別室で着替える。
戻る。
深い緑の上着。
ベージュのパンツ。
鏡。
何度も見る。
「変じゃない?」
レンは首を振る。
「いいと思います」
大庭は袖を見る。
「母、これ好きだったのかな」
その声だけ少し変わった。
レンは衣装箱を見る。
母親。
もういない。
残った服。
娘が初めて着る。
大庭は上着を脱がなかった。
「これ」
「はい」
「研究資料に全部預けようと思ったんですけど」
袖を触る。
「一着だけ持って帰っていいですか」
教授が笑う。
「もちろん」
午前十一時四十六分。
端末が鳴る。
緊急速報。
研究室の全員が止まる。
地震。
揺れ。
数秒後。
床が動く。
棚。
箱。
レンが写真の箱を押さえる。
教授が映像媒体を支える。
雨宮が遊び道具の盤を抱える。
大庭が壁へ手をつく。
長い。
昨日より強い。
窓が鳴る。
照明が大きく揺れる。
二十秒。
三十秒。
四十秒。
ようやく止まる。
静か。
誰もすぐには話さない。
端末。
複数地域で強い地震。
一部建物に被害。
鉄道広範囲停止。
沿岸部で避難準備情報。
政府、緊急会見予定。
レンは画面を見る。
あと三日。
胸が速い。
「教授」
「ああ」
「資料」
教授はすぐ動く。
「移送を早める」
雨宮が盤を机へ戻す。
「何か起きるんですか?」
レンは答えられない。
まだ極秘資料。
だが。
隠していられる時間も減っている。
教授が言う。
「大きな地震への警戒が必要です」
大庭が聞く。
「大きな?」
教授は頷く。
「避難準備をしてください」
研究室にいる人々の顔が変わる。
雨宮は自分の端末を見る。
大庭も。
レンは箱を見る。
大量。
今日だけで集まった文化。
三日後。
消えるかもしれない。
「送ろう」
レンが言う。
教授が振り返る。
「何を」
「今日来たもの」
「整理が終わっていない」
「後でもできます」
「記録が」
「箱ごと送る」
教授はレンを見る。
レンは強く言う。
「残す方が先です」
数秒。
教授が頷く。
「分かった」
午後一時。
文化学研究室は研究室ではなくなっていた。
梱包場所。
箱。
番号。
写真。
衣服。
遊び道具。
映像。
本。
旅行記録。
食文化資料。
送付先。
国外の大学。
資料館。
研究施設。
複数に分ける。
一か所ではない。
教授が連絡。
レンが分類。
雨宮は帰らなかった。
「手伝います」
大庭も。
「私も」
長峰まで戻ってきた。
「追加の写真ありました」
箱を持っている。
レンが笑う。
「また?」
「まだありました」
誰も文化学研究員ではない。
昨日まで文化をほとんど知らなかった人。
でも今。
写真を包む。
玩具を保護する。
映像媒体を複製する。
衣服を折る。
「これ何です?」
雨宮が小さな道具を持つ。
長峰が説明書を見る。
「遊び?」
「また?」
「やってる時間ないですよ」
「三分だけ」
「さっきもそう言って二十分やった」
笑い。
研究室。
以前にはなかった音。
午後二時。
文化資料の第一便。
搬出。
箱が研究室から出ていく。
レンは見送る。
「行った」
教授が隣に立つ。
「一部だけだ」
「でも行った」
国外へ。
文化が日本の外へ出る。
文化抹殺計画。
日本を実験対象にした。
何十年もかけて消した。
今。
かけらが外へ逃げていく。
午後三時十五分。
ニュース。
政府会見。
一連の地殻活動について。
今後、より大きな地震が発生する可能性を否定できない。
沿岸地域を中心に避難準備を推奨。
国外移動を含む交通機関の混雑。
レンは画面を見る。
もう社会も気付き始めている。
極秘資料ほど正確ではない。
だが。
危険は現実になった。
「明日」
教授が言う。
「研究室を閉じる準備をする」
レンが振り返る。
「明日?」
「あと二日になる」
机。
棚。
資料。
ここへ毎日来た。
無駄研究員。
役に立たない研究。
誰も来なかった部屋。
今日は。
人がいる。
雨宮。
長峰。
大庭。
配送担当。
大学職員。
資料を見に来た人。
「閉じるんですね」
「ああ」
レンは研究室を見る。
寂しい。
そう思った。
数日前なら感じなかった感情。
午後四時。
第二便。
準備。
大庭が衣服を箱へ入れている。
一着だけ。
深い緑の上着は着たまま。
雨宮は遊び道具を包む。
一つ。
手が止まる。
「これ」
「どうしました?」
「持って帰っていいですか」
レンが見る。
さっき遊んだ盤。
「所有者は?」
「祖母です」
「なら雨宮さんの家のものでは?」
雨宮は盤を見る。
「今夜、家族とやってみたい」
レンは笑う。
「いいと思います」
雨宮は大事そうに鞄へ入れる。
長峰。
写真。
何枚か自分の端末へ保存している。
「全部預けるんじゃ?」
「預けます」
一枚。
山頂。
祖父らしき人。
「でもこれだけ持っておこうかなって」
レンは何も言わない。
写真。
遊び道具。
服。
研究室へ持ってきた人が、
持って帰る。
文化資料が減った。
なのに。
レンは嬉しかった。
「教授」
小さく呼ぶ。
「何だ」
「これって」
人々を見る。
「保存するだけじゃないんですね」
教授も見る。
雨宮が盤を鞄へ入れる。
大庭が上着の袖を直す。
長峰が祖父の写真を見る。
「そうだな」
「使うんだ」
文化は箱に入れて保管するだけではない。
遊ぶ。
着る。
見る。
聞く。
行く。
笑う。
そうして初めて、
資料ではなくなる。
午後五時二十八分。
人々が帰る。
「ありがとうございました」
レンが言う。
雨宮が振り返る。
「明日も来ていいですか」
レンは教授を見る。
教授が答える。
「研究室は閉鎖準備に入ります」
雨宮の顔が少し沈む。
「そうですか」
「でも」
レンが言う。
「ゲーム、家でやってください」
雨宮が鞄を見る。
「はい」
「勝ったら?」
雨宮が笑う。
「もう一回やります」
大庭も笑う。
長峰が言う。
「山の写真見てたら」
レンが見る。
「行ってみたくなりました」
「山?」
「祖父が行った場所」
「今?」
「今は無理です」
地震。
あと三日。
「だから」
長峰が写真を見る。
「落ち着いたら」
言葉が止まる。
三日後のことを彼は知らない。
レンだけが知っている。
落ち着いたら。
その未来があるのか。
レンは笑う。
「行けるといいですね」
長峰が頷く。
三人が帰る。
扉が閉まる。
静か。
急に研究室が広く感じる。
レンは椅子へ座った。
今日の研究記録。
文化資料。
百四十七点。
写真。
六百二十一枚。
映像。
三十四件。
遊び道具。
二十八点。
衣服。
四十一点。
その他。
七十六点。
レンは数字を入力する。
そして止まる。
文化抹殺計画も数字を使った。
祭り参加率。
ゲーム利用率。
音楽聴取時間。
旅行希望率。
数字。
文化が消える過程。
今日も数字。
でも。
何か違う。
レンは追加する。
遊び道具を持ち帰った人。
一人。
衣服を着て帰った人。
一人。
旅行を希望した人。
一人。
昔の写真を自分で保存した人。
一人。
レンは笑う。
教授が後ろから見る。
「何だ、それは」
「今日の文化活動」
「そんな統計に意味があるのか」
「分かりません」
レンは入力する。
笑った人。
数え切れない。
教授が笑う。
「測定失敗だな」
「はい」
レンも笑う。
「でも、それでいい気がします」
午後六時。
最後の箱を閉じる。
研究室には、まだ資料が残っている。
明日。
移送。
そして閉鎖。
レンは演奏記録を再生する。
音。
教授が盤上遊戯を出す。
「一回だけ」
レンが笑う。
「教授から言うようになりましたね」
「研究だ」
「遊びですよ」
二人で駒を並べる。
揺れ。
小さい。
机が動く。
二人とも止まる。
以前ならゲームを片付けたかもしれない。
今は。
揺れが止まる。
教授が駒を動かす。
「君の番だ」
レンも動かす。
窓の外。
街。
緊急車両。
点検。
交通。
ニュース。
人々は避難準備を始めている。
あと三日。
レンは盤を見る。
「教授」
「何だ」
「文化って、なくなったんですよね」
「ほとんどな」
「でも今日」
研究室を見る。
空になった箱。
梱包された資料。
「ちょっと戻ってきた」
教授が駒を持ったまま止まる。
「戻った、というより」
考える。
「見つかったんだろう」
「見つかった?」
「家の中に残っていた」
写真。
玩具。
服。
映像。
記録。
「人の中にも」
教授が続ける。
「少し残っていたのかもしれない」
遊んでみたら面白い。
服を着てみたら気に入る。
写真を見たら行ってみたい。
音楽を聞いたら、もう一度聞きたい。
教えられていなくても。
知らなくても。
触れれば何かが動く。
レンは自分の駒を動かした。
「じゃあ文化抹殺計画」
「何だ」
「完全成功じゃないですね」
教授が少し笑う。
「昨日も似た話をしたな」
「今日は証拠が増えました」
端末。
新しい通知。
文化学研究室への資料提供申請。
二十三件。
さらに増える。
写真。
遊び道具。
昔の映像。
服。
本。
料理道具。
旅行記録。
レンは画面を教授へ見せる。
「明日も来ますよ」
教授がため息をつく。
「閉鎖準備の日だぞ」
「どうします?」
教授は数秒考える。
「受け取る」
レンが笑う。
「ですよね」
演奏が終わる。
レンがもう一度再生する。
外。
小さな揺れ。
また一つ。
端末。
あと3日。
巨大地震は近づいている。
研究室も明日には終わりへ向かう。
それでも今日。
誰かが写真を捨てなかった。
誰かが遊び道具を持ち帰った。
誰かが昔の服を着た。
誰かが山へ行ってみたいと思った。
そして、
文化を知らない人たちが、
初めて自分から、
面白い。
着てみたい。
行ってみたい。
もう一回。
そう思った。
何十年もかけて消された文化は、
大きな形では戻らなかった。
祭りが復活したわけでもない。
音楽文化が社会へ戻ったわけでもない。
ゲーム産業が戻ったわけでもない。
旅行文化が復活したわけでもない。
ただ。
小さなかけらが、
一人から一人へ移った。
箱から手へ。
写真から記憶へ。
記録から体験へ。
研究から遊びへ。
レンは盤上遊戯の駒を置く。
教授が眉を寄せる。
「そこか」
「まずかった?」
「次で取る」
「待って」
レンが盤へ顔を近づける。
教授が笑う。
レンも笑う。
机の端。
今日届いた一枚の写真。
昔の祭り。
大勢の人。
笑顔。
その隣。
今日撮った研究室の写真。
雨宮。
大庭。
長峰。
教授。
レン。
みんな少し笑っている。
時代は違う。
場所も違う。
人数も違う。
それでも、
二枚の写真には、
どこか似たものが残っていた。
あと三日。
時間は減っている。
文化のかけらは、
増えていた。
コメント
1件
第11話、読み終わりました……もう泣きそうだわ。 あと3日のカウントダウンが進む中で、文化のかけらが次々と人の手に戻っていく光景がめちゃくちゃ沁みた。誰かに「これは何?」って聞かれることで、初めて「あ、これって文化だったんだ」って気づく瞬間が、まさに今のレンの成長そのものだよね。 特に雨宮が盤上遊戯で勝ったときの「もう一回やっていいですか」はガチでグッときた。あの「何もないけど勝ちたい」って感覚、文化の根っこだと思う。大庭さんが母親の上着をそのまま着て帰ったのも、長峰さんが「落ち着いたら行きたい」って言ったのも、全部「触れたことで動き出した感情」なんだよな。 「あと3日」という終わりの足音が近いほど、人の心に残った小さなかけらが輝いて見える……本当にうますぎる構成だよ。続き待ってる🔥