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『あ……神原さんですか? OTAの理咲です。昨日は、危ないところをほんとうにありがとうございました。』
天魔は私にも聞こえるようにスピーカーにしてくれた。そこから漏れる理咲の声は、驚くほど殊勝で甘く震えていた。
仮にも恋人だと思っていた涼二に置き去りにされ、チンピラに絡まれ、暗闇で絶望していた彼女を救い出したのは、白馬の騎士ならぬ「若き億万長者」の彼だったのだから、取り入りたい気持ち満々なのが、手に取るようにわかる。
「ああ、理咲さん。怪我はなかったですか? 気になっていたのです」
『はい……おかげさまで。あの、もしよろしければ、昨夜のお礼をさせていただきたくて。食事をご馳走したいのですが、今夜、お時間はありますか?』
天魔が私を見て、薄く笑う。私は黙って頷いた。
「今夜ですか。あいにく、シンガポールの投資家と打ち合わせがありまして」
『お忙しいのですね』
「ありがたいことに、忙しくさせてもらっています。だからこそ、HPを早急になんとかしたいと思っているのですよ」
『でしたら、打ち合わせがてら、神原さんのお時間の都合のよい時にいかがでしょうか?』
「そうですね。君のような魅力的な女性を待たせるのも失礼だ。18時から時間を空けます。どうでしょう?」
『ぜひ!』
「お会いできるのを楽しみにしています」
電話を切った天魔が、フッと息を吐いて元の顔に戻る。
「釣れたな。教科書通りの反応だ」
「さすがね。しれっと投資の話まで差し込んだし」
「ああ。理咲にこれから大がかりな投資話を持ちかける」
天魔はカウンターに置かれているタブレットを操作し、OTAの財務情報を表示した。
「この会社、表面上は好調だが、内部は資金繰りに苦労している。理咲の散財が原因だ。だから『ある特有の銘柄を保有すれば、倍の利益を約束する』と囁けば、迷わずハンコを押すだろう。それが、OTAを明け渡す地獄の招待状だとも知らずにね」
「さすが、徹底してるわ」
「依頼人(さや)が望むことですから」
いたずらな顔をして笑う彼を見て、こちらも思わず笑顔になった。
「後はよろしく」
「ああ。任せろ。愛人を派手に散らせてやるよ」
店を出て明るい新宿の街を歩いた。夜に見せる顔と全然別の街のよう。
理咲や涼二のことは、天魔に任せていればすべてうまく行くかもしれない。でも、それじゃだめよね。私もできることは頑張らなきゃ。
証拠はぜんぶ自分で集めなきゃ。
でなければ、いい脚本(シナリオ)はできない。
今夜、18時。西新宿のカール・トゥ・ラタンの最上階ラウンジ。
そこが、理咲の転落の始まりの場になる。こっそり取材に行こうかしら。……なんてね。今日は涼二が普通に帰ってくる日だから、夕飯作らなきゃ。面倒くさいな。
でも、完璧妻は最後まで完璧に見せるもの。
私は今、『藤崎沙耶』という監督兼主演。どんなに苦しくても、辛くても、サレ妻沙耶を最後まで演じ切ってみせるわ!
近所のスーパーに立ち寄り、涼二の好物である鶏のみぞれ煮の材料を買う。大根、鶏肉、彩りのための三つ葉。
レジに並びながら、私は頭の中で「藤崎沙耶」というキャラクターのパラメータを調整する。少し疲れているけれど、夫の帰宅を健気に待つ、控えめで献身的な妻。
新宿で復讐の打ち合わせをしていた沙耶は、スーパーの自動ドアを出る頃には、心の奥底へ封印した。
帰宅して洗濯物を取り込み、掃除をして、夕方になったらエプロンを締める。大根を下ろす音が静かなキッチンに規則正しく響いていく。
かつてはこの音が、私たちの幸せな日常の象徴だと思っていた。
会社で嫌なことがあっても、涼二が喜んでくれるからと思って好物を研究し、食べてもらうために頑張った。だからこそ、温かい家庭が続いていくと信じていた。
滑稽ね。私がこうしてあなたのための料理を作っている間、彼は理咲の肌に触れ、私の知らない言葉で愛を囁いていたのだ。
そう思うと料理に憎悪が混じっていく。
私の憎悪を食して、お腹でも壊して苦しんでのたうち回ればいいのに。
19時。玄関の鍵が開く音がした。
私は火を止め、鏡を見て一呼吸置く。広角を上げ、柔らかい表情を作って彼を出迎えた。GPSを見ていたけれど、特にどこにも寄らずに帰ってきた。
「おかえり、涼二。早かったわね。お仕事ご苦労様」
「ただいま」
涼二は心なしか浮ついた様子で入ってきた。
昨日は理咲を捨てて逃げ出し、愛人から別れを切り出されたけれど、秋也という新しい救いに出会い、大物脚本家とのパイプを手に入れたと信じ込んでいるのだから、そういう態度になるのも当然か。
「今日はあなたの好きなみぞれ煮よ」
「嬉しい。腹減ってたんだ」
涼二は鞄を放り投げ、ソファに深く腰掛けた。その顔には、自分が不倫をしていた罪悪感など微塵も感じられない。むしろ、新しい「才能」を見出された自分に酔いしれているように見えた。
食卓に並んだ料理を、涼二は無造作に口へ運ぶ。
「うまい。やっぱり沙耶の飯がいいな」
「そう? よかった」
つけっぱなしのテレビからは、新宿の夜景をバックにしたニュースが流れていた。理咲は今頃、神原新次郎――天魔と食事の真っ最中のはず。
彼女が破滅への階段を上り始める瞬間を想像するだけで、心が高揚する。
「ねえ、涼二」
「ん?」
「最近、お仕事忙しそうだけど、体調は大丈夫? 脚本の勉強も夜遅くまでやってるみたいだし」
心配する妻のトーンで話しかけた。あなたへの愛情がなくなったと思わせないためよ。
「ああ、まあな。でも、チャンスが来てるんだ。近いうちに、デカい仕事が決まるかもしれない」
「すごいわ。頑張ってね。応援してるから」
会話はいつも通り。
私の演技は完璧。
どこから見ても平穏な夫婦の食卓。そう確信していたのに――
「なあ、沙耶。今日新宿にいてなかった?」
しまった!
よりによって、私の行動を見られていたなんて!
コメント
1件
みぅ🤍です、読了しました〜 沙耶の「完璧妻」と復讐者としての顔の切り替え、もうゾクゾクしますね…! 料理に憎悪を込めてる描写がめちゃくちゃ好き。あの毒を食わせてる感、たまらないです。 最後の涼二の一言はヒヤッとした…! これからどうなるんだろう、続きが気になりすぎます🥀 さぶれさんの心情描写、いつも刺さります。 次話も楽しみにしてますね🌙