テラーノベル
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家は、思っていたより普通だった。
大きくもなく、古すぎることもない。
ただ、灯りがついている。
玄関の前で、俺は立ち止まった。
靴を脱ぐ、という動作が
ひどく遠い記憶みたいだった。
「急がなくていい」
後ろから低い声がする。
誰も、背中を押さない。
俺はゆっくり靴を脱いだ。
床は冷たくない。
それだけで、胸の奥が少し痛んだ。
中に入ると、
知らない匂いがした。
でも、嫌な匂いじゃない。
無理に明るくしない、静かな空気。
リビングに通され、
俺はイスの端に座った。
逃げ道が見える位置。
体が勝手に選んだ場所だった。
「じゃあ……順に言う」
あのとき、しゃがんだ人が口を開く。
「俺は、いるま。
感情が見える」
名前が、音として落ちる。
「今、君がすごく緊張してるのも分かる」
責める響きはなかった。
次に、路地の奥を見ていた人。
「俺は、LAN。
人の思考が見える。
……だから、無理させない」
思わず目を伏せた。
奥を見る目をしていた人が、続ける。
「……すち。
記憶が見える。
君のは……今は、見ないでおくね」
胸の奥で、何かがほどけた。
少し遅れて、
「俺は、みこと。
未来が見える。
全部じゃないけど、
君がここにいる未来は、ちゃんとあった」
最後に、1番後ろにいた人。
「こさは、こさめ。
嘘が見える」
短く、はっきり。
「……ここには、嘘はない」
沈黙。
少年は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吸う。
「……俺、は」
声が、震える。
言ってもいいのか、、?
また、避けられて
捨てられないか…?
「捨てないし、殴らない」
LANが言った。
「信じて欲しい」
信じたくなかった。
何度も裏切られてきたから。
でも何故か、”大丈夫かも”なんてことを考える。
「…妖怪が、見えます」
誰も驚かない。
誰も笑わない。
「うん」
「知ってる」
「それでいい」
その肯定が、
重く、確かに胸に落ちた。
「今日は、もう休んで」
LANはそう言った。
部屋が用意されていた。
布団は、きちんと敷かれている。
新しい匂いがした。
電気を消す前、
こさめが言った。
「ここ、鍵は閉めない」
__閉じ込めない。
そんなメッセージ。
布団に入ると、
体が勝手に震えた。
怖い
でも、嫌じゃない。
天井を見つめながら、思う。
明日も、
ここにいていいのだろうか。
考え切る前に、
意識が、静かに沈んでいった。
その夜は
殴られる夢を見なかった。
目が覚めた瞬間、
俺は、息を止めた。
天井が、違う。
怒鳴り声も足音も、ない。
それでも体は覚えている。
起きたら殴られる。
遅れたら怒られる。
だから、動けない。
___まだ、夢かもしれない。
「起きてる?」
控えめな声が、扉の向こうからした。
びくりと、肩が跳ねる。
「……起きてるならいいんだけど」
返事をしなくても、
怒る気配はない。
少し間があって、また声。
「朝ごはん、あるよ。
無理なら、後でもいいし」
___嘘だ。
そう思った瞬間、
扉が、静かに開いた。
立っていたのは、こさめだった。
「……こさ、嘘ついてない」
にこりとも、笑わない。
ただ、事実を置くみたいに。
「食べなくても、怒らない。
起きなくても、捨てない」
言葉が、胸に落ちる。
「ここにあるのは、本当だけ。
こさには、それが見える」
沈黙。
奥から、声が重ならずに届く。
「感情、ぐちゃぐちゃだな」
「思考も、かなり警戒してる」
「昨日の記憶、まだ離れてない」
「それでも今日は、大丈夫な未来だよ」
逃げ場を塞がない声。
暇72は、布団の端を握りしめ、
小さく息を吸った。
「……行く」
誰も、騒がない。
「うん」
「待ってる」
「ゆっくりでいい」
「こさ、先に下いるね」
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、
静けさと___
逃げなくていい朝。
暇72は、
初めて自分の足で、
布団を出た。
台所から、音がした。
油のはねる音。
皿が触れる、乾いた音。
それだけで、足が止まる。
朝は、危険な時間だった。
機嫌が悪ければ、理由なんて関係ない。
何もしていなくても、殴られて蹴られる。
___行っていいのか。
廊下の影で、立ち尽くしていると。
「立ってるだけだと疲れるよ」
声がして、こさめが顔を出した。
急なことに驚いて体が強ばった。
「こさ、嘘ついてない。
入ってきても、何も起きない」
言い切りだった。
台所に入ると、
テーブルにはもう、何人か座っていた。
いるまが、湯気の立つマグを置く。
「無理に食べなくていい。
匂いだけでも、大丈夫」
圧がない、優しい声。
LANは、スマホを見ながら言う。
「思考、今かなり逃げ腰。
……席、端でいいよ」
すちが、パンを一つ皿に置いた。
「記憶が重なりそうなら、
途中でやめていい」
みことは、少し遅れて椅子に座る。
「今日は、
『食べられなかった』未来も、
ちゃんと許されてる」
こさめが、コップを差し出す。
「水、あげる。
こさが見たけど、
どれも嘘じゃない」
俺は、そっと受け取った。
手が、震えている。
パンに、手を伸ばす。
途中で止まる。
__怒られる。
__残したら、殴られる。
喉が詰まる。
「今、怖いって感情、ちゃんとある」
LANが言った。
「『食べなきゃ』って思考、
ここでは要らない」
すちは、目を伏せる。
「過去は、ここに持ち込まなくていいんだよ」
みことは、静かに言う。
「今の選択で、
悪い未来は見えてない」
誰も急かさない。
誰も見張らない。
パンを小さく、ひと口かじった。
音が、やけに大きく聞こえる。
____何も起きない。
もうひと口。
胸の奥がじんわりと痛む。
「……食べられてるな」
いるまが嬉しそうでもなく、
当たり前みたいに言った。
「すごい進歩だ」
LANがさらっと言う。
「無理してない」
すちが静かに頷く。
こさめは、何も言わず、
ただ机の向こうで見ていた。
嘘はなかった。
妖怪たちは天井の梁や壁の隅にいた。
騒がない。
邪魔もしない。
暇72はパンの最後の一口をゆっくり噛んだ。
飲み込んで、
「……ごちそうさまでした」
声はまだ小さい。
でも、確かだった。
誰も拍手しない。
誰も褒めすぎない。
ただ、
「片付け、あとでいい」
「今日はゆっくりしよう」
「外は…まだ考えなくていいからね」
「こさ、皿下げるね」
初めて知った。
朝ごはんが、
生き残るための儀式じゃなくて
生活なんだということを。
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