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スタートヽ(*^ω^*)ノ
レトルトは、昔から執着というものが薄い人間だった。
部屋はいつも静かで、殺風景だった。
家具は必要最低限。
増えることも、減ることもない。
そこに「こだわり」や「思い入れ」が入り込む余地は、ほとんどなかった。
何かを欲しいと思うことも、
強く嫌悪することも、あまりない。
好きも嫌いも、曖昧なまま。
感情の起伏は小さく、
嬉しいことがあっても、声を上げて喜ぶことはなかった。
悲しい出来事に出会っても、
心が大きく揺れることはなく、
ただ静かに、時間が過ぎるのを待つ。
自分は、こういう人間なのだと、
レトルトはずっと思っていた。
何かに縛られない代わりに、
何かを強く求めることもない。
それで、困ることはなかった。
けれど、そんなレトルトにも、ひとつだけ例外があった。
理由は分からない。
いつから好きになったのかも、覚えていない。
ただ、心を動かすものが、確かに存在した。
――スターチス。
薄紫色の、小さな花。
穂のように連なって咲くその姿は、派手さもなく、
どこか控えめで、静かだった。
強く主張することはないのに、
目に入ると、なぜか視線が離れなくなる。
触れれば、かすかに紙のような質感が指に残り、
枯れても色褪せにくいその花は、
時間の流れから取り残されたみたいに、そこに在った。
他の花に、特別な感情を抱いたことはない。
けれど、スターチスだけは違った。
それを見るたび、
胸の奥が、わずかに揺れる。
それが何なのか、
どうしてなのか、
言葉にすることはできなかった。
それでも、
レトルトは知っていた。
自分の中に、
確かに「好き」と呼べるものが、
ひとつだけ、存在していることを。
派手な花束を、贈られたこともあった。
色とりどりの花。
豪華に包まれたそれは、きっと「喜ばれるもの」だったのだろう。
けれど、胸は動かなかった。
感動も、驚きも、湧き上がらない。
ありがとう、と笑って受け取って、
それで終わりだった。
そんなある日、
ふと横目に映った花屋の店先で、
レトルトは足を止めた。
飾られていたのは、スターチスだった。
薄紫の、小さな花が、
穂のように寄り添って咲いている。
ふるふる•ぽてと
60
それを見た瞬間、
胸の奥が、きゅっと跳ねた。
理由なんて、分からない。
どうして心が躍るのか、
どうして息が少しだけ弾むのか。
自分でも不思議に思いながら、
レトルトは、ただその花を見つめていた。
確かなことは、ひとつだけ。
――この花が、好きだということ。
今の恋人との関係は、
いつの間にか、すっかり冷え切っていた。
会話は減り、
触れ合いも、形だけになっていく。
それでも、離れられなかった。
ひとりになるのが、怖かった。
誰かに必要とされない時間に、耐えられなかった。
愛されたかった。
たとえ、それが本物でなくても。
だから、
心が動かない関係の中に、
レトルトは、静かに留まり続けていた。
家族以外に、愛されたという記憶はない。
そう、ずっと思っていた。
誰かに特別に想われ、
守られ、
必要とされた――
そんな確かな記憶は、どこにも残っていないはずだった。
それなのに。
胸の奥の、もっと深い場所に、
説明のつかない感覚だけが残っている。
確かに、愛された気がする。
でも、それがいつで、誰で、どんな形だったのか、
どうしても思い出せない。
まるで、
大切な場面だけを切り取られた映画のように。
感情の余韻だけが残っていて、
肝心の映像が、すべて抜け落ちている。
懐かしい温度。
名前を呼ばれた気配。
安心して、身を委ねていた感覚。
それらは確かに存在しているのに、
それが「自分の記憶」だという実感が持てなかった。
誰かの思い出を、
間違って抱え込んでいるみたいな、不思議な違和感。
レトルトは、その感覚に触れるたび、
胸の奥が、静かにざわめくのを感じていた。
それが何なのか。
なぜ自分の中に残っているのか。
答えは、まだ、見つからない。
けれど――
その正体不明の“愛の痕跡”は、
確かに、レトルトの心の中で、息をしていた。
スターチスの花を見るたびに湧き上がる気持ちに名前を付けることができなかった。
続く