テラーノベル
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老婆の語る声は
時折風に掻き消されそうになりながらも
アラインの耳には確かに届いていた。
まるで
その言葉の一つひとつが
古の封印を解く呪文のように
静かにこの街の〝奥〟へと導いていく。
「⋯⋯あの桜はね
200年ほど前に死んだ
女の〝夫〟の墓標代わりなんだよ」
老婆は、ゆっくりと息を吸い
肺の奥に眠っていた記憶の続きを
引き出すように言葉を繋ぐ。
「女はね
毎年⋯⋯蕾が膨らみ始めた頃に
あの丘を登ってくるのさ」
その姿は
風物詩である以上に
〝儀式〟だった。
当時の街の誰もが、その風景を知っていた。
けれどその意味を知る者は
もう多くはなかった。
丘へと続く坂道には
かつて一本だけ立っていた桜。
それが今では
まるで誰かを導くように
並木となって道の両側に根を張り
枝を伸ばしていた。
まっすぐに伸びた道を
女が一歩、また一歩と
進んでいく度に――
その足取りに呼応するかのように
桜は花を咲かせる。
まるで
風も光もその時の為に合わせたかのように
彼女の歩みに合わせて
両腕を広げるように
桜が咲き誇っていく。
最後に、丘の頂――
かつて夫の墓標代わりとされた大樹が
ぱんっ、と音を立てるかのように
満開に花を咲かせた。
その瞬間
女は何も言わず
その根元にある小さな石碑の横に
腰を降ろす。
そして
散り始めるその時まで
ただ静かに――
寄り添うのだ。
まるで
今なおそこに眠る夫の温もりを
感じるかのように。
⸻
やがて時代が進み
この街も変わっていった。
丘の下には石畳の広場が整備され
桜の季節になれば色とりどりの屋台が並び
人々の笑い声と共に
春を迎えるようになった。
けれど
その〝春〟がやってくるのは――
彼女が来る年だけだった。
その年だけ、桜は一斉に花を咲かせる。
だから人々は、いつしかその女を
『春を呼ぶ者』と呼び
遠くからその姿を見守るようになった。
それは
ただの伝説や神話ではなかった。
人々の記憶に、目に、心に
はっきりと刻まれた
現実の光景だったのだ。
黄金の絹のような髪を風に揺らし
燃えるような深紅の瞳で
ただまっすぐに桜を見つめるその女の姿。
無表情でありながら
そこには言葉では説明できない
〝痛み〟があった。
彼女が進むと
風が吹き
花が舞い
世界が春に染まる。
だからこそ
誰もが跪いて⋯⋯その道を開けた。
息を殺して、見送った。
語らず、ただ〝在る〟ことを選んだ。
それが、この街の
暗黙の掟だった。
⋯⋯だが、ある年。
春は、別の〝形〟で訪れることになる。
それが
この街にとっての〝悲劇の春〟となるとは
まだ誰も知らなかった。
⸻
春の空は澄み渡り
街には柔らかな陽が降り注いでいた。
人々は今年もまた
あの桜並木が〝彼女〟の到来を告げるのだと
密やかに胸を躍らせていた。
丘の麓から続く並木道は
いつものように蕾を膨らませ
やがて花を綻ばせ始めていた。
その咲き方には不思議な法則がある。
人の足音に合わせるように
まるで意志を持つように
桜は次々と開いていく。
その日もまた
街の誰もが
ひとつの物語のように
その光景を迎えるつもりだった。
しかし、その春は違った。
異変は
咲き誇る桜に待ち焦がれる住人達が
誰ひとりとして気付かぬ間に――
既に起きていた。
きっかけは
愚かで無知な若者の集団だった。
春を呼ぶ者など、所詮は迷信だと。
百年を越えた桜の木に祀られた墓には
財宝が眠っていると。
彼らは酒の勢いと悪戯心から
あろうことか
大樹の根元にある石碑を暴いたのだ。
刃物で石を削り
土を掘り起こし
聖域を荒らす彼らの笑い声は
夜風に乗って静かに街を撫でていった。
そして迎えたその朝――
丘の下
桜並木はいつものように咲き始めていた。
それはまるで
何事もなかったかのように美しかった。
いつものように
彼女がやってくる気配を運んでいた。
人々は道の両側に跪き
そっとその訪れを待っていた。
だが。
咲き誇る大樹の下
立っていた彼女の姿は
いつもとどこか違っていた。
無機質な深紅の瞳には、明確な色があった。
燃えるような怒り。
決して抑えきれぬ、理では語れぬ激情。
彼女の背に、ゆっくりと裂け目が生じる。
そこから
音もなく這い出すように現れたのは――
炎の翼。
空を裂き
光を拒むように広がるそれは
天をも灼き尽くす不死鳥の顕現だった。
瞬間、気温が急激に上昇する。
肌が焼けるような熱さに
並木道の桜達が、次々と花を散らし
花弁が燃えるように空へと昇っていく。
人々は逃げ惑った。
その場から、一歩でも遠くへと。
けれど、彼女は一歩も動かなかった。
ただ
暴かれた墓標を見つめながら
燃え盛る桜の中で
静かに立ち尽くしていた。
誰も
彼女が何を思っていたのかは知らない。
その沈黙が、返って恐怖を募らせた。
数日後、街に不穏な空気が満ち始める。
そして⋯⋯
街外れで大きな爆発が起こった。
混乱に陥った中
行方不明となっていた若者のうち
ひとりが街に戻ってきた。
その姿は――
人間として、あまりに無惨だった。
髪は真っ白に抜け落ち
皮膚は土気色に乾き
瞳は落ち窪みながらも見開かれ
今にも飛び出さんばかりに揺れていた。
その口から漏れたのは
震える声と、同じ言葉の繰り返し。
「丘に行くな⋯⋯っ、桜も⋯見るな!!」
「天使に⋯⋯殺される⋯⋯っ!」
何度も、何度も。
狂ったように繰り返されたその声に
人々は耳を塞ぎ、目を逸らした。
その青年は間もなく
自室に引き籠るようになった。
誰の声も届かず
部屋からは一切の音も漏れない。
そして――ある日。
異臭に気付いた隣人が扉を開けた時
そこにあったのは
焼け焦げた部屋と
天井まで飛び散った赤黒い肉片だった。
その肉は
内側から爆ぜたように裂けており
骨は炭のように黒く砕けていた。
その異様な死に様に
街の者達は
狂乱の中、確信していった。
ー春を呼ぶ者の怒りをかってはならないー
とー⋯。
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禁じられた丘に踏み入れた夜、朧げな桜の下で出逢ったのは、夢と現実の狭間に揺れる彼女の影。 静寂と狂気が交錯する中、恐怖と慟哭だけが胸を焼き、逃れた先に残るのは、冷たい月光だけ──