ずっと、誰にも言わずにいることがある。その内容の重大さがあまりにも一人で抱えておくには大きすぎることを知りながら、話すことが出来ないのは、自分がそれを知っていることを話してしまったら、何かが変わってしまうのではないかと恐れているからだ。
「生まれた」その瞬間、初めて見たのは兄たちの安堵したような笑顔だった。
軋むような体の痛みを覚えながら起き上がろうとした自分を、力強い腕が支えた時のことを昨日のことのように覚えている。
「俺の弟だぜ!」と嬉しそうに体を抱き上げてくれたその人は、心の底から嬉しそうな顔をしていたのに、目が合ったその一瞬わずかにその顔に暗い影がよぎった。
あまりにも短い刹那であったために、瞬きをしたときにはもうその表情は消えていた。
体の痛みの理由も、表情の意味も何も知らないまま俺はただ祝福された。
曰く、ようやく生まれたドイツを束ねる存在なのだと。きっと彼は強い国になるのだと。
生まれたばかりの頃は体力がなかったので、一日中部屋から出ずにベッドの中で本を読んで過ごしていたためか、夜中に眠れずに起きていることがよくあった。
そんなある夜に、静まりかえった廊下で兄のうちの二人が話しているのが聞こえた。
「ようやく、目覚めてくれたな」
「ああ、あのままずっと中身が空のままだったらどうしようかと思ったな」
「…だがあの子は何も知らないのだろう?」
「そうだ。お前も話すなよ。それが彼の意志だと、ギルベルトが言っていた」
「分かっている」
名前こそ出なかったものの、それが自分のことを話しているのだとすぐにわかった。兄たちは、何かを隠している。
ならばなぜ兄たちは俺にそのことを隠しているのだろう?
そういえば、最初に抱き上げてくれた兄は「お前が学ぶべきことは俺が全て教えてやる」と言っていた。もしそうなら、兄たちが話さないのは、それが自分の「学ぶべき」ことではないからなのだろう。
きっと、そうだ。そう思うと安心したのか瞼が重くなっていく。それ以上考えることはせず、目を閉じた。
それから後、兄たちがその夜に話していたことを口にすることはなかったが、与えてくれた愛は本物だった。だから、隠されていることは気にならなかったし、そのことも忘れていったのだ。
特に、プロイセンという国をかつて背負った兄は、「全て教える」という言葉に違わず、時に厳しく知りうるすべてのことを教えてくれた。
兄は部屋いっぱいになるほどに日記をつけており、そのせいか、歴史を教えるのがとても上手かった。
頻繁に「俺はこいつは気に入らねぇ」などと、話が脱線することもあったが。
兄が特に好んで語ってくれたのは彼自身の歴史と、ドイツという国が生まれるまでにいかに彼が奮闘したかということだった。
喜色満面で語るその話のなかで、「神聖ローマ」という国の名前が出てきた時、兄が口ごもった。しかし、何事もなかったかのように話を続ける。
「神聖ローマ帝国は、偉大な国だった。あいつも…」
「兄さん、あいつ、とは誰のことなんだ?」
「お前や、俺と同じだ。つまり、神聖ローマ帝国を体現する存在だってことだ」
「その、神聖ローマという国の化身はどうなったんだ?もし、彼がまだいるのなら、会って話がしてみたい。兄さんがそんなに尊敬する国なら」
その言葉を聞いた兄の顔に苦し気な表情が宿る。純粋な興味で尋ねたことが、兄にとってはとても重大なことだったのだと、その表情で悟る。
「…あいつがどうなったかは俺も知らねぇ。最後に会ったのは髄分前だし、もう顔も覚えてねぇよ」
「…………そうか。残念だ」
それ以上聞く勇気はとてもなかったので、結局その話はそこで終わりになった。
けれど、一つだけ分かったことがあった。
ーーー今兄さんが見えたあの表情は、自分を初めて抱き上げた時に見せたものと寸分違わないものだった。
兄は、それからも本当にいろいろなことを教えてくれた。
そして、一国を背負うにふさわしい力を身に着けた頃、不思議な奴に出会った。
その出会いは、偶然でありながら必然だったのだと後になってから思う。
トマト箱に入って命乞いをする、見るからに弱腰な印象を与えるこんなふざけた奴が彼のローマ帝国の末裔だとは信じられなかった。
正直にいえば、今まで憧れていたローマ帝国への敬意と憧憬を全て裏切られたようにすら感じた。
初めてローマ帝国についての歴史を学んだ時から、彼の亡国の歴史に惹かれた。
礎を築いた国への敬意か、それとも別の理由か。自分でも、なぜそこまで惹かれるのかわからないままだったが、興味があるのに気がついた兄はかなり詳細な知識を教え込んでくれたのだった。
こんな奴が敵だという事実を認めたくなかったが、それ以上に信じられなかったことは、上司が後に、彼を同盟相手に選んだことだった。今までの付き合いからあまり相性がよいとは思えなかったし、とてもあいつが戦力になるとは言えなかった。
しかし、致命的なほどに性格も考え方も違うのに、不思議とあいつとは上手くいった。窮地に陥った彼の面倒を見たり、どうにも危なっかしい彼の世話を焼いていたりして、最初は厄介で面倒だと思っていたのに、気づけば、その時間が愛おしくなっていた。
愛おしいと思っていたことを認めたくないと理性が訴えるのを、心が強く否定する。教えられたこともない、初めての激しい感情と愛だった。
だからこそ、あのヴァレンティーノの日には絶対に失敗したくないと思い、空回りしてあんなことをしてしまった。必死で本を読みこんで、間違いのないよう何度も手順を確認し、逸る心を抑えながら、指輪を贈った。
ーーー結局、それは勘違いにすぎなかったのだが。
それでも、くだらない勘違いだったのだと終わらせてしまうには、あまりに身を焦がすような苦しさを感じる想いが残った。
そして、指輪と花を贈った時のフェリシアーノの顔も忘れ難かった。何か、思い出したようなそんな顔をしていた。
あの時、恥ずかしさで頭が焼けるように熱くなり、気が遠くなって何も考えられなくなった。しかし、ぼやけた映像がふと流れてきたのだ。
差し出された小さな手と、花を受け取った小さな子供。少女のように見えたが、その顔は間違いなくフェリシアーノのものだった。だが、自分は幼い頃の彼は知らないし、自分は今まで誰かに花を贈ったことなどなかった。であれば。あれは何だったのだろうか、彼に花を差し出した手は誰の手だったのだろう。そもそもあれは記憶なのか、それとも自分の頭が作り出した夢なのかと、疑問が頭の中で渦巻いていく。
あの顔を見たことがある。彼のものではなく、誰か別の人間の顔で、落としたものを拾おうとして、一瞬手が触れて、けれど結局手の中に引き戻せなかったようなそんな顔。
何一つ納得のいく答えは出せなかった。そして、フェリシアーノにそのつもりがない以上、それ以上自分に踏み込む余地はなかった。
何かを訴える記憶と心に蓋をして、やりすごすままに時は流れていった。あいつとは、気の置けない友人、それ以上でもそれ以下にもなりえなかった。
ただ、愛おしく焦がれるような思いだけが募っていくのを黙って受け入れるしかなかった。
「知らない記憶がある」
誰にもそれを打ち明けることすらできずにいた。
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