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日毎に寒さが増してきた十一月の初旬。
奏は、片品高校吹奏楽部の部室を訪れ、顧問の茅場先生に会いに来ていた。
隣の音楽室から、基礎練をしているソプラノサックスの音色が微かに聴こえてくる。
この時期になると、奏は出身大学である響美学園音楽大学の入学募集要項とパンフレットの入った封筒を、母校の片品高校へ持参している。
片品高校の吹奏楽部で楽器に親しんだ事で、音大に行きたいと考えている生徒も多く、奏はピアノ専攻で音大に進学したが、茅場先生から、彼女の出身大学の入学募集要項が欲しいと依頼され、大学を卒業してからOG訪問として毎年、響美学園音楽大学の入試資料を届けているのだ。
「音羽、久しぶりだな。元気でやってるか?」
「はい。今は自宅とハヤマ特約店でピアノ講師、時々ラウンジピアニストしてます」
「ラッパはもう吹いてないのか?」
「卒業してからは一度も吹いてないですね……」
「そうか。ピアノ講師として、忙しく過ごしてるんだな」
茅場先生は、少し寂しそうに奏に微笑む。
「音羽は初心者で吹奏楽部に入部して、他の部員よりも人一倍練習に励んでいたし、一年の夏のコンクールはラッパを始めて数ヶ月でA組で出場したもんなぁ……」
先生が遠くに視線をやりながら、回想するように話す。
奏が高校を卒業した年の夏、片品高校吹奏楽部は、悲願の吹奏楽コンクール全国大会に出場した。
結果は銅賞だったが、それでも母校がコンクールの全国大会へ駒を進められるようになった事が、彼女は嬉しかった。
全国大会に行けるレベルの実力を持つ片品高校吹奏楽部で、高校から楽器を始めた人がコンクールのA組の舞台に立つ事は、そうそう無い事だ。
熾烈なメンバー争いは常に繰り広げられ、本番前日になってメンバーが入れ替わったり、ソロのある楽曲は本番直前でソリストが変わる事もあるのだ。
「私は夏のコンクールの緊張感も好きでしたけど、ポップスシンフォニーコンテストの雰囲気の方が好きでしたよ。まさに『音を楽しむ』って感じで」
「ポップスシンフォニーコンテストは、かなり名の知れたコンテストになってきたし、うちも更に力を入れたいと思ってる大会だな」
茅場先生が『あ、そうだ』と言いながら、数枚の紙を奏に手渡した。
「次の定期演奏会で演奏する曲のセットリストなんだけど、今度の定演が四十回記念に当たるんだよ」
奏は茅場先生から手渡された資料を見ながら、パラパラと捲る。
「節目の定演でもあるし、定演が終了したら、創部四十周年記念パーティを開催するから、覚えておいてくれるか? OBやOGはもちろん、お世話になっている関係者も招待して催すからな」
「四十周年なのですね。茅場先生、おめでとうございます!」
節目の定演のせいか、ジャンルを問わず曲が豪華だ。
特に、ポップスステージの曲目に、奏は、資料に穴が開きそうなほど凝視した。
「先生、ポップスステージのセットリスト、『オーメンズオブラブ』『宝島』『イッツマジック』『トゥルース』って、全部T-SQUAREの楽曲じゃないですか!」
「ああ、確かT-SQUAREは、昨年デビュー四十五周年だったんだよな。うちも定演四十回目だし、少し乗っかってみた」
言いながら茅場先生はニコリと笑う。
「いいなぁ。私も全曲演奏したかったです……」
「次の節目の定演は、OBOGバンド結成を考えてるから、その時はよろしくな。たまにはラッパ吹くのもいいぞ?」
OBOGバンド結成と聞き、奏の心がズキリと痛む。恐らく、次の節目定演は四十五回目の定演になるだろう。
下手したら、かつての彼……と呼んでいいのかわからないが、奏の心に深い傷を負わせた張本人、OBの中野も参加するかもしれない。
「はい。わかりました」
曖昧に笑いながらそんな話をしている時、部室の扉が三度ノックされた。
「どうぞ」
先生が扉の外にいる人に、入室を促す。
「茅場先生、生徒さんの楽器の調整が終わりま——」
ハヤマのロゴが入った、黒いナイロン製のスタッフブルゾンを着た、背の高い男性が茅場先生に顔を向けた後、奏を見た瞬間、そのクールな奥二重の目を丸くした。
奏も男性を見て、落ち着いていた心臓がドクドクと打ち鳴らされている。
部室に現れたのは、あの葉山怜だったのだから。