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スタートヽ(*^ω^*)ノ
レトルトは、見知らぬ男に手を引かれ、
ネオンが瞬く騒がしい夜の街へと足を踏み入れた。
人の声。
車の音。
笑い声と音楽が混ざり合う喧騒の中で、
ふたりの歩幅だけが、不思議と揃っていた。
握られたその手は、驚くほど自然で、
まるで昔から知っていたかのような温度をしている。
初めて触れたはずなのに、
胸の奥が、きゅっと懐かしさを訴えた。
理由なんて分からない。
思い出せる記憶も、もちろんない。
それでも――
この手を離したくない、という感覚だけが、
確かにそこにあった。
ふたりは喧騒から離れた、静かな個室の料理屋に入った。
障子を閉めると、外の世界は遠のき、柔らかな灯りだけが残る。
程なくして、料理が次々と運ばれてくる。
湯気の立つ器、艶やかな盛り付け、ふわりと漂う香り。
――不思議だった。
さっきまで胸の奥を締めつけていた悲しみのせいで、
食欲なんてどこにもなかったはずなのに。
目の前の料理を見た瞬間、
正直な身体が、小さく音を立てた。
ぐーーー。
レトルトのお腹が鳴ったのを聞いて、
向かいに座る男が、くすりと微笑む。
からかうでもなく、驚くでもなく、
ただ、優しく。
レトルトは一瞬固まり、
それから恥ずかしそうに視線を落とした。
耳の先まで熱くなっていることに、
自分でも気づいていた。
『食べよっか』
男はそう言って、少しだけ嬉しそうに笑った。
会話は多くはなかった。
沈黙が訪れることもあったはずなのに、
不思議と気まずさはなく、
ふたりはぽつぽつと世間話を交わしながら、
運ばれてくる料理に箸を伸ばした。
味は、驚くほど優しかった。
心に沁み込むような温度で、
張りつめていたものが、少しずつほどけていく。
レトルトは、珍しく酒を口にしていた。
普段なら、ほとんど飲まない。
けれど、男のつくる空気が心地よくて、
急かされることも、煽られることもないまま、
するすると杯が進んでいった。
気づけば、頬が熱を帯び、
視界も心も、少しだけ緩んでいる。
酔うつもりなんて、なかったのに。
それなのに――
気づけば、口が勝手に動いていた。
話すつもりなんて、なかったはずのこと。
胸の奥にしまい込んでいた、
恋人に誕生日を忘れられた、今日の出来事を。
「……今日は誕生日でさ。休みも取ってたんだ」
レトルトは、コップを置いたまま、視線を落とした。
「でも、連絡も来なくて……」
言葉を選ぶみたいに、少し間を置く。
「逢いたいって……言えへんかったし。
向こうからも、何も……言われへんかった」
声は、静かだった。
責めるような響きも、怒りもない。
ただ、どうしようもない寂しさだけが、滲んでいる。
話が進むにつれて、
抑えていたはずの感情が、静かに溢れ出した。
ぽたり、と。
気づかないうちに、涙が頬を伝っていた。
慌てて拭おうとするけれど、
一度零れたものは、止まらない。
男は、何も言わなかった。
慰めの言葉も、同情も口にせず、
ただ、そこにいて、
黙って、レトルトの話を受け止めていた。
男は、何も言わずに身を乗り出し、
流れ落ちる涙を、指先でそっと拭った。
触れるか触れないか、そのぎりぎりの距離で、
涙だけをすくい取るような優しい仕草だった。
その指先の温かさに、
レトルトの胸が、不意に高鳴る。
どうして、こんなにも――
と、考える前に、男が口を開いた。
『今日は、あなたにとって大切な日だよ』
低く、柔らかな声。
男はそう言って、優しく笑い、
そのまま、レトルトの頬に手を添えた。
逃げ道を塞ぐでもなく、
触れていることを誇示するでもなく、
ただ、そこに在るように。
その視線はまっすぐで、
同情ではなく、
ひとりの人間として、レトルトを見つめていた。
忘れられたはずの誕生日が、
その一言で、静かに息を吹き返した気がした。
胸の奥で、
冷えていた何かが、じんわりと溶けていく。
胸の高鳴りを誤魔化すように、
レトルトは飲み慣れない酒を、ぐい、と煽った。
喉を通る熱が、
不安も、寂しさも、判断力も、少しずつ溶かしていく。
気づけば、世界がやわらかく滲んでいた。
ふわふわと、浮いているみたいな心地よさ。
『大丈夫?』
そう聞かれた気がしたけれど、
レトルトはただ、小さく頷いた。
男の手が、また指先を絡めてくる。
その温度に導かれるまま、
夜の街を抜け、エレベーターに乗り、
扉が閉まる音を、どこか遠くで聞いた。
そして――
気づけば、ホテルのベッドの上にいた。
柔らかなシーツ。
静かな室内。
さっきまでの喧騒が、嘘みたいに消えている。
男はすぐには触れてこなかった。
ただ、隣に腰を下ろし、
酔いで火照ったレトルトの様子を、確かめるように見つめていた。
その視線が、なぜだか怖くなくて。
むしろ、胸の奥が、じん、と温かくなる。
――今日は、誕生日。
忘れられたはずの日が、
この夜だけは、誰かの手の中にある。
レトルトは、ゆっくりと目を閉じた。
この先に何が待っているのかは、分からない。
それでも今は、
このぬくもりに身を委ねていたかった。
続く