テラーノベル
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第4話 昨年までは、これでよかった
机の上に、過年度の降臨記録が並べられた。
同じ日。同じ正午。同じ古井戸。同じ黒装束。
任務者も、百年以上ずっと同じ仙人。
記録には毎年、《任務完遂》《降臨相に異常なし》と並んでいる。
「昨年までは、これで問題なかったんです」
担当官が記録を指した。
「伝承も手順も変えていません」
「任務者も変わってないぞ」
仙人が胸を張る。
「だから、今年だけ倒れた俺が弱くなったとしか――」
「気象記録を」
景陽が遮った。
安全確認担当者が、任務日当日の記録を隣へ並べていく。
「三十年前、三十一・五度。二十年前、三十二・八度。十年前、三十四・一度」
さらに、直近の記録が置かれる。
「三年前、三十四・二度。一昨年、三十五・一度。昨年、三十六・四度」
最後に、今年。
「三十九・八度です」
誰も、すぐには口を開かなかった。
降臨記録は、百年以上ほとんど変わっていない。
その隣で、気温の数字だけが上がっていた。
担当官が記録を見比べる。
一枚戻る。
さらに十年戻る。
「……待ってください」
「どうしました」
「これ、人界が年々暑くなってませんか」
「年ごとの上下はありますが、長期的な上昇傾向が確認できます」
安全確認担当者が答えた。
「今年だけ、突然暑くなったわけではありません」
仙人は、降臨記録と気象記録を見比べた。
景陽が静かに告げる。
「人界の環境が、少しずつ変わっていた」
「ほぼ四十度じゃねえか」
「はい」
「俺、そんなところで『恨めしや』やってたの?」
「やってました」
仙人は、三十九・八度の数字をしばらく見つめた。
やがて、その目がみるみる輝き始める。事故の記録を見ているというより、己の偉業を知った顔だった。
「すげぇ……よくもったな、俺」
「もっていません。倒れました」
景陽は、今年の気象記録を指した。
「仙人であっても、人界で実体を持つ降臨相は環境の影響を受けます。四十度近い炎天下で、黒衣のまま長時間維持できるものではありません」
「仙人でも駄目か」
「仙人だから途中までもった、と考えてください」
「やっぱり、すげぇな俺」
「褒めていません」
仙人は、並んだ気温の数字を追った。
「この調子なら、来年は四十度か!?」
「可能性はあります」
「よし。今から修行を――」
仙人の腰が浮くより早く、担当官の手が肩へ乗った。そのまま椅子へ押し戻される。
「するな」
景陽は、昨年の三十六・四度へ目を戻した。
「昨年も、安全と言える環境ではありません。辛くなかったのですか」
「べ、別に辛くなんか……」
言葉が止まった。
景陽は待った。
安全確認担当者も待った。
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灯台調整員まで、記録から顔を上げる。
「……暑いとは思ってた。ここ数十年は」
仙人は、急に気象記録の端を弄り始めた。
担当官の手が、別の記録をめくりかけたまま止まる。
「数十年?」
「年々きつくなってたが、その分、修行を増やせばいいと思ってた」
「増やしてたのか」
「ああ。去年より暑いなら、去年より鍛えればいい」
「お前、人界の気温と張り合ってたのか」
「負けるわけにいかないだろ」
「張り合うな!」
「任務は完遂してただろ」
「そういう話をしてるんじゃない。なぜ言わなかった」
「百年以上やってる怨霊が、『暑いから水をくれ』なんて言えるか」
「言え!」
「怨霊らしくないだろ」
「事前打ち合わせで言え。あそこなら怨霊じゃなくていい」
景陽が記録板を開いた。
「任務中、水が欲しいと思ったことは」
「……毎年」
仙人は湯呑みを持ち上げ、誤魔化すように一口飲んだ。
「毎年?」
「だから帰還後、お前のくれる水がうまかった」
担当官の眉間に、深い皺が刻まれた。
「景気よく飲むなとは思ってた」
担当官が机へ両手をつく。
「言ったら、任務者を替えられると思ったのか」
「安全上必要なら、お前は替えるだろ」
「当たり前だ!」
「だから言えなかった」
「この任務を外されたくなかったのか」
仙人は、少しだけ黙った。湯呑みの縁を、親指でなぞる。
「年に一度、お前と成功させて、『また来年』で終わる。百年以上そうしてきたんだ。今さら変えられるか」
担当官の指が、記録の上で強く止まった。それまで仙人を責めていた声が、少しだけ低くなる。
「それで倒れたら、『また来年』も言えないだろうが」
仙人は湯呑みへ視線を落とした。今度は、飲まなかった。
景陽が過年度の記録を指で叩く。
「つまり、この《異常なし》は、負荷がなかった記録ではありません」
「本人が、黙って耐えきった記録です」
安全確認担当者が今年の任務票を開く。
「そのうえ、事前照合に気温の項目がない。過年度の無事故実績だけで、安全と判断されていました」
担当官が、並んだ記録を見渡した。
「任務は変わってない。伝承も、手順も、こいつも」
三十九・八度の数字を見る。
「変わっていたのは、人界の環境だった」
安全確認担当者が記録を閉じた。
「次に検討すべきは、伝承条件を維持したまま、どうやって任務者を高温から守るかです」
担当官が顔を上げる。
「だから、それをどうやってやるんですか」
誰も答えられなかった。
コメント
1件
最新話読みました…「暑い」だけじゃなくて、この百年の積み重ねが全部、仙人の我慢の上にあったんだなって思うと胸がぎゅっとなりました。五十話目でここまでじわじわ来るの、すごいです。担当官との「言え」「言えるか」のやりとり、切なくて、でも好きです。