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#ドラマ
122
#仮想現実
「まあ、綺麗な蝶々だこと」
揺れる馬車の中、フィリナ・エルシードは顔を綻ばせた。
視線の先はひらひらと風に乗って舞う、1匹の黒い蝶。
フィリナは窓から手を伸ばし、指先を差し出す。
と、蝶はまるで吸い寄せられるかのように、そこへぴたりと止まった。
「今年は春が早いですね」
優しい声に応えるように、蝶が2、3度翅を動かす。
今、フィリナの話し相手となる人間は居なかった。
同乗者はおらず、御者は無言。
馬車の行き先は――追放刑の執行場所であった。
「ああ、見えてきましたね」
フィリナは窓から今度は顔を出し、馬車の進行方向を見やる。
鬱蒼とした雑木林に囲まれたこの道の先、高い木々から頭を覗かせる高い高い石造りの塔。
その塔こそが、これからフィリナが送られ、今後一生を過ごすこととなる、事実上の牢獄だった。
「蝶々さん、あれが私の新しいおうちなんですよ」
しかしフィリナには、これっぽっちも悲壮感が無い。
例え追放刑を科せられるに至った「罪」が濡れ衣だったとしても。
その濡れ衣が、義妹の仕組んだものだと知っていたとしても。
自分を庇ってくれる人が誰も居なかったとしても。
フィリナは心の底から、平気だった。
ただその目には、これから始まる新しい生活への期待が映るだけ。
悲しいどころか、むしろ彼女はご機嫌だった。
「新しい場所には、新しい出会いと、新しい幸福があるものです」
指先の蝶に、フィリナは語りかける。
彼女の言葉をわかっているのかいないのか、蝶はしばらくじっとしていた。
が、ふと思い出したように、再び宙へと舞う。
フィリナは蝶を見送ると、体を馬車の中へと引っ込め、きちんと座り直した。
そうして馬車は走り続けることしばらく、ついに塔の傍にて歩みを止める。
「景色を眺めていると、あっという間ね」
ひとりごちながら、フィリナは大きな鞄を持って馬車を下りた。
鞄の中身は、衣服をはじめとした最低限の必需品。
付き人も居ない「罪人」の彼女は、たったそれだけを持って、この追放の地へとやってくることになったのである。
「どうもありがとうございました。お気を付けて」
フィリナが穏やかな笑顔でそう挨拶をすれば、御者は居心地が悪そうに眉を下げ、そそくさと去っていった。
誰だってそうだろう。
自分が刑場に運んだ罪人に、素直な言葉を向けられて、反応に困らない者が居るだろうか。
「さてと」
遠ざかる馬車を見送ったフィリナは、くるりと振り返って塔を見上げる。
高く、無骨で、蔦の這う、廃墟のような塔。
周囲は山と雑木林に囲まれており、最寄りの町に移動するにも、馬車が無ければ何日かかるかわからない。
高貴な土地から追放した罪人を閉じ込めるには、うってつけの建物だ。
フィリナは鞄を持ち直すと、軽い足取りで塔の入り口へと近付く。
扉は鍵がかかっておらず、彼女がその細腕で力いっぱい押せば、ギギギ……と鈍い音を立てて開いた。
そうしてまず現れたのは、ずらっと上まで続く階段。
この刑罰のための塔は、最上部に部屋がひとつあるだけで、他にはそこへ繋がる長い階段があるだけなのだ。
フィリナは塔の中に足を踏み入れ、入り口の扉を丁寧に閉める。
それからゆっくりと、階段を上り始めた。
塔の外壁には、ぽっかりと窓が空いている。
階段にはそこから舞い込んできたのであろう、木の葉がいくらか積もっていた。
「足を滑らせたら大変ね……。後でお掃除しましょう」
慎重に慎重に、フィリナは階段を上っていく。
脳裏には、以前、義妹のアイリに言われた台詞が浮かんでいた。
――あら嫌だ、お義姉様ってば本当にのろまですのね。
――義理とは言え、あなたが姉だなんて恥ずかしいわ。
フィリナは少しだけ、目を伏せる。
追放刑も、義妹の所業も、彼女を傷付けはしていない。
ただ彼女は、己の至らなさだけに心を痛めていた。
窓の外から、ほんのりと温かい風が吹き込む。
フィリナは顔を上げ、再び足を動かし始めた。
が、その時。
「あっ」
次の段に伸ばされた彼女の左足が、ちょうど木の葉を踏ん付けた。
ずる、と靴裏と木の葉が擦れる。
前に出かけていた体は、バランスを崩して後ろに傾く。
反射的に踏ん張ろうとする右足は、しかし足場を得ず、宙に放り出される。
支えを失くしたフィリナは為すすべなく、真っ逆さまだ。
塔の階段は急で、角ばっている。
上手く受け身を取れれば擦り傷で済むだろうが、打ちどころが悪ければ死んでもおかしくない。
そして今、フィリナの両手は鞄の持ち手を握りしめている。
咄嗟に離すことができず、当然、受け身など取れるはずもない。
呆けた顔のまま、最も望ましくない姿勢のまま、彼女は転落する。
最後にフィリナが聞いたのは、ごつん、という頭に響く音。
彼女の意識は、それきり途絶えた。
***
「……ん」
水底からぷかりと泡が浮上するように、フィリナは目を覚ました。
頬を撫でるさわさわとした感触に瞼を持ち上げれば、青々とした草が視界の右側に現れる。
まばたきひとつ、改めて目の前の光景を見ると、右から左に向かって、幾本もの木々が伸びていた。
そこに止まっていた1羽の鳥――のような――影も、左に向かって飛んでいく。
そこでフィリナはようやく、どうやら自分が横たわっているらしいことに気付いた。
「あら、まあ」
フィリナは急いで、と言ってもはたから見ればゆっくりと、起き上がる。
上下左右が正常になった視界が改めて捉えたのは、鬱蒼とした森だった。
しかし普通の森、それこそ先に馬車で通ってきたようなそれとは違う。
幹のねじくれた木。
人間の指のような形をした葉。
豊かに生い茂る、ほとんど黒色と言って差し支えないほどに深い深い緑色をした、背の低い草。
時おり木々の間を通り抜けていく、鳥のようで少し違う形をした影。
どれを取っても、フィリナには見たことが無いものだ。
彼女は裾に付いた草の欠片を払いながら、くるくると周囲を見回す。
その目は柔らかな好奇心の色をしていた。
フィリナは心の赴くままに歩き出す。
人の手が入っていなさそうな森の中は、生い茂った草のおかげか、意外にも足に優しかった。
さく、さく、と微かな足音と共に、フィリナはあてどもなく進む。
そうしてその足が、大きな木の影を踏んだ瞬間である。
ほとんど無風だった森の中を、一陣の強風が吹き抜けた。
思わずフィリナは目を瞑り、風がやむのを待ってから、また開く。
ほんの数秒の出来事だった。
しかし、どうだろう。
彼女の目の前には、それまで影も形も無かったはずの、1人の男が立っていた。
「あら、あら」
フィリナは驚いて、目をまん丸に見開く。
男は、黒づくめの服を着た、真っ白な長髪の人間……のようなものだった。
というのも、彼の長い服の裾から、何やら太い尻尾が顔を出しているのである。
尻尾は、蛇の尾のようにすらりと伸びており、先端付近に3対6枚の、菱形のヒレらしきものが生えていた。
今まで見たことのあるどんな動物のそれとも違う、珍しいその尻尾に、フィリナはしばし目を奪われた。
「……誰だ。どこから来た」
不意に、男が口を開く。
不愛想を通り越して、もはや温度が無いような声だった。
表情も声にたがわずしかめっ面で、視線もまるで冷え切っている。
威圧感に満ちた風貌、そして振る舞いだったが、フィリナが返したのは笑顔だった。
「ごきげんよう。お初にお目にかかります。私はフィリナ・エルシード。今年で20になります。出身は王国の東部、エルシード伯爵領で――」
そこまで言って、彼女ははたと口元に手を当てる。
「ああ、いいえ。そうでした。その伯爵領の北端にある、塔からやって来たのだと思います」
「『思う』?」
「はい。私、どのようにこの森まで来たのか、覚えていなくて。ここが立ち入ってよい場所なのかも、わからないんです」
フィリナが申し訳なさそうに眉を下げれば、男は眉間に皺を寄せた。
幾らかの沈黙が流れる。
男は、今にも溜め息を吐きそうなほどの不機嫌さと共に、言った。
「ここは『魔獣の森』だ」
「『魔獣の森』……どうしましょう、聞いたことが無い場所です……」
フィリナは頬に手を添え、うろたえる。
しかしそこに恐怖の色はさして無く、在るのはただただ、聞かぬ地で迷子になったことへの困惑のみ。
それはまるで、本を読んでいる最中に意味のわからない言葉が出てきて、けれども辞書を調べてもその言葉が見当たらなかった時の心持ちのようで。
……要するに、いまいち危機感が無かった。
「俺も」
また幾らか間を置き、男は口を開く。
「お前のような奴は、見たことも聞いたこともない。角も翼も尻尾も無ければ、鱗も長い耳も牙も無い……何の特徴も無い奴など……」
言葉が止まり、男の尻尾がゆるりと動いた。
どうしたのだろうか、とフィリナは首を傾げる。
彼女の穏やかで澄んだ瞳が、男の真っ黒な瞳を見つめた。
男はその視線を厭うように、眉間に皺を寄せる。
それから、探るように言った。
「……異界人か?」
「ああ、確かに! それなら説明が付きますね」
呆気ないほど、あっけらかんと、フィリナは手を叩く。
非日常的で突飛な「異界人」という言葉を、ひとつの可能性として心から受け入れたようだった。
「私、最後に覚えているのが、塔の階段から落ちたことなんです。もしかしたらその拍子に、何かの力がはたらいて……ここへやって来たのかもしれません」
「……聞いたことが無い」
「私もです。世の中、不思議なこともあるものですね」
にこにこと笑いながらフィリナは言う。
いまいち会話が嚙み合っていないような空気であったが、それを感じ取っているのは男だけのようだった。
男はとうとう溜め息を吐き、踵を返す。
「来い」
「どちらへ?」
「雨と風をしのげる場所だ」
やや情報の不足した回答を残し、男は歩き始める。
フィリナは顔をパッと明るくした。
「まあ、案内してくださるのですね。ありがとうございます」
疑いなど欠片も無いその声に、男は居心地悪そうに尻尾をうねらせる。
黒い草葉の陰に隠れていた小動物が、カサカサと音を立てて立ち去っていった。
「そうだ、お名前を聞いてもよいですか?」
「ギギス・アグリカ・ヴェン・ディネイアズ・オルジト」
男、改めギギスはぶっきらぼうに答える。
対するフィリナは相変わらず陽だまりのような、優しい雰囲気を纏っていた。
「では、ギギス・アグリカ・ヴェン・ディネイアズ・オルジト様――」
「馬鹿丁寧に通しで呼ぶ奴があるか。ギギスでいい」
「わかりました、ギギス様」
素直も素直に、フィリナは頷く。
「ギギス様は狩人ですか? それともただ森に住んでいらっしゃる人?」
それは全く他意の無い質問だった。
単に相手のことを知ろうという、歩み寄りの言葉。
しかしギギスは眉をぴくりと動かし、合わせてもいない目を泳がせた。
「……それよりも。命が惜しければ、迂闊に俺から離れるなよ」
「はい。気を付けますね」
露骨に話題を逸らされても、フィリナは気にしなかった。
不快感を示すことも、先ほどの質問への回答を得ようとしつこく追及することも無く、ただ純朴に会話をする。
その様子に、ギギスの眉間の皺は安堵するように消えた。
2人はさくさくと地面を踏みしめながら、森の中を進む。
木々の密度、葉の茂り方、奇妙な植物たち。
二重の意味で暗い森は、先に行けば行くほどその空気を濃く、重くしていった。
時折、薄暗がりの間を何かが通り過ぎて行ったが、フィリナがそれらを目にすることは叶わなかった。
なぜならそれらは2人を目にするや、とても素早く、また逃げるように姿を隠したからだ。
そうして歩いていくことしばらく、ギギスは不意に立ち止まった。
フィリナは、目的地に着いたのだろうか、とギギスの後ろから顔を覗かせる。
だが彼女の目に入ってきたのは、重々しい威圧感と共に立ち塞がる、ツタや低木が絡み合ってできた自然の生垣だった。
これでは先へ進めない。
戸惑いつつ、脇に道が無いかと辺りを見回すフィリナだったが、そんな彼女へ、ギギスが左手を差し出した。
「手を」
「? はい」
促されるまま、フィリナは彼の手を取る。
ひやりとした感覚が掌に伝わった……かと思えば、次の瞬間。
絡まった生垣の植物たちが、脈打つように動いた。
「あら!」
目を丸くして驚くフィリナの目の前で、生垣はうねうねと這う蛇のごとく動き続け、形を変えていく。
ややあって、生垣が再び静止する頃には、フィリナたちの前には1本の細い道ができていた。
「来い」
ギギスはフィリナの手を引き、小道に足を踏み入れる。
両脇に生い茂る幾種類もの植物に見つめられながら、それでも構わず歩を進めれば、ほどなく開けた場所に出た。
ちょっとした広場くらいの、ささやかな大きさの空間。
白と黒の交じった芝生が広がり、ぽつぽつと小さく赤い花が点在する、先ほどまでとは少し雰囲気の違う景色。
その中心には、1軒の家屋が建っていた。
「まあ! 素敵なおうち!」
「ただのボロ家だ」
目を輝かせるフィリナを、ギギスは一蹴する。
彼の言う通り、家屋はお世辞にも立派とは言えない風貌をしていた。
こぢんまりとしたサイズ感は「小屋」と表現するのが適切で、しかも碌に手入れをされていないのか、外壁や屋根には汚損が目立っている。
そしてそれは内部も同様で、言外に案内されるまま中に入ったフィリナを迎えたのは、家具も装飾品も少ない、最低限の掃除だけがされた部屋だった。
しかしフィリナはやはり、丸い瞳を興味と感心でキラキラとさせながら、せわしなく周囲を見回す。
色褪せた木製の棚も、擦り切れたテーブルクロスも、花の入っていない花瓶も、彼女にとっては素敵な世界の一部だった。
あれは何、これは何と浮かぶ疑問を、無遠慮に口にするのは我慢しつつ、フィリナは大人しく玄関口に立って待つ。
ギギスは何やら、棚の中を漁っていた。
「チッ……切らしていたか……」
ぱしん、と尻尾の先が床を軽く叩く。
どうやらお目当ての品が無かったらしい。
彼が何を探し、何をしようとしていたのか、知る由も無いフィリナはゆるく首を傾げる。
手伝えることがあれば、手伝いたい――そんな気持ちと共に。
「少し待っていろ。迎えを呼ぶ」
ギギスは建付けの悪い引き出しをガタガタと押し戻すと、フィリナの方を振り返って言う。
「何のお迎えですか?」
「元の世界に帰る術を探せる場所への、だ」
その言葉を聞くや、フィリナは少し慌てて、両手を振った。
「そういうことでしたら、私には必要ありません」
「……なぜ」
短く、ギギスは問う。
想定外の返答に戸惑っているようだった。
フィリナは手を下ろし、ゆったりと体の前で組む。
それから、穏やかな声色で話した。
「私は追放の刑に処されたのです。このままあの世界から失せた方が、都合がよいでしょう」
「何をしでかした」
「何も。ただ、義妹が望んだままに、横領の罪を被りました」
「な……」
ギギスは目を見開く。
尻尾のヒレが逆立ち、カチカチと小刻みに震えていた。
明らかに動揺する彼だったが、フィリナはごく自然に、聞き取りやすい声の調子で、話を続ける。
「義妹は、私の友人のことが好きでした。私にそのつもりはありませんでしたが、彼女にとって私は恋敵だったのでしょう。それに、私はこの通り鈍くて、頭も良くないので……ひたすら、邪魔だったのだと思います」
にこ、とフィリナは微笑む。
仄かな寂しさと、悲しみが、柔らかな花に陰りを生んでいた。
「冷静だな。怒らないのか」
じとりと様子を窺うように、ギギスは彼女を見つめる。
「私の不甲斐なさが招いたことです。どうして怒りなど感じましょうか」
「……変わり者め」
ギギスの尻尾が数度波打つ。
彼は静かに息を吸って、言った。
「行く宛てが無いのなら、ここに居てもいい」
「まあ! 本当ですか!」
素性もわからない、そればかりか人間でもなさそうな者相手に、フィリナは善意だけを見ていた。
その心根は、素直というよりもはや愚直だ。
「ありがとうございます。お礼にできることなら何でもしますから、何でも言い付けてください」
「別に……」
ギギスは陽光に耐え兼ねて目を逸らすように、フィリナから視線をずらす。
けれどもそれは、不快とは程遠い仕草に違いなかった。
「これからよろしくお願いします、ギギス様」
フィリナは朗らかに笑う。
暗く不気味な異界の森で、新たな光が芽吹きつつあった。
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