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朝。
目が自然に開いた。
天井が動かない。
怒鳴り声も、足音もない。
一瞬だけ、体を強ばらせた。
――いない。
心臓が跳ねる。
でも。
家の匂いが変わっていない。
昨夜の毛布がちゃんとある。
ゆっくり、起き上がる。
リビング。
誰もいない。
ソファも椅子も、空いている。
机の上に紙はない。
置き手紙も、メモも、説明もない。
それなのに。
――怖くない。
静かだから。
慌てる音も、隠す気配もない。
キッチンの奥から、小さな音。
冷蔵庫が閉まる音。
湯が沸く音。
――いる。
姿は見えなくても。
マグカップを手に取る。
“自分の”。
妖怪が窓の影で、あくびをする。
――行ってないぞ。
小さく、そう聞こえた。
「……うん」
誰にも向けずにそう答える。
少しして、足音。
一人、また一人。
「おはよう」
「……おはよう」
挨拶は簡単。
説明はない。
誰も、
「心配した?」
なんて聞かない。
椅子に座って、
息を吐く。
――いなくても、戻ってくる。
――書かなくても、置いていかれない。
それがこの家の朝だった。
昼前。
玄関の扉が静かに閉まった。
鍵の音はしない。
リビングに立っていた。
誰も、
「すぐ戻る」とは言わなかった。
誰も、
「待ってて」とも言わなかった。
でも。
――一人だ。
胸が少しだけ縮む。
前ならここで終わっていた。
でも今は。
ソファに座る。
立ったままじゃなくて。
テーブルの上には自分のマグカップ。
触れる。
冷たい。
現実。
妖怪がテレビの裏にいる。
――行ったな。
「……うん」
小さく答える。
部屋の音を聞く。
冷蔵庫の低い音。
時計の秒針。
何も起きない。
――何もしなくていい。
そのことが、少しだけ分からなくて。
俺は棚から本を一冊取った。
読むつもりはなかった。
ただ、開いてみただけ。
ページの匂い。
文字。
時間が進む。
怖さは、来ない。
代わりに眠気が来る。
ソファに横になる。
逃げる姿勢じゃない。
普通の、横になり方。
目を閉じる。
――起きたら、いるかな。
その考えに恐怖がついてこない。
しばらくして玄関の音。
鍵が開く。
足音。
「……ただいま」
誰かの声。
慌てては起き上がらなかった。
「……おかえり」
少し遅れて、そう言った。
誰も驚かない。
誰も評価しない。
ただ、帰ってきた。
留守番は終わった。
捨てられなかった。
それが不思議と嬉しかった。
家は静かだった。
朝とは違う静けさ。
人の気配が抜け落ちたあとの、少しだけ広くなった空気。
俺はリビングの真ん中に座っていた。
テレビはついていない。
時計の秒針の音だけが、
一定の間隔で鳴っている。
――まだ、大丈夫。
そう思った瞬間、窓に映る影がゆらりと揺れた。
自分の影だと、分かっている。
分かっているのに、体が勝手に強張る。
前の家では影はいつも、
“来る前”だった。
怒鳴り声の前。
足音の前。
胸が苦しくなる。
「……」
膝を抱えた。
妖怪が、天井の隅から様子を見ている。
心配そうな顔。
でも、何もしない。
――これは、人の世界の時間。
時計が鳴る。
カチ、という小さな音。
それだけで、呼吸が乱れた。
「だいじょうぶ……」
誰にも聞かれない声。
けれど、
“だいじょうぶ”と言う練習を、
まだしたことがなかった。
ぽろり、と
何かが落ちた。
涙だと気づくまで、
少し時間がかかった。
泣くつもりじゃなかった。
我慢していたわけでもない。
ただ、一人でいることに、
体が追いつかなかった。
声は出なかった。
肩だけが、小さく揺れる。
――置いていかれたわけじゃない。
――任されたんだ。
頭では分かっている。
それでも、心はまだ追いつけない。
そのまま、床に座り込んでいた。
どれくらい経ったか分からない。
玄関の音がした。
鍵の音じゃない。
ドアが開く音。
息を止める。
「……ただいま」
すちの声だった。
返事は出なかった。
足音が近づいて、でも、止まる。
何も聞かない。
名前も呼ばない。
ただ、そっと毛布がかけられる。
朝と同じ、あの毛布。
温度と重さが肩に落ちる。
その瞬間、涙が止まらなくなった。
すちは何も言わない。
撫でない。
抱き寄せない。
ただ、隣に座る。
少しだけ、距離を空けて。
「……留守番、ありがとう」
小さな声。
褒めるでもなく、評価でもなく。
事実として。
俺は毛布を握った。
「……ひとり、だった」
やっと出た声。
すちは静かに頷く。
「うん」
それだけ。
それで、よかった。
泣いても、怒られない。
一人でいても、責められない。
その日、俺は知った。
甘えるって、誰かに触ることじゃなくて。
――そばにいてもらうことなんだと。
涙が止まらなかった。
怖いわけじゃない。
苦しいわけでもない。
ただ、全部が一気に来た。
一人で留守番をして、約束を守って、
逃げなかった。
「一人で、ちゃんとできた」
その事実が、遅れて胸を押した。
俺は毛布の中で、丸くなった。
声が出ない。
でも、涙だけが落ちる。
――もう無理だ。
そう思った瞬間、背中にそっと手が触れた。
びくり、と体が跳ねる。
でも、その手は離れなかった。
撫でる、というより一定のリズムで、
ゆっくりと。
逃げられる距離。
押さえつけない圧。
しばらく、言葉はなかった。
呼吸が少しずつ揃っていく。
涙が静かに止まる。
すちの手が止まった。
「……ここまで」
確認するみたいに。
小さく頷いた。
手が離れても、背中はすぐには冷えなかった。
温かさは、体の奥に、ちゃんと残っていた。
夕方。
外が少しだけ橙色になる。
五人が帰ってきた。
玄関の音がして、いつもの声がする。
ただいま。
おかえり。
それだけ。
何も聞かれない。
俺はリビングの端に座っていた。
いつもより端じゃない。
テーブルの角。
逃げ道は、まだ見える。
でも、真ん中すぎない。
すちは向かいに座る。
近い。
でも、触れない。
いるまは少し離れたソファに腰掛ける。
感情の波が、穏やかな色で揺れているのが分かる。
LANは何か考えながら、床に座った。
思考は、
「静かにしておこう」
それだけ。
みことは窓際に立って、外を見る。
未来は今は語らない。
こさめはキッチンから顔を出す。
「……こさ、お茶入れる」
嘘はひとつも混じっていない。
湯の音。
カップが触れる音。
その音を逃げずに聞いていた。
毛布がまだ肩にかかっている。
さっきの温かさが思い出じゃなくて、
感覚として残っている。
すちが立ち上がる。
近づいてくる。
一歩。
止まる。
「……座り直す?」
少し考えてから、
小さく首を振った。
すちはそれ以上、近づかない。
そのまま、同じ空間に戻る。
距離は縮まらない。
でも、離れもしない。
しばらくして、自分から毛布の端を整えた。
その動きに誰も反応しない。
それがとても楽だった。
この家では、
近づくことも、
離れることも、
自分で選べる。
その夜、俺は思った。
距離が縮むって、触ることじゃない。
――逃げなくていいことだ。