テラーノベル
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礼拝堂の扉が閉まる重い音だけが、静まり返った空間に長く、長く響いていた。その余韻が消え去った後の静寂は、まるで世界に僕一人だけが取り残されてしまったかのような錯覚を覚えさせる。
「…照さん…。」
今直ぐあの扉を開けて、彼の大きな背中に縋りつかなければ、二度と会えなくなってしまうかもしれない。そう思ったのに、僕は一歩も動けなかった。
照さんのあの絶望に塗れた低い声だけが、何度も、何度も反響している。
《お前は、他人の感情よりも…自分の信仰心を優先するのか?》
「違います…。」
小さく呟いた僕の声は、誰に届くこともなく礼拝堂の天井へ虚しく消えた。
はっきりと、大声でそう言いたかった。でも、
(…何が、違うの?)
確かに僕は修道士になる前から、困っている人を見ると放っておけない。病気の人も、怪我をした人も、居場所を失って泣いている子どもたちも。
そして、僕は人間だけじゃなく生き物も大事だと思っていた。勿論それは、幻獣たちだって例外ではない。
でも、それは神様の《隣人を愛しなさい》という教えからじゃない。目の前で苦しんでいる人を見たら、自然と身体が動いてしまうだけ。その痛みを知ったら、自分のことのように共感してしまうだけ。
それなのに。照さんだけは、違った。
彼が僕を求め、その熱い体温で僕を包み込もうとしたあの瞬間。僕は自分自身の気持ちではなく、規律という言い訳を理由にして彼を断った。
「………。」
矛盾、している。
それは、本当に純粋な信仰だったんだろうか。
それともただ、怖かっただけなんだろうか。
修道士じゃなくなることが。
信じてくれた修道院の皆に失望されることが。
ずっと縋り付いてきた神様に見放され、独りぼっちになることが。
だから神様という都合の良い盾を理由にして、自分の醜い心から、臆病さから目を逸らしただけなんじゃないか。
照さんの最後の問いが、容赦なく脳裏に蘇る。
《お前自身はどうなんだ?》
「──僕は、」
初めてだった。神様がどう思うかではなく、修道院という場所がどうであるかでもなく、誰かを助ける為でもなく…ただ一人の人間としての、僕自身の心に問い掛けたのは。
答えは、直ぐそこにある気がした…否、本当は気付いていた。だけど、それを口にしてしまえばもう二度と後戻りは出来ない。認めてしまえば、僕はもう…清らかな修道士ではいられなくなる。
「僕、は…っ、」
震える指先をそっと胸へ当てる。衣服越しに伝わる鼓動は、痛い程に速く、激しかった。照さんに口付けられた場所が、未だにじりじりと熱い。あんなに必死に拒んだ筈なのに。
嫌だった訳じゃない。寧ろ、彼が去ってしまった今の方があの時よりも何倍も、何十倍も胸が苦しかった。
「…傍に居て…。」
抑えきれなかったその一言が、ぽつりと唇から零れ落ちる。神様の御前で呟いた瞬間、僕は自分が犯した大罪に気付き、慌てて両手で口を塞いだ。
視界が歪み、涙が一粒だけぽつりと落ちて衣服を濡らす。その涙は、神様へ向けた不純の懺悔ではなかった。ただ、照さんを失うかもしれないという現実が、どうしようもなく怖かった。
その時初めて、僕は神様ではなく、照さんという一人の男を心から愛しているのだと知った。
森へ戻る頃には、すっかり夜が更けていた。
住処の前へと戻ってきた照の気配。それを俺の角と耳は正確に捉えていた。
『あ!照にぃ、お帰りー!遅かったなぁ?』
俺の隣で丸くなり、静かに羽を休めていた康二が、その足音に気付いてぱっと顔を上げる。だが、戻ってきた照は足を止めることもなく、康二の顔を見ることもなく、ただ低く小さく頷いただけだった。
「あぁ。」
感情の起伏が一切削ぎ落とされた、単調なトーンの声。 それだけを言い残し、照は仄かに息を荒らげながら、大股ですたすたとそのまま寝床の更に奥へと足早に向かっていく。
『…?照にぃ、どこ行くん?』
あからさまにいつもと違う様子の照に、彼が心配そうに首を傾げた。その様子を確かめるべく、康二が人の姿へと変えてこっそり照の後を追おうと一歩を踏み出そうとした時。
『康二。』
俺の口から制止の声が落ちる。振り返った康二が不思議そうな顔をするのを視界の端に収めながら、俺は冷たい夜の空気の中、遠ざかっていく照の背中をじっと見つめていた。
いつもなら周囲を圧倒する筈のフェンリルの強大な魔力の波動が、今は酷く乱れ、燻っている。そしてそれ以上に──照の身体から独特の兆候が微かに漂い始めているのを、俺の嗅覚は逃さなかった。
『暫く、そっとしてあげて。』
静かに告げたその一言に、康二は何かを察したように、開けかけた口をきゅっと閉じた。
「…おん。」
暗闇へと消えていく照の背中はいつもより少しだけ小さく、そして孤独に見えた。感情を殺すことには慣れている筈の彼が、あそこまで目に見えて憔悴している。
自分の角に宿る魔力を静かに研ぎ澄ませる。照の魔力は今もなお、不安定に揺れ続けていた。
(………暫くは、苦しみそうだね。)
俺は何も言わず、その背中を見送り続けた。
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