テラーノベル
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#ハッピーエンド
26
三十七階層の夜は、雨と荒波が張り合うような音を立てていた。
海岸線から少し離れた小高い砂地に、ダリウスたちはキャンプを張っている。頭上にはタープ、その奥にはテント。布を叩く雨粒がぱちぱち弾け、跳ね返った水滴がランプの灯りの中できらりと光った。
タープの下、簡易テーブルを囲んで四人が腰を下ろしている。湯気を立てる木椀の中には熱々のポタージュ。膝の上には、表面がカリッと焼かれたパン。雨が運ぶ冷気が足首のあたりにまとわりつき、焚き火の残り火がかすかに湿った匂いを混ぜてくる。
スプーンでポタージュをすくえば、とろりとした液体が舌の上で広がった。最初にくるのは炒めた玉ねぎの甘みと、煮込まれた根菜のほっこりした旨み。続いて、ほぐれた豆の粒が舌の上でほろりとほどけ、素朴な豆の風味がじわりと残る。冷えた指先が、椀の熱で少しずつほどけていった。
少し離れたタープの端では、エリーがひとり、椅子にも座らず支柱にもたれかかって干し肉を齧っている。雨の夜ばかりは彼女も距離を取りきれず、同じ屋根の下にいた。
それでも、テーブルの空気は軽くならない。椀に触れるスプーンの音、パンを割る小さなひびき、外でうなる波――どれも会話の隙間を埋めるように続いていた。
「み……みんな、新しい技、すごいよね!!」
ミラがパンを皿に置いたまま、ぎこちない笑顔を作って口を開いた。声だけが明るく跳ね、視線は誰の顔にも長く留まらない。
「ああ……そうだな」
ダリウスも同じように笑みを返す。だが、指先は椀の縁を必要以上に撫でていた。
(あの“溶ける”ような感覚が来てから……)
世界がぐにゃりと歪み、距離の感覚も、自分の腕の輪郭すら曖昧になった瞬間が、瞼の裏に浮かんでは消えない。
(《深き森》に入っていられる時間も、成功率も落ちた……。
このままで、本当に……いいのか?)
スプーンが椀に当たる小さな音が、雨の向こうまで響くように耳に残った。
「……ちょっといいか?」
普段なら真っ先に「おかわり!」と言い出すはずのオットーが、珍しく、そろそろと手を挙げた。いつもより低い声。椀の湯気がその顔を揺らし、口元だけが固い。
「このまま進むのは……やめた方が良くねぇか?」
雨音の隙間に落ちた言葉が、テーブルの木目に沈む。ミラの手が止まり、エドガーの視線が一度だけ上がった。
「そうかもしれませんね」
エドガーも静かに頷く。椀を置き、両手を組んでテーブルの上に乗せる。いつもの講釈口調は影を潜め、声だけが整然としていた。
「一旦、それぞれのスキルを見直して、もっと連携を高めてから上の階層に行く。
その方が、リスクは少ないでしょう」
「……俺の《阿修羅》、連発は危ねぇ」
オットーは視線をテーブルの木目に落としたまま、喉の奥から言葉を引きずり出す。
「失神したら盾がなくなって、お陀仏だ……。
それに、その……言いにくいが……言う。……ダリウスも、調子が悪い」
ちら、と申し訳なさそうにダリウスを見る。言い終えたあと、視線が戻りきらずに揺れた。
「気を使わなくてもいいよ、オットー」
ダリウスはふっと微笑んだ。否定も反論もせず、その視線を受け止めてから、ゆっくり椀に手を戻す。
「問題ないわ。進みましょう」
タープの端。干し肉を齧っていたエリーが、スープの残った椀をテーブルに置きながら、あまりにもあっさりと言った。木椀の底が、こつ、と乾いた音を立てる。
「ちょっと待て」
ダリウスの声が低く跳ねた。雨と波に削られても残る硬さが、その一言にあった。
「安全マージンを超える。止まるべきだ。全員の安全――そこは、譲れない」
言い切ってから、ダリウスの指が椀の縁で止まる。ミラはパンを握りしめたまま、視線を行き来させた。誰の口も、すぐには動かない。
「問題ないわ」
エリーはひらりと片手を返した。濡れた髪の先から雫が落ち、タープの縁に吸い込まれる。
「何かあれば、私があなたたちを守るから」
その物言いは、誇示ではなく確認のようだった。
「……実力を、見せてくれ」
ダリウスはまっすぐにエリーを見る。相手の瞳の中の揺れを探すような視線だった。
「いいわよ」
エリーは小さく笑うと、椅子の背に立てかけていた剣に手を伸ばした。
抜き払うというより、刃が“滑るように”鞘から出る。雨の匂いの中で金属が乾いた光を掠め、次の瞬間、剣先はもうダリウスの間合いにいた。
「《月下無痕》」
名を告げた次の瞬間には、もう終わっていた。
風が走る。頬をかすめた冷たさだけが残る。遅れて、ダリウスの身体が反射的に引けた。
「……っ!」
頬に触れる。指先に、うっすらと血が滲んだ。
薄皮一枚。本当に刃が“そこ”を通ったのだと、触感が先に告げる。
(これが――)
喉が、ごくりと鳴る。
(俺が《深き森》に入り込んで、全ての雑音を切り捨てて、ようやく届かせていた一撃……)
(それを、こんなふうに……息一つ乱さず、軽く)
エリーの呼吸は乱れていない。握った剣先は、まだ振るう前と変わらない角度で静かに止まっていた。雨粒が刃の上を滑り落ちる。
「次」
短く言うと、彼女は背中のケースに手を伸ばした。引き抜かれたのは一本の弓。タープの端ぎりぎりへ移動し、濡れない位置で矢を番える。
「《射法八節》」
足を運び、腰を据え、背筋を伸ばす。肩、肘、指先へと力が流れていく。弦を引き絞るまでの所作が、雨の中でも揺れない。
放たれた矢は、音を置き去りにした。
ごう、と低く空気を割ったと思った次の瞬間、少し離れたヤシの木の幹がえぐり飛ばされるように裂けた。太い木がぐらりと揺れ、根元の砂を巻き上げながら倒れ込む。雨粒が跳ね、泥が飛ぶ。
「はっ?」
オットーが目を剥いた。口の中の言葉が置いていかれたまま、視線だけが倒れた幹を追う。
《射法八節》――弓使いなら誰もが知る“構え”のはずだ。なのに、地面が震えた。
「さてと」
エリーは弓を背負い直し、腰のポーチから一冊の魔導書を取り出した。ページを開くと、くるりと足を運び、踊り出すようなリズムで詠唱に入る。雨音に負けない声量ではないのに、言葉がはっきり届く。
「フィログゥル・テリィ・ウェル……《穿炎連鎖》」
足元に炎の紋が刻まれ、細い火線が砂浜をかすめて海へ走った。
海面に触れた瞬間、火線は“刺さった”。
一点から周囲の海水が押しのけられたように沈み、次いで岩肌が赤く灼ける。遅れて、周囲の海水がその空洞へ雪崩れ込み、触れた瞬間に白い蒸気が爆ぜ上がった。熱風と波しぶきが浜辺まで押し寄せ、タープの端がばさりと揺れる。
海は、ぽっかりと空いた焦げ跡を中心に、しばらくぶくぶくと泡立ち続けていた。
「わあ!」
ミラがテーブルに両手をバンッと叩きつけた。
「今のって、ワーウルフ倒した貫通術式だよね!? すごい!!」
エリーは魔導書をぱたんと閉じ、剣を鞘に収める。雨粒が背中を伝う。口元だけが、ほんの少し上がった。
「どう?」
「これでも“役不足”かしら?」
挑発とも確認とも取れる言葉。
ダリウスたちは、返す言葉を探して喉を動かしたまま黙っていた。雨音が、代わりに答えるみたいにタープを叩く。
ダリウスの指先が、頬の血をぬぐう。赤い線は薄い。だが、その一線が示した差は薄くない。
(……さっきまで俺が想定していた“エリー込みの危険な前線”とは、もう前提が違う。あの剣と弓と魔法があれば、いざとなれば“押し切る”か“全員を下げる”かを、むしろエリー側から選べる)
ダリウスは椀の縁を押さえ、ゆっくり息を吐いた。湯気が、雨に混じって薄れていく。
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