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パンドラの箱をそっと閉じ、私はLueurのバックヤードで白衣に袖を通した。ルーペを手に取る……白衣の袖口がわずかに擦れる音だけが、静まり返った作業室に響く。ルーペのレンズ越しに見えるのは、今日届いたばかりの原石の断面。淡い青みがかった結晶が、光を浴びて内部で細かくきらめいている。まるで、誰かの凍りついた涙のようだ。私は深く息を吐き、ルーペを置いた。
向かいの席は整然と片付き、田川亜美の姿は跡形もなく消えていた。彼女は私の『Reborn Eternal』を盗作したとして、Lueurを解雇された。
解雇の通知は、朝一番で届いた。Lueurの代表取締役からの短いメール。件名はただ「人事異動および契約終了について」。本文には、亜美が『Reborn Eternal』のデザインを無断で流用し、外部クライアントに提出した事実が淡々と列挙されていた。証拠として添付されていたのは、私が隠し撮りした写真とは別のもの。もっと鮮明で、もっと残酷なもの。
監視カメラが捉えた深夜のバックヤード。亜美が私のスケッチブックを、膝の上で拓也と笑いながら広げていた。日付は三ヶ月前。私は知らなかった。自分のスケッチが、こんな形で回収され、武器にされていたなんて。
けれど、今となってはそれがどうでもいい。亜美は消えた。Lueurから、拓也の人生から、私の視界から。
田川亜美には、心理的苦痛と不倫の慰謝料請求300万円の、内容証明郵便を送った。盗作デザイナーとしての汚名を背負い、職を失った彼女にとって、これは重い足枷となるだろう。
私は白衣のポケットから、スマホを取り出す。アルバムを開き、三枚の写真を1つずつ確認する。どれも暗くて粗い。でも、十分だ。拓也の表情、亜美の指先、グラスに映る二人の影。すべてが、そこにあった事実の欠片。
削除するか。
迷いは一瞬だけだった。指が画面を滑り、アルバムごとゴミ箱へ。確認のポップアップが出る。「本当に削除しますか?」私は迷わず「はい」を押した。
消えた。
これで、拓也と亜美の不倫の証拠は私の頭の中にだけ残る。誰にも見せない。誰にも使わせない。ただ、私が忘れないために。
ルーペを再び手に取り、原石に向き直る。『Reborn Eternal』は、Lueurの新作としてショーケースに並ぶ予定だ。最優秀賞のトロフィーは、棚の奥に置かれ、埃をかぶり始めていた。『Reborn Eternal』の次作を考えなければならない。私は深呼吸して、ルーペを覗き込んだ。ピンセットで小さなメレダイヤを配置し、傷跡の周りに星屑のように散らす。デザインはもう完成している。
もう二度と、誰かに盗まれるようなものは作らない。もっと深く、もっと複雑に、もっと私だけのものに。作業台の端に置かれた小さな鏡に、自分の顔が映る。目が少し腫れている。頬がこけている。でも、唇の端は、ほんのわずかに上がっていた。
拓也はまだ、私の知らないところで何かをしているかもしれない。でも、それはもう、パンドラの箱の中のものだ。私はそっと蓋を閉めたまま、ルーペの焦点を合わせる。光が、結晶の奥深くまで届いた。そこには、誰も触れられない、私だけの永遠が眠っていた。
店舗が賑やかになり、女性スタッフが色めき立つ。髪を整え、バックヤードで口紅を直す姿もあった。なんだろうと振り向くと、そこに倉橋智久の姿があった。柔らかい微笑み、落ち着いた仕草に皆、浮かれている。
彼はLueurのショーケースをゆっくりと眺め、店長に軽く会釈した。ダークグレーのコートを脱ぎ、スタッフに預ける仕草すら優雅だ。
女性陣の視線が彼に集まる中、倉橋の目は私を探していた。「佐々川さん」名前を呼ばれ、私はルーペを置いて立ち上がった。白衣の袖を軽く払い、カウンターへ向かう。スタッフの視線が背中に刺さるが、気にしない。
「お久しぶりです、倉橋さん」
彼は穏やかに微笑み、ケースの中の『Reborn Eternal』を指差した。
「これ、君の新作?」
私は頷いた。
「はい。最優秀賞をいただいたデザインです」
倉橋はリングをじっと見つめ、静かに言った。
「傷が光に変わる……美しい。君らしい」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。スタッフのざわめきが遠く感じる。
「今日は、どうしてこちらに?」
彼は軽く肩をすくめた。
「新作を見にきたのと……君に会いにきた」
女性スタッフの溜息が聞こえる。私は小さく笑った。
「嬉しいです。……少し、奥でお話ししましょうか」
倉橋は頷き、私の後についてバックヤードへ。私はコーヒーを淹れ、2つのカップをテーブルに置いた。乾いたプラスチックの音が小さく鳴った。倉橋はカップを手に取り、静かに言った。
「あれから気になっていたんだけど、離婚の話はどうなったの?」
突然の問いかけに言葉を失ったが、大きな溜息が重く胸に落ちる。
「まだ迷っています」
「……そう」
私はカップの縁を指でなぞりながら、静かに言葉を続けた。
「離婚届は、もう私の欄にサインしてあります。ただ……提出するタイミングが、まだ決められなくて」
倉橋はカップをそっと置き、穏やかな瞳で私を見た。急かさず、ただ待つような沈黙が心地いい。
「迷う気持ち、わかるよ。5年一緒にいた相手だ。簡単に切り捨てられない」
私は小さく頷いた。喉の奥が熱くなる。
「パンドラの箱を開けてしまったんです。夫の浮気相手が意外な人で……」
「パンドラの箱……?」
倉橋の表情がわずかに変わった。驚きではなく、静かな理解の色。
「それを知った今、離婚は「解放」なのか、それとも「敗北」なのか……わからなくなって」
私はカップを両手で包み、温かさを確かめた。
「けれど君の光は、もう誰にも奪われない。……これから、どうする?」
私はサファイアのリングを指で回した。青い傷が、光を屈折させて輝く。
「新しいデザインを描き続けます。傷も、闇も、すべてを光に変えて」
倉橋は微笑んだ。凪のような、優しい笑み。
「応援してる」
私は頷いた。
離婚届は、私の手の中にある。私の人生は自分で決める。例えそれが「敗北」であったとしても、幕を下ろすのは私だ。サファイアが力強く煌めいた。この青を永遠に私のものにする。