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「憂くん、気付いてた? 天馬くんのこと」
放課後。僕達は真っ直ぐに葵家へと向かった。勉強を教えるために。
だけど、部屋に入るなり、葵はそう訊いてきた。気付いてたんだ。
「うん、もちろん。そりゃ気付くよ。だってさ、あれだけ僕のことをずっと見てきてたんだもん。いや、睨み続けてきたって感じかな? 何なんだろうね、あれ」
「……ごめんね、憂くん」
「え? どうして葵が謝るの?」
葵は表情を曇らせた。
少しずつ雲行きが危うくなってきた、帰り道に見た灰色の曇り空のように。
「私、天馬くんから告白されたことがあるの。でもね、お断りさせてもらった。あの人、顔がいいからって調子に乗ってるの。告白してきた時もずっと上から目線だったし。そういう人、私、嫌い」
「そう、だったんだ……」
そして、葵は言葉をもうひとつ紡いだ
私のせい――だと。
やっと合点がいった。
僕が視線を感じて最初に覚えた彼の感情。それは『嫉妬』だった。たぶん、自分が振られた相手と仲良くしてる僕に対して嫉妬してたからだったんだ。気に入らないという感情もあっただろうけど。
でもそれは、葵が謝る必要はない。
「葵のせいじゃないよ。だから気にしないで。大丈夫。天馬くんもすぐ飽きるって。僕なんかに嫉妬しても虚しいだけだって」
そこで、葵は首を横に張った。
「ううん。それはないかな。根に持つタイプみたいだから。だから憂くんに対して、あの人は絶対に何かしらしてくると思う」
「何かしら?」
僕の言葉に葵はいっそう、表情に影を滲ませた。
「うん、そう。危険なの、あの人。あのね、あの人ってあちこちで告白したりしてるみたいだから、女子の中では有名で。それで、振られた時は必ずやり返してくるんだって」
「やり返してくる? 葵に?」
「ううん、違う。振ってきた本人に対してじゃなくて、その人にとって『大切な人』に対してなんだって」
「大切な、人」
「そうなの。だから今回は憂くんが狙われた。私にとって、憂くんは『大切な人』だから」
そして葵は、最後に言った。心配や不安や恐怖感を含ませながら。
憂くん、気を付けて――と。
* * *
「あーもう! したくないー! 勉強したくないんだけどー!」
天馬くんの話題から離れて、僕達は勉強を始めた。わけなんだけど……葵は三十分程でギブアップ。そして床に寝転びながらばたばたと足を動かして駄々をこね始めた。いや、早いってば。
「葵さあ。もうちょっと頑張ろうよ。赤点さえ回避できればいいんだから、そこまで難しいことじゃないでしよ」
「そんなわけないじゃん! 高校生になってから赤点しか取ったことがない葵様だよ? 舐めちゃいけませんなあ憂くん。ふっふっふ」
「胸を張って威張ることじゃないでしょ……」
受験の時はあんなに必死に勉強を頑張ってたのに。海に行くことに、そこまで魅力を感じてないのかな?
「ねえ葵? 高校受験の時はあんなに頑張ってたじゃん? 何でだったの? やっぱり海より遊園地の方が良かったとか?」
何気なく。そして、深い意味もなく。ただただ興味本位で訊いただけだった。
だけど葵は、僕の質問を聞いて頬を紅色に染めた。
「え、えーっと……あ、あのね。あの時は、今の高校にどうしても入りたかったから頑張れたの。ゆ、憂くんと同じ学校に行きたくて」
「――え?」
その言葉を聞いて、僕も一気に赤面した。
鼓動が、高鳴る。
この狭い空間の中、僕の鼓動音が響き渡るんじゃないかという程に、大きく。
でも、やっぱりそうだったんだ。今朝、僕が抱いた疑問は当たってたんだ。別に、葵は遊園地に行きたかったから勉強を頑張ったわけじゃない。
ずっと、僕と一緒にいたいと思ってくれてたんだ。
「な、なんか熱いね」
葵は両手でパタパタと仰ぐ仕草を見せた。
「ま、まあ、もうほとんど夏だからね。あ、暑いよね」
この前の夜の時のように、お互いが背を向けて顔を隠すようなことはしなかった。
今の僕達は、心を裸にして全てを曝け出そうとお互いに思っているから。
* * *
「ね、ねえ憂くん? き、今日、このまま泊まっていかない?」
「え!? ど、土日限定にしたんじゃなかったっけ?」
「そ、そうなんだけど……。あ、あの、い、いい、一緒にいたくて。憂くんと」
断る気分になれなかった。葵の表情が、とても寂しそうだったから。
「べ、別にいいけど。でも、なんで急に?」
「あ、あのね。勉強を頑張りたいから。海にも行きたいし。でも、それって、別に海で遊びたいからじゃないの。憂くんと一緒の思い出を作りたかったから」
「そう、なんだ……。で、でもさ。勉強を頑張りたいってことと、僕が今晩泊まらせてもらうのって、関係あるのかな? 別に泊まったりしないでも勉強は頑張れるわけじゃん? だから普通に勉強すれば海にだって行けると思うんだけど」
「そうだけど……なんかね。今日は一人になりたくなくて。そ、その……寂しいの。なんなんだろうね、私。ずっと変なんだ、最近。寂しかったり、心細かったりして。でも、憂くんがいてくれると、すごく安心できるの。それに、勇気をもらえるんだ。そうしたら――」
そうしたら、私はもっと頑張れる――と。葵は言った。
葵の顔は真っ赤に染まっていた。
でも、それだけじゃない。今の葵は、僕の知ってる幼馴染の陽向葵の顔じゃなかった。それは、とても魅惑的で蠱惑的に、僕の目に映った。
その表情を見てたら、僕の心の全てを奪われてしまった。
「いいよ。じゃあ、今晩は泊まらせてもらうね」
「――ありがとう、憂くん」
開け放っていた窓から、心地の良い涼やかな風が入ってきた。カーテンが揺れ、その度に僕と葵の影が重なり合う。
その風は、まるで僕と葵の心の緊張感を和らげようとしてくれている。
そう感じさせられる、不思議な風だった。
『第9話 心の足跡【1】』
終わり