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対魔導書の最前線、焚書機関の長たる男、ケイヴェルノは倉庫の入り口で立ちどまる。ここは救済機構のガレイン半島における最大の拠点、ロガットの街を囲む城塞の一角、共同宣教部が借用するまでは礼拝室として使われていたという広間の前だ。たまたま通りかかったその倉庫の奥から愛しい孫娘の会話が聞こえて来たのだった。アンソルーペとアンソルーペが言葉を交わしている。広々として、かつ天井の高い倉庫での会話はよく響いて筒抜けだった。わざとでなければいささか間抜けに過ぎるが、そんなことは露ほども考えず、ケイヴェルノは好奇心と不安の中間の辺りで倉庫を覗き込む。
「それ、それにしても、ええ絵を嗜むなんて、いが、意外ですね」と鉄仮面をかぶったアンソルーペが呟いた。
「別に嗜まねえよ。こんな悪趣味な絵、なおさらだ」とアンソルーペが答える。
その絵はケイヴェルノも以前に目にしていた。ガレイン半島の六大霊山の一つ、その最高峰、隷の山。数多の怒れる巨人を率いる女王が討たれた決戦の地であり、神々と巨人たちとの戦いを終わらせた神々の英雄、ガユロ信仰の中心地でもある。霞がかった白い空に白い山相が描かれた真っ白な絵だ。いずれ来たる救済の乙女を信仰するケイヴェルノは特別その絵に惹かれることはなかったが、そこに描かれた神聖さは感じ取れ、悪趣味とは思わなかった。
「わた、私も絵のことはよく分かりませんが、なつ、懐かしいですね」アンソルーペは絵の山々を繁々と見つめながら言った。
「こんなもの、こうだ!」
アンソルーペは拳を振り上げて、絵を殴りつける。が、ぎりぎりのところで自ら押し留める。
「勝手な、こと、しな、しないでください!」
そうしてアンソルーペは自らと口喧嘩をし始める。
「うるせえ! オレが何しようがオレの勝手だ!」
「わた、私の体で勝手はゆゆ許しません!」
ケイヴェルノは困惑していたが、ともかく孫娘が喧嘩をしているのだから仲裁すべきだろう、と足を踏み出しかけたその時、「総長、こんな所にいらっしゃったのですか」と呼びかけられる。
見れば、第四局の次席焚書官、アンソルーペの副官ドロラがやって来た。
「聖女様がお呼びなのに、こんな所で一体何を?」
「ああ、いや、まさに向かっていたところだ」
ドロラも扉の前まで来て中を覗き込む。
「首席もこんな所に」と言って、ちらりとケイヴェルノに目を向ける。「孫娘とはいえ、殿方が婦人を覗き見るのは褒められたものではないかと」
ケイヴェルノは厳めしい表情を守りながらも深く皴の刻まれた頬を仄かに赤く染める。孫娘と歳の近い女性にこのようなことで窘められ、恥じ入った。
アンソルーペは既に喧嘩をやめていて、羊の鉄仮面越しにケイヴェルノたちを見ている。ケイヴェルノは言葉にできない不安を覚え、動揺する。まるで嵐や雷、大河のような大いなる自然の業を目にし、己が矮小な存在であると思い知らされた時のような気分だ。
「分かっている。ところで協同作戦とやらはどうなったのだ?」
「確かなことは言えません。作戦の性質上、多くを教えてもらえないままに行動しています。首席も随分お疲れのようですし」
ドロラは倉庫の奥に目をやったが、ケイヴェルノはそうしなかった。
「そうか。しっかりと休むことだ。アンちゃんにもそう言っておいてくれ」
「ええ。そうですか?」ドロラの視線をケイヴェルノは横目に感じた。「はい。分かりました。それより、聖女様です。お早く」
ケイヴェルノは以前からかの魔導書、通称『魔性の封印札』について思うところがあった。異なる人格を身の内に宿す孫娘との共通点を疑わない訳にはいかない。あるいは身の外に宿しているのではないか、と。特に鉄仮面は人格交代のきっかけになっているように思っていた。実際には二つの人格が会話することもできるのであり、交代していたわけではなかったのだが。
扉を叩いて招きに応じ、名を名乗って部屋に入る。ケイヴェルノは悲鳴をあげそうになり、堪える。目の前にはあられもない姿の二人の女性、聖女アルメノンと恩寵審査会総長モディーハンナの姿があった。二人は背の高い寝台にうつ伏せになっており、そのそばには使い魔解す者が侍っている。妙齢ながら少女のような外見のアルメノン、以前に見かけた時に比べ同一人物とは思えない窶れぶりのモディーハンナ、そしてマサカヴリはまるで人の形の蟹だ。ほとんどが刺々しい外骨格に覆われており、しかし両腕だけは古今に名高い塑像にも劣らない美しい婦人のそれだ。
ケイヴェルノもその札の詳細を心得ていたが、その業を直に見るのは初めてだった。二人の女の背中から腰、尻、太腿、脹脛を解す者が解すと嬌声の如きはしたない声が漏れる。ケイヴェルノは居たたまれなくなったが、聖女の呼び出しを無視して出て行くわけにもいかない。
「ケイヴェルノ? そこにいるのか?」と顔を伏せたままアルメノンが言った。
「ええ、馳せ参じて御座います。どのようなご用命でございましょうか?」ケイヴェルノもまた目だけ伏せて答える。
「うーん、と。えーっと……」
解す者の十本の指はそれぞれ別の生き物であるかのように艶めかしく動き回っている。その手が、指が、力を込めて撫でるたびに声が漏れ出ていた。
「げ、猊下?」とケイヴェルノは出て行きたい衝動を抑えて、促す。
「ああ、悪いな」そう言って聖女は特大な欠伸をする。「あの、あれは何なんだ?」
「あれ、と、おっしゃいますと?」
「君の孫娘だ。もう一つ人格があるんだよな?」
「ええ、そのような振る舞いをしています。ただ、焚書官としての責務は問題なく果たしており――」
「そんなことは別にいいんだ」とアルメノンに遮られる。「どうやら原因は分かっていないようだな。なら知っていることを話してくれ。こちらで考える」
なぜ今更そのようなことを知りたがるのだ、とケイヴェルノは疑念を浮かべる。救済機構に帰依する時点でアンソルーペの人格については報告しているし、一時期は護女でもあったのだ、それも聖女が護女であった時と同時期に。しかしそのような疑念があったからと言って、聖女の求めに応じないわけにはいかない。
「……私の娘はここガレイン半島に嫁ぎ、そこでアンソルーペが生まれました。しかし孫娘が生まれて間もなく、その街はライゼンの侵略を受け、植民市となりました。シグニカにいた私に娘たちの安否は知る由もありませんでしたが、侵略の報を受けた数週間後、孫娘を連れた娘が命からがら逃げ延びて参りました。残念ながらその数日後に娘は亡くなりましたが」
「命を失うような怪我を負って亡命できたのか。奇跡的だな」
「ええ、孫娘、アンソルーペの方も一度は命を失いかけ、息を吹き返したとか。つくづく幸運に恵まれた子です」
モディーハンナの快楽に染まった呻き声だけが聞こえる。
「……猊下?」
「ああ、すまん。えっと、なんだったか」
眠りを誘う強力な快感にアルメノンは抗っているようだった。
「娘と孫娘が奇跡的にシグニカへと亡命できた、という話です」
「……そうだ。亡命だ。陸路、ではないよな。既にクヴラフワは閉ざされていたし」
「ええ、ハイヴァ海峡を抜けて海路でシグニカまで帰ってきたのです」
魔導書を利用したライゼン大王国の侵略によってガレイン半島西岸はほぼ併呑されてしまった。当時すでに焚書官だったケイヴェルノの仕事熱は益々高まったのだった。魔導書根滅は今なお成し遂げられていないが、その熱意には少しの陰りもない。孫娘の心を蝕む第二の人格が魔導書に関連しているかもしれないと思えば、老いた魂は滾るばかりだ。
「なるほど。分かった。もう下がっていい」
「猊下。一つお願い申し上げたいことが」
「どうぞ」
「魔導書を、その解す者をお借りしたく御座います」
「へえ、珍しいですね」とモディーハンナが口を挟む。「魔導書に頼るんですか? 誰より魔導書嫌いの貴方が」
ケイヴェルノは沸々と存在感を示す苛立ちに蓋をして答える。「ああ、連日の任務で焚書官たちが疲労しているのでな。これも魔導書根滅のためだ」
「別に構わない。好きに使え」と聖女は眠そうに答えた。
狙い通り、上手くいった。
アンソルーペは寝台の上で、やはりあられもない姿で、されるがままに肉体を解きほぐされており、深く寝入っていた。
ケイヴェルノが部屋に入ると解す者が責めるような視線を向けてくるが、命令された通り、黙ってアンソルーペの肉体を癒し続けている。
寝台の横の机に畳んで置かれた衣服とその上に据えられた鉄仮面の元へやってくると、躊躇うことなく鉄仮面の中を覗き込む。複雑な形だ。しっかりと手を突っ込み、隅々まで探る。しかしどこにも封印などなかった。これが良いことなのか、悪いことなのか、分からない。少なくとも封印だったならば長年悩まされてきた問題は解決したのだが、引き続き愛する孫娘を救うための手立てを考える日々は続くようだ。
しかしケイヴェルノはふと気づく。鉄仮面とは限らない。その下にある衣服、焚書官の黒衣に目をやる。その衣を検める自身を想像し、そのあまりの醜悪さに息を呑む。しかし、疑念は払拭せねばならない。
黒衣に手を伸ばし、しかし止めにする。唯一の肉親を信頼できなくなることほど恐ろしいことはないだろう。
その時、扉が開き、そこにはアンソルーペの副官ドロラの姿があった。
「総長。いくら何でも……」とドロラが吐き捨てるように呟く。
ケイヴェルノは全てを、懇願するように白状した。副官ドロラは明らかに完全には信じていないようだったが、少なくとも言葉の上では納得してくれた。そして憐れな老人の代わりにアンソルーペの黒衣を検めてくれた。封印は見つからなかった。