テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「——絶対に、あのピアノに触れてはならない。指一本でも鍵盤に触れれば、翌朝にはその存在ごと、この世界から綺麗に消えてしまうのだから」
西日が斜めに差し込む放課後の教室。ショウは声を極限まで潜め、怪異のプロローグを告げた。分厚い眼鏡の奥にある瞳が、異様なほど大きく見開かれている。その身振りに呼応するように、机の上のスチール製筆箱がカタカタと乾いた音を立てて震えた。
「またショウのオカルト話か。熱心なことだけど、いささか食傷気味だよ」
主人公のハルは、窓枠に肘を突いたまま、けだるげに視線を外へと投げ校庭を眺めていた。抜群の運動神経と、思考より先に身体が駆動する野生的な直感。それがハルという人間の本質だ。彼にとって、学校に伝わる怪談の類いは、退屈な日常をやり過ごすための安価な娯楽に過ぎない。校庭の向こうでは、サッカー部が巻き上げる土煙が夕日に赤く染まっている。どこまでも平穏で、ありふれた放課後の景色だった。
「違うんだ、ハル。今回の話は、いつもの都市伝説とは一線を画している!」
ショウは椅子を引きずり、ハルの耳元へ顔を寄せた。
「我が校の敷地裏に隠されるように佇む、あの朽ち果てた旧校舎。三十年前に完全に封鎖され、今も重い錠前がかけられたままの廃墟だ。その二階の最奥——突き当たりにある音楽室に、一台のグランドピアノが遺されている。午前二時、静寂が満ちるその部屋で、誰もいないはずの暗闇から突如として旋律が響き出すのだという」
「ふん。よくある怪談のテンプレじゃないか」
「問題はその『曲』にあるんだ。誰もが知る名曲『エリーゼのために』。それが、あろうことか後ろから前へと逆再生のシーケンスで演奏される。音の配列は歪み、まるで狂気的な呪詛のように鼓膜を侵食する。そして、その禁忌の音を聴いてしまった者は、一週間以内に神隠しに遭う。……ねえ、アオイからも何か言ってやってくれよ」
ショウに水を向けられ、それまで影のように静まり返っていたアオイが、ようやく文庫本から視線を上げた。図書委員を務める彼女は、校内のあらゆる記録を網羅する、冷徹なまでの知識頭脳である。
「ショウくんの言葉を、単なる妄想と切り捨てることはできないわ」
アオイの声は、夕暮れの教室に冷ややかに響いた。「一九九六年の秋。この学校の学籍簿から、一人の女子生徒の名前が突如として消えている。彼女の名はサクラ。当時、神童とまで称されたピアノの天才よ。彼女が最後に目撃された場所こそが、例の旧校舎の音楽室だったの」
アオイの淡々とした指摘が、教室の空気を一瞬にして凍りつかせた。ハルは肘を外し、彼女の横顔を凝視する。アオイの瞳に悪戯の光は一切なかった。
「サクラさんが失踪したその日を境に、旧校舎は永劫の立ち入り禁止区域となり、ピアノには頑丈な鉄鎖が巻き付けられた。……けれど、真に不可解なのはそこからよ」
アオイは本を厳かに閉じ、ハルを真っ直ぐに見据えた。「彼女が消滅した時、音楽室の扉は内側から施錠されていた。窓のクレセント錠もすべて閉まった状態。つまり、そこは物理的に侵入も脱出も不可能な、完璧な『密室』だったのよ」
「密室……」
ハルの胸鳴りが、かすかに速度を上げた。ただの怪異の噂に、突如として冷徹な「論理の謎」が介入してきたからだ。
その刹那。
「おい! 大変なことが起きた!」
悲鳴に近い怒号とともに、教室の引き戸が激しく弾け飛んだ。息を荒くして滑り込んできたクラスメイトの男子は、顔面を土気色に変えている。
「どうした。落ち着けよ」
ハルが立ち上がると、その男子は小刻みに震える指先で、窓の外——校庭のさらに奥に広がる、鬱蒼とした裏山の森を指さした。
「ケンタが……あいつが、旧校舎の内部に侵入したんだ!」
「何だって!?」
ショウの口から悲鳴が漏れる。
「罰ゲームだよ。今日の昼休み、ケンタが『旧校舎のピアノの呪いなんて、ただのトリックだ』って大口を叩きやがって……。放課後、度胸試しとして裏口の防犯格子の隙間から中へ入っていった。スマホで動画を回しながらね。でも、もう三十分以上も経過しているのに、一向に戻ってこない。端末にコールしても、ただ電子音が虚しく響くだけで、誰も応答しないんだ!」
教室内を、重苦しい沈黙が支配した。太陽は完全に地平線の彼方へと没し、世界は急速に、禍々しい紫黒の闇へと塗り潰されていく。遠方にそびえる旧校舎のシルエットが、まるで巨大な捕食者が顎を開けて獲物を待っているかのように、不気味に浮かび上がっていた。
「どうする、ハル……」
ショウがハルのブレザーの袖を、縋るように掴んだ。その手のひらは氷のように冷たく、震えが止まらない。
ハルは窓外の黒い巨影を睨み据えた。恐怖がないと言えば嘘になる。しかし、友人があの闇の奥で孤立しているのだ。ここで背を向ける選択肢など、彼の辞書には存在しない。
「行くぞ」
ハルは短く、しかし拒絶を許さないトーンで告げた。「ケンタを連れ戻す。アオイ、ショウ、遅れるなよ」
アオイは無言で首肯し、リュックから冷たい金属製のLEDライトを取り出した。ショウは今にも泣き出しそうな表情を浮かべながらも、二人から遅れまいと必死に足を進める。こうして、三人の長い夜の探索が幕を開けた。
ガタガタと夜風に 咽(むせ)ぶ旧校舎の裏口。錆びつき、赤茶けた牙のようになった鉄扉の隙間から、ハルたちは五感を鋭らせ、底なしの暗黒へと足を踏み入れた。
第2章:音楽室の密室
旧校舎の内部は、まるで時間が凍結された異界だった。
外の風の音が、錆びた鉄扉を境界線にして、急に遠ざかっていく。代わりに鼓膜を支配したのは、古い木造の床が自重できしむ、不気味な余韻だけだった。空気は冷たく、そして酷く澱んでいる。カビと、埃と、何かが腐敗したような甘ったるい匂いが鼻腔を突いた。
「……誰も、いないの?」
ショウが自身の声を押し殺すように呟いた。彼が掲げる懐中電灯の光が、暗闇の中で激しく上下に揺れている。
「静かに。足元に気をつけて」
アオイがLEDライトの鋭い白色光で、床の状況を冷徹に確認していく。床板の至る所が腐食し、底が抜けて暗黒の床下が覗いていた。
ハルは先頭を歩みながら、五感を極限まで研ぎ澄ませていた。
ケンタ。あいつは一体、どこまで進んだのか。
「あ……」
不意に、ショウが短い悲鳴を上げて足を止めた。光の輪が、廊下の真ん中の一点を執銃に照らし出している。
「ハル、アオイ、あれ……!」
二人が駆け寄ると、そこには不自然な存在感を放つ『物体』が転がっていた。ケンタのスマートフォンだった。
ハルが膝を突き、それを慎重に拾い上げる。その瞬間、指先にゾクッとするような不快な感触が走った。液晶画面は、まるで強固な意志で叩きつけられたかのように、蜘蛛の巣状にバキバキに砕け散っている。しかし、真に異常なのはその損壊ではなかった。
「……まだ、繋がってる」
ハルが声を絞り出す。
バックライトの明かりが、ひび割れたガラスの隙間から息絶え絶えに漏れていた。画面に表示されているのは、通話中の文字。通話時間はすでに『42分16秒』をカウントしており、その数字は今も一秒ずつ、冷酷に刻まれ続けている。
通話相手の欄には、ただ一文字。『 4 』とだけ表示されていた。
「4? 誰の番号よ、これ……」アオイが眉をひそめ、スマホの画面を覗き込む。
その時、ハルは砕けたスピーカーの奥から、かすかな『音』が漏れ聞こえていることに気がついた。彼は吸い寄せられるように、スマートフォンを自身の耳へと近づけた。受話口に耳を当てた瞬間、ノイズの向こうから聞こえてきたのは、機械的な、しかしどこか歪んだメトロノームのリズム。そして——。
『……ミ……レ……シ……ラ……』
女とも子供ともつかない、酷くかすれた声が、音階をなぞるように呟いた。それは、誰もが知る『エリーゼのために』の、正確に逆再生された音の羅列だった。
「うわあああ!」
ハルは思わず、スマートフォンを床へと投げ出した。
「あいつ……ケンタは、もう『上』にいる。音楽室だ。あの音が、受話器の向こうから聞こえた……」
その言葉を証明するかのように、スマートフォンの通話が突如としてプツリと切れた。しかし次の瞬間、三人の頭上——二階の天井の遥か奥から、あの音が、今度は空気そのものを震わせて響いてきた。
ピン……ポン……パン……
三十年間封鎖された音楽室から、湿ったピアノの旋律が、確かに流れ始めていた。
「怯えていても始まらないわ。登りましょう」
アオイがそう言って、冷たい手すりに手をかけた。三人が二階の廊下へ辿り着いたとき、アオイが不意に自身のスマートフォンを凝視したまま足を止めた。「……おかしいわ。これを見て」
懐中電灯の光が照らし出したアオイのスマホ画面。そこには、信じがたい光景があった。電波強度を示すアンテナのマークが、不自然なほどに猛り狂っていたのだ。
「バリ5……? 最大電波?」ハルは自分のスマホも引き抜いた。同じだった。
「そんなバカな……。ここは街のハズレの森の中だぞ。どうして音楽室に近づくにつれて、これほど電波が強くなるんだ」
「電波の拠点が、すぐ近くにあるということよ。幽霊が携帯の電波を飛ばすなんてあり得ない。これは怪奇現象じゃないわ。きわめて近代的な、人工的な何かが、この上で機能している証拠よ」
オバケの呪いか、それとも人間の悪意か。二階の最奥、突き当たりにある「音楽室」の木製の扉が光の中に浮かび上がった。扉の取っ手には、太い鉄のチェーンが何重にも巻き付けられ、巨大な南京錠がかけられていた。チェーンは外されていない。鍵もかかったままだ。だが、その強固に閉ざされた扉の向こう側から、今まさに、激しいピアノの旋律が漏れ聞こえているのだ。
「ケンタ! そこにいるのか!」
ハルが扉を激しく叩いた。その瞬間、弾けるような不協和音を最後に、ピアノの音がピタリと止まった。
ハルが扉に耳をぴったりと押し付けた、その刹那——。
ガタガタガタガタガタッ!!!
内側から扉が激しく殴りつけられ、チェーンが悲鳴を上げた。それと同時に、ハルのポケットの中で、けたたましい着信音を鳴らし響かせた。画面に表示された発信者は、やはり『 4 』だった。
ハルは背後の窓へと身を翻した。窓の向こうには、旧校舎の外壁に沿って設置された、錆びついた鉄製のキャットウォーク(細い足場)が伸びている。「正面が駄目なら、外から回る」
ハルは窓のクレセント錠を力任せに回し、夜の冷気の中、一歩を外へ踏み出した。
「ギィ……」と鉄が軋む。壁に背中をぴったりとつけ、数センチメートルほどの鉄の隙間を、カニ歩きで音楽室の窓へと向かって進んだ。ようやく目的の窓に到達し、ガラスを押した。窓は一ミリも動かなかった。内側の鍵は、しっかりとロックされている。
「本当に、完全な密室だ……」
ハルは冷や汗を流しながら、懐中電灯の光を室内に向けた。
誰もいない。ピアノの椅子には、誰も座っていない。だが、ピアノの鍵盤だけが、まるで見えない人間の指が叩きつけているかのように、ベコベコと不自然な深さで沈み込み、激しく踊っていた。
ハルが窓ガラスを拳で激しく叩いたその瞬間、最悪の音が響いた。
パリィィン!!
経年劣化に耐えかねた鉄製の足場のボルトが弾け飛び、ハルの足元が大きく傾いたのだ。
「うわあああ!」
ハルは窓枠に必死に指を引っかけたが、身体が宙に浮く。暗闇の底へ引きずり込まれそうになるハルの視界の中、グランドピアノの太い脚の根本、床板の隙間から、何かを必死に外へ突き出そうとする、人間の『青白い手』が響き出てきているのを、ハルは確かに目撃した。
「ハル、手を……手を伸ばして!」
廊下の窓から身を乗り出したショウが、腕を極限まで伸ばした。アオイがショウの身体を後ろから必死に支えている。ハルは歯を食いしばり、ショウの手首を掴んだ。
「せーのっ!!」
二人の執念がハルを引き揚げ、ハルは廊下の床へと転がり込んだ。
「ピアノの下だ。床から、人間の手が伸びていたんだ……」
その言葉を遮るように、廊下の前方からあの足音が聞こえてきた。
……カツ。……カツ。……カツ。
三人は咄嗟に階段脇の物置の影へと身を潜め、ライトを消した。暗闇の向こうから近づいてきたのは、大柄な大人の男のシルエットだった。男は音楽室の扉の前で足を止め、ポケットから鍵の束を取り出すと、南京錠へと差し込んだ。
カチャリ。
外側からしか開けられないはずの錠前が、人間の手によって解錠された。男が室内に一歩足を踏み入れた、その刹那——。
「うわあああああああ!!!」
音楽室の内部から、引き裂くような悲鳴が響き渡った。ケンタの声だった。
第3章:消えた30年前の生徒
「ケンタ!!」
ハルは叫ぶと同時に、開け放たれた音楽室の戸口へと滑り込んだ。
部屋の入り口近くでは、先ほどの男——学校の夜間警備員の敷島が完全に硬直していた。手にした業務用のライトは床に落とされ、彼の巨体が小刻みに震えている。敷島の視線の先、部屋の隅にはケンタが腰を抜かしていた。
ハルがゆっくりと光をピアノへと向けた。
ピアノの椅子に、小柄な少女のシルエットが座っていた。着ているのは、三十年前の旧制服。彼女の手が鍵盤の上をなぞるように滑ると、鍵盤がベコベコと沈み込み、あの歪んだ逆再生の旋律を奏で始める。
ハルはライトを上へと向けた。少女が、ゆっくりとハルたちのほうへ首を回した。
少女の頭部には、何もなかった。目も、鼻も、口もない。のっぺりとした「空白」の皮膚が、ライトの光を浴びて鈍く光っていた。
突如、ピアノの旋律が爆音へと跳ね上がり、音楽室の全ての窓ガラスが一斉に内側へと炸裂した。
「逃げろッ!!!」
敷島が悲鳴を上げて部屋から飛び出していった。ハルはケンタを強引に立ち上がらせ、四人は音楽室を飛び出した。背後でガシャン!! と激しい音がし、扉は再び鎖で閉ざされた。完全な、再密室化。そして四人のスマートフォンが、一斉にデス・コールを鳴らし始めた。画面にはやはり『 4 』の文字。
恐怖によって思考を破壊されていたケンタの指先が、痙攣するように通話ボタンをタップしてしまった。スピーカーから漏れ出す電子音。そして、ホワイトノイズに混じって、一人の少女の可憐で疲弊した声が響き始めた。
『——先生、お願いです。私の楽譜を返してください』
スピーカーから聞こえる少女の声は、サクラのものだった。
『楽譜? 何のことかな、サクラくん』
続いて聞こえてきたのは、若く傲慢な響きを帯びた、敷島警備員の声だった。
『白々しい嘘はつかないで! 明日のコンクールで私が弾くはずだった、書き下ろしのオリジナル曲……先生が私の机から盗むのを見た人がいるんです!』
『ハハハハ! 君のような小娘の妄想に、誰が耳を貸すと思うかね? 明日のコンクールで発表されるのは、私が作曲した、至高の音律だ』
『そんな……! あれは私が作った曲なのに……! 返して……返してよ!!』
衣類が激しく擦れ合う音、そして、ドサリという、肉体が激しく床へ叩きつけられる鈍い音が響いた。
『……死ん、だ? いや、私は悪くない。ピアノの角に頭を……。そうだ、この音楽室の床下に、眠らせておけば……』
ブツッ。音声はそこで途切れた。
「三十年前、サクラさんは敷島に自分の楽譜を盗まれ、殺害されたのよ。遺体は音楽室の床下に遺棄された……」アオイが激しい怒りを孕んだ声で呟いた。「敷島は夜間警備員として学校に残り続け、怪談の噂を流して子供たちを遠ざけていたのよ」
ミステリーのピースが噛み合ったその時、階段の暗闇から一つの巨大な影が上がってきた。男の手には、赤黒く濡れた用務員用のバールが握られていた。
「……全部、聞いたのかね」
敷島が、光の失せた虚ろな瞳でハルたちを見下ろしていた。
「ガキどもが……! 殺してやる!!」
敷島がバールを高く振り上げた。逃げ場のない一本道の廊下。
「ハル、ショウ、ケンタ! スマホのライトを最大出力にしろ!」ハルが叫んだ。
「……今よ!」
アオイが鋭く指先を動かした。彼女は空間の異常な電波強度(バリ5)を利用し、四人の端末を同時に無線発信源へ強制同期させ、一瞬だけ過剰な負荷(オーバーロード)をかけた。四人のスマートフォンが一斉に、通常の限界を超えた「太陽のような白銀の爆光」を放って炸裂した。
「ぬ、あぁぁぁぁっ!?」
暗闇に慣れていた敷島の両目が焼き切られた。敷島が悲鳴を上げてよろめいた隙に、ハルたちは一階へと駆け下りた。一階の正面玄関はシャッターが下りていたため、四人はホールの隅にある重厚な木製の扉へと滑り込んだ。【 宿直室 】だった。
内側から鍵をかけ、スチール製の机やロッカーを引きずって強固なバリケードを築いた。
ハルは部屋の奥を見回した。「……待てよ。ここ、敷島の『部屋』じゃないか?」
机の上には、大量の「古いカセットテープ」と、「無線機器の取扱説明書」が散乱していた。
アオイがその説明書を手に取った。「やっぱりね……。これで全ての『仕掛け』が繋がったわ。音楽室のピアノは幽霊じゃない。この部屋にある超高出力の無線発信源から、ピアノ内部の自動演奏レシーバーへ電波を送り、遠隔操作で動かしていたのよ。私達への『4』という着信も、敷島が仕掛けたプログラム。恐怖を煽って子供を追い出すための、冷徹な機械のトリックよ!」
「じゃあ、俺が窓の外で見た、あの青白い手は何だったんだ?」ハルが呟いたその時。
ドンドンドンドンドンドン!!!
宿直室の扉が外から激しく叩きつけられた。敷島が血の滴るバールで扉を叩き割ろうとしていた。木製の扉に亀裂が走る。
ハルは、敷島のデスクの引き出しに目が留まった。そこには、一つの「古い小さな鍵」が遺されていた。タグには、掠れた文字で『 音楽室・床下収納 』と書かれていた。
第4章:過去からの逆転裁判
ドガァァン!!!
凄まじい破壊音とともに、宿直室の木製扉の中央が大きく陥没した。隙間から、血走った敷島の片目が狂気的に覗いていた。
「そこを動くな……。一人残らずこの手で——」
「敷島さん!!」
ハルの声が、狂った警備員の怒号を真っ向から切り裂いた。ハルは右手に握りしめた真鍮の古い鍵を、扉の隙間に向けて高く掲げた。
「これに見覚えはあるだろ! 『音楽室・床下収納』って書かれた、あんたの引き出しに隠されていた鍵だ! あんたが三十年間、必死に隠し続けてきたものの正体を、俺たちはもう全部知っているんだ!」
扉の向こうの動きが、ピタリと止まった。
「あんたはサクラさんの楽譜を盗んだ。それを抗議しにきたサクラさんを突き飛ばして殺害し、遺体を音楽室の床下に隠した。……違うか!?」
「……な、何を……妄言を……」敷島の声から動揺が滲み出た。
「妄言じゃないわ」アオイがスマートフォンを扉に向けた。「ケンタのスマホには、あんたがサクラさんを殺害した時の『実際の音声』が全て録音されている。言い逃れはできないわ、敷島先生」
『先生』と呼ばれた瞬間、敷島の身体が大きく震えた。
「私は悪くない……!」敷島は扉に背中を預けるようにしてその場にへたり込んだ。「あの小娘が悪いんだ! 私は音楽教師としての名誉が欲しかっただけだ! だから私は、あいつをあの床下に眠らせた……。そして、誰も近づかないよう、夜中にこの部屋から電波を送り、ピアノを逆再生で鳴らし続けたのだ。あの日、あいつの日記帳がピアノの中に消えてさえいなければ、私は——」
敷島がそこまで言いかけた、その刹那。
旧校舎全体の空気が、一瞬にして『静止』した。宿直室の無線機が火花を散らしてショートし、完全に沈黙した。機械のトリックは、今、すべて破壊されたのだ。
しかし。
ピン……ポン……パン……
遥か上階、二階の音楽室から、あの音が、再び響いてきた。
無線機は壊れた。敷島は一階にいる。それなのに、ピアノの音は怒りを孕んだ轟音となって、校舎全体を激しく揺らし始めた。
逆再生ではない。今、響き渡っているのは、優しく、しかしどこまでも気高く、悲しいほどに美しい、本物の『エリーゼのために』の旋律だった。サクラさんが三十年前に命を懸けて作曲した、真実のメロディだった。
「ハル……! 閉ざされていた音楽室のチェーンが、外側から外れる音がする!」ショウが上を見上げた。サクラさんの魂が、犯人の自白をトリガーにして、本当の目覚めを迎えたのだ。
第5章:最後の演奏
ハルは胸ポケットに忍び寄る奇妙な温もりに手を当てた。そこには、いつの間にか、銀色に鈍く光る「サクラの古いブローチ」が収まっていた。それはまるで、三十年の闇から解放された彼女からの、感謝と決別の証のようだった。
「走れ! 旧校舎が崩れるぞ!」
ハルの叫びと同時に、二階の音楽室の床が凄まじい音を立てて爆砕した。
「あああああ! 私の、私の名誉が……楽譜がぁぁぁ!」
狂乱した敷島は、ハルたちに目もくれず、崩落していく二階への階段を逆流するように駆け上がっていった。サクラの日記帳と、自身の罪の証拠が眠るあの音楽室へと、何かに吸い寄せられるように。
その直後、音楽室から溢れ出した青白い光の奔流が、敷島の巨体を呑み込んだ。ハルたちが見上げた先——崩れ落ちる天井の隙間で、あの「顔のない少女」が、今度は確かに、人間の優しい笑顔を浮かべて、敷島を暗黒の床下へと引きずり込んでいく幻影が見えた。
「ハル、こっちよ! 非常口が開いてる!」
アオイの声に導かれ、ハル、ショウ、ケンタの四人は、それまで壁だと思っていた場所に突如として現れた、古い鉄製の非常扉へと飛び込んだ。
ドサリと、四人は濡れた校庭の芝生へと転がり出た。
振り返ると、夜の旧校舎は、まるで最初からそうであったかのように、静まり返っていた。ピアノの音も、敷島の叫び声も、全ては夜の静寂へと溶けて消えていた。ただ、割れた二階の窓から、一筋の美しい月光が音楽室の跡地を静かに照らしているだけだった。
明くる朝、警察の捜査によって、旧校舎の音楽室の床下から、三十年前に失踪したサクラさんの遺骨と、彼女の無実を証明する「血染めの楽譜」が発見された。夜間警備員の敷島は、そのまま行方不明となり、二度と姿を現すことはなかった。
「……終わったんだね」
いつもの教室で、ショウが小さく息を吐いた。
ハルは窓の外、取り壊しが始まった旧校舎を見つめながら、ポケットの中のブローチをそっと指先で撫でた。
学校には、新しい噂が流れ始めていた。
——夜中の二時、新しい音楽室の前を通ると、どこからか、とても優しくて美しい『エリーゼのために』が聞こえてくるのだという。それはもう、誰も怖がらない、真実のメロディだった。
#あくびの歌みたみた?
コメント
6件
紗良にゃんちゃんへ♣︎ 読んだよ〜♡かくよむと同じ!? 凄すぎでしょ〜!!😇 これからも応援してる📣頑張れ👍 あと、Vtuberになれるアプリ[ロックされないよ] 名前 Draw Market
うわあああ読み終わった〜!!😭✨ 旧校舎でピアノの逆再生怪談かと思ったら、まさかの人間の悪意と30年前の悲劇が絡んでくる展開…!最後のサクラさんの“本物のエリーゼのために”が流れたところで鳥肌立ったよ…。床下の手とか、バリ5電波の伏線回収も気持ちよすぎるし、ハルたち4人のチームワークが熱い🔥 これは続きが気になるレベル!紗良にゃんさんの伏線の貼り方、マジで好みです💕