グリュエーが十数枚の使い魔を奪って逃走した後、数日が経過した。ノンネットは謎の小冊子の暗躍に関わっている疑いをかけられたが、ほんの少しの質疑が行われただけだった。これから聖女になるという尼僧が今更救済機構を裏切るはずもないのだ。
グリュエーが確かに逃げられたのか心配ではあったが、ノンネットの心の裡は薔薇色に染まっていた。長年抱いていた夢が叶う。その為に積み重ねてきた努力が報われる。その日がやって来たのだ。
護女ですら、この日この時まで教えられることのない門外不出の秘儀、聖女着座の儀式が、聖女会の尼僧たちによって分割して教えられる。その秘儀の全貌を知るのは聖女と、これから聖女となる者の他にはいないのだ。
胸の高鳴りは抑えられない。小鳥が祝福し、雲の流れと陽光の傾きすら来たるべき幸福な未来の予兆のように思えた。第一聖女ミシャの予言にある通り、救済の乙女降臨まで既に一年を切っている。つまり災いの世紀を閉じる最後の聖女として、救済の乙女を地上に迎え、共に救いの世紀を始める最も偉大な聖女となるのだ。
一方モディーハンナは大いに苛立っているようだった。使い魔を逃がされ、魔法少女狩猟団はほぼ機能不全に陥りながらもなお自由に振舞い、かわる者や一〇一白紙文書の回収を命じられたアンソルーペは音沙汰がないという。新たな聖女が誕生することも、業務の引き継ぎ以上の何かだとは考えていないようだった。
が、ノンネットは気にしなかった。大いなる喜び、想いの成就の前には些末なことだ。
いつの間にか増築された特別な空間にノンネットは佇んでいた。窓一つない空間で、小さな換気口以外には光の入る余地がない。高い天井のさらに上から聖なる歌と儀式を寿ぐ楽器の音色が降っているが、歌い手や演奏者の姿はなく、屋根の上で執り行われているらしい。空間は馨しい香りに包まれているが香が焚かれている様子もなく、事前に香りを満たしていたようだ。
救済機構における最も重要な儀式は本来、先代聖女と共に行われるのが習わしだが、何らかの理由で聖女がいない場合は、次代の聖女ただ一人で行われるのだ。
ノンネットが身に着けた衣はいつも通りの護女の衣装だった。真っ赤な焼成粘土と硝子の燈の中には紅蓮の炎、聖火が燃えている。そして部屋の中央には聖火台が据え付けられている。数日前から僧兵たちに加えて、葬る者がこの増改築に携わっていたが、その理由は明らかだ。聖火台はまるで鉛で出来た棺のような形だった。棺にしては蓋がなく、聖火台にしては薪や油といった燃料が無い。
ノンネットは楚々と歩みを進め、聖火台の前の階段を上り、燈を投げ入れた。焼成粘土と硝子と硝子は弾けて割れ、赫々と燃える聖火は燃え種もなしに皓々と輝き、聖ミシャ大寺院を照らしていた時同様に血よりも赤黒い光を放っている。そしてそれは確かに、事前に聞いていた通り、僅かな熱も発していなかった。燈の中に聖火を持ってきたノンネットは熱が伝わらない理由を、真っ赤な焼成粘土と硝子に宿った不思議の為だろうと解していたのだが、実際は聖女会の尼僧の説明通り、聖ミシャが未だ都市の築かれる前、寒々しい荒野だったジンテラの亀裂の底に見出した神聖な炎の霊験あらたかな力だったのだ。
だが正確にはほんの少しだけ温もりを感じる。人肌程度だ。
本来は、まさにその聖ミシャ大寺院で行われる儀式だったのだ。どうしてここで執り行うのか、その答えを知っている者は、ノンネットに儀式を教えてくれた尼僧の中にはいなかった。ただしモディーハンナは知っていた。
曰く、多くの不測の事態が発生したから、らしい。それは聖女が攫われる以前からいくつか積み重なっていたのだそうだ。しかしその真相は教えてもらえなかった、未だ護女の内は。その上で聖女着座の儀式は決して延期できない。
ノンネットは腑に落ちなかったが、それもまた救済機構の膿であるならば、聖女になった暁に全て絞り出せばいい。
ノンネットは護女の衣を脱ぎ、一糸纏わぬ姿になる。自分の肉体以外の何物もあってはならない。それもまた秘儀の重大な要件だ。そうして火に手をかざす。ぬるい温もりが掌に伝わる。決して熱くはない、とはいえ緊張は極限にまで達していた。本能が燃え盛る焔を拒むのだ。しかしこれもまた試練だと思えば、これこそが聖女に至る最後の試練だと思えば何のことはない。ノンネットは一歩を踏み出し、聖火の灯る棺に身を投じる。
身を焦がす痛みは無かった。しかし確かにそれは苦痛だった。体の内の全てが蝕まれていくような感覚にノンネットは涙を流し、嗚咽するが、しかし逃げ出すことは出来ない。それは使命感ではなく、ただ単に体が硬直してほんの少しも身動きできず、ただ聖火を浴び続けることしかできなかった。てっきり棺に横たわれば良いのだろうと思っていたが、苦痛のためにそのような思考すら掻き消された。直立することもできず、倒れることもできず、暴れることもできず、ただ全ての関節を僅かに曲げて身を震わせることしかできない。徐々に膝を曲げて鉛の床に座り込む。開いた口から涎が零れ、呼吸は不規則に行われる。視界は明滅し、耳鳴りが聞こえ、肌が粟立つ。しかし不快な感覚は徐々に消えていくことに気づく。爪先から、指先から、溶けて消えていくような感覚だった。手から腕へ、足から脚へ、無感覚が押し寄せる。胴体を呑み込み、鼓動が静まり、耳鳴りが消え、明滅が消えた。そのようにして、消えたのだった。
いつの間にか聖火は消え、歌も楽の音も止み、暗闇の中、ノンネットはただ一つの扉に向かって歩き出す。その歩みは初めは不確かでようやく二本足で立てるようになった赤子のようだったが、十歩も歩かない内にまるで王の如き歩みとなった。そうして扉に手をかけて押し開ける。そこはロガット市の砦の上層であり、ガレインの酷薄な秋風がノンネットの肌に喰いつく。
「めっちゃ寒いんだが! 聖女の登場だぞ! 服服服早く!」と聖女ノンネットは体を抱え、地団太を踏んで訴える。
扉の外に控えていた尼僧たちがすぐさま集まってきて、ノンネットに聖女とこの寒さに相応しい服を着させていく。
「はあ、怠い。喉もがらがらだよ。ちょっとそこに這いつくばって」とノンネットが注文すると尼僧の一人がその通りにする。
そして椅子代わりに座り、下衣を穿き、靴を履く。
「ワタシ軽いだろう?」とノンネットが尋ねると、這いつくばった尼僧が答える。
「はい。羽根の如きに御座います」
「だろう? 聖女だからねえ。山の如き高き御座に、神の如き貴き御心ありってね。ねえ、肩車してみて?」と聖女に言われれば尼僧はその通りにした。
「無事、儀式を完遂できたようで何よりです」と言ったのはモディーハンナだった。
尼僧たちから少し離れたところに控えて身を震わせている。
「ああ、いたの。んで、アルメノンってどうなった?」とノンネットは高みから尋ねる。
「亡くなりまして御座います」とモディーハンナが報告すると尼僧たちが息を呑む。誰も知らされていなかったのだ。
「そうだったんだ。長らく姿を現さない挙句攫われた、っておかしいと思ったんだよ。まあ、いいか。それでエーミは?」
「進展はありません。ユカリ一行と共に逃げ回っております」
ノンネットは大きな溜息をつき、まるで抜け出した魂のような白い息を吐き出す。
「気づいてなかったのか。一部がこの砦に来ていたってのに」そう言って、しかしモディーハンナの表情を読み、ノンネットは眉根を寄せる。「知ってたな?」
「いえ、可能性の一つとして。本体ではない上に芳しい結果ではありませんから、ご報告するまでもないかと」
「そんなしょうもない報告を聞きたくないのは確か。まあ、いい。これからはこの第八聖女ノンネットが救済機構を率いていくわけだ。びしばしいくから覚悟しろ?」
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