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現実逃避
机の引き出しに、小さな封筒が入っていた。
触れた瞬間、全身がざわりと粟立つ。
誰も見ていないふりをしているけど、本当は全員知っている。
父親が学校でやったことも、ニュースで流れたあの映像も、SNSに拡散された死んだ母の顔も。
目を上げると、いくつもの視線がぶつかった。
汚物を見るみたいな目。
吐き気がするほど冷たい、軽蔑と好奇が混ざった視線。
一人がわざとらしく携帯を取り出し、カメラを向ける。
すぐに画面に視線を落として、何かを打ち込む指先が見えた。
封を開けると、折りたたんだ便箋が入っていた。
文字はきれいに揃っていた。
定規で一字ずつ書いたんだろう。
筆跡を隠すために。
「お前がいなくなれば、みんな幸せになるんだよ。」
手が震えて、便箋をたためなかった。
息が苦しい。
教室の隅に、母の白い顔が見えた気がして、慌てて目を伏せる。
もうどこにも居場所なんかないんだと、胸の奥がひどく静かに冷えていく。
「ねぇ、柊くん。手、出して?」
このクラスの一軍。
朝比奈りなが、軽くしゃがんで俯いた俺の視線に入ってくる。
恐る恐る、乾いた手を震わせて差し出した。
「いたっ……」
朝比奈はシャー芯を、ゆっくりと手の中心に突き刺した。
「どう?いい感じに撮れてる?」
彼女は男子の腕に抱きついて、スマホの画面を覗き込む。
慌てて顔を隠そうと、机に額を押しつける。
「柊くんさ、もう終わりだね、人生。」
その声に引き寄せられるように、顔を上げてしまった。
「その汚い手、洗ってきたら?お前のせいで教室、臭いんだけど。」
右手を見た。
赤く染まっていく掌。
だんだん痛みと怒りが、泉みたいに湧き出してくる。
許さない。
家に帰ってパソコンを開く。
時計をちらっと確認してから、いつもの戦闘ゲームを立ち上げる。
ボイスチャットをつけてルームに入った。
「あ、聞こえる?」
「うん。遅刻しないでよ。今日はずっと待ってたんだから。」
「ごめん。ちょっと、色々あって。」
モニターの向こうで、ノワが小さく笑う気配がした。
その声だけが、今日の痛みを少しだけ遠ざけてくれる気がする。
今話しているのはノワ
レベル26の初心者。
いちごが好きで、猫と犬なら犬派、
3月24日生まれのO型。
学校に行っていないらしくて、毎日家でゲームをしていると言っていた。
「今日ね、パフェ食べに行ったんだ。」
「え、パフェ?一人で?」
「うん。お店の人も優しかったし、好きなだけのんびりできたから。」
「そっか……いいな。」
胸の奥がじんわり熱くなる。
「また行こうって思ってる。一人でね。」
「……うん。」
一人で。
その言葉が少しだけ胸に刺さる。
でも、きっとそれはただの言い方だ。
ノワだけは、俺の味方でいてくれる。
そうに決まってる。
俺には、もう家族はいない。
父親は、俺が通うこの学校で二年前、教師をしていた。
父は女子生徒にわいせつ行為や監禁、盗撮を繰り返し、ニュースやSNSで大々的に報じられた。
そのせいで、俺は学校で散々いじめられた。
机には油性ペンで「変態」「犯罪者」「消えろ」と何度も太く書かれていた。
そんなとき、母はいつもプリンを作ってくれた。
死ぬほど美味しかった。
泣きながら毎日食べていた。
全部が嫌で、自分を傷つけた夜もあった。
母は俺の手を包んで、「ごめんね。幸せにできなくてごめんね」と泣いた。
SNSには俺と母の顔が晒され、個人情報がばら撒かれた。
母は就ける仕事がなくなった。
それでも母は笑っていた。
「今日はクリーム乗せてみたから。」
本当はそんな余裕なんてないはずなのに。
ある日、学校から帰ると、母は首を吊っていた。
白くなった顔と、動かない指先。
その足元に、一枚の手紙が落ちていた。
「プリン作ったから、早いうちに食べてね。冷蔵庫の二段目にあるからね。」
それから、もうプリンは食べられなくなった。
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