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「今日は仕事が立て込んでいて、帰りは夜遅くなる。せっかくの休日なんだ、君もどこか好きなところへ出かけて、ゆっくり羽根を伸ばしておいで」
今朝、夫のカシウスは、非の打ち所のない爽やかな笑顔でそう言った。
今日は彼の誕生日。
本来なら妻である私が一日中寄り添い、祝うべき日だ。
けれど、若くして公務に邁進する彼のこと、誕生日当日であっても国のために奔走しているのだろう。
「そう……? それじゃあ、お言葉に甘えて少しお茶でもしてこようかしら」
私は少し申し訳ない気持ちになりながら、愛する夫を玄関で見送った。
彼の背中が見えなくなるまで手を振り、私は独りごちる。
けれど、ただ外で茶をしばいて帰るなんて、妻としてあまりに味気ない。
カシウスが深夜、疲れ果てて帰宅したとき。
もしもテーブルの上に、彼の大好物である特製ケーキが用意されていたら────。
きっと、あの美しい顔を綻ばせて喜んでくれるはず。
そう思い立った私は、居ても立ってもいられず、急いで街へ材料の買い出しに向かった。
活気あふれる市場を回り、妥協のない品を選び抜く。
農家直送の厳選された卵に、きめ細やかで上質な小麦粉。
最高級のバニラビーンズ。
カシウスの驚く顔
そして
「美味しいよ、ロゼッタ」と私を抱き寄せる腕の温もりを想像すると
重い荷物など苦にならず、自然と足取りも軽くなった。
「ふふ、きっと驚くわね。最高の誕生日サプライズにしちゃうんだから」
両手に抱えた紙袋からは、甘いバニラの香りが微かに漂う。
私は高鳴る胸を抑えながら、意気揚々と屋敷の重厚な門をくぐった。
……けれど、玄関の扉を開けた瞬間
私の高揚感は冷や水を浴びせられたように、指先から凍りついていった。
静まり返ったはずの玄関ホールに、無造作に脱ぎ捨てられた二足の靴。
一足は見紛うことなき、今朝仕事へ向かったはずの夫、カシウスのもの。
そして、その隣に並ぶもう一足は───
「……女物の、パンプス?」
華美な刺繍が施された、見覚えのある靴。
それは、私の唯一無二の親友であるマリアが、先日の茶会でも「お気に入りなの」と自慢げに履いていたものに酷似していた。
嫌な予感が、ぬるりと湿った冷たい蛇のように、私の背中を這い上がってくる。
「カシウス……? 帰っているの?」
震える声を絞り出したが、返事はない。
代わりに、奥へ進むほどに視界に入ってくる異物の数々に、肺の空気が凍りついた。
廊下の絨毯の上には、カシウスの仕立ての良いジャケットが。
そしてその先には、私のものではない
扇情的な薄桃色の女物の下着が、毒々しい花びらのように無造作に放り出されている。
「……なにこれ。私のじゃない。カシウスのものじゃないし……まさか、そんな、嘘よ」
心臓の鼓動が、耳元で鐘のようにうるさく鳴り響く。
指先の感覚が消え、視界がちかちかと点滅した。
その直後だった。
「……っ、あぁ…ッ♡カシウス……あなたの、すごいわ、もっと……きて…っ!」
「…っ!マリア、君はなんて最高なんだ…っ、うちの冴えない妻とは大違いだ…っ」
重い扉の向こう、私たちの愛の巣であるはずの寝室から漏れ聞こえてきたのは
甘ったるく、内臓を素手で掻き回されるような吐き気を催す男女の睦み言。
結合部を激しく打ちつけ合っているのか、 パチン、パチンと鳴る淫靡な水音
私は反射的に口を突き上げた悲鳴を、両手で必死に押さえつけた。
親友と、夫。
世界で一番信じていた二人による、これ以上ないほど残酷で卑劣な裏切り。
私はガタガタと震える手で、寝室の扉をわずかに押し開けた。
隙間から飛び込んできたのは、私が彼のために選び、共に眠ってきたベッドの上で、獣のように裸で抱き合う二人の醜悪な姿。
彼らは互いの肌を貪る行為に夢中で、扉の向こうで崩れ落ちそうになっている私の存在になど、微塵も気づいていない。
あまりの光景に、悲しみも怒りも通り越して、頭の中が真っ白な灰で埋め尽くされていく。
けれど、その空虚な真っ白な空間に、ふと、鋭く冷徹な一筋の光が差し込んだ。
(……ああ、そう。そうなのね。私に羽を伸ばしておいでなんて言ってたのは、ここでこれを楽しむためだったのね)
いい度胸じゃない。
不思議と、涙は一滴も出なかった。
代わりに、私の心の中で守ってきた「何か」が、修復不可能な音を立てて千切れた。
私は殺意にも似た静寂を纏い、音を立てないよう静かに扉を閉めた。
そして、廊下に無様に散乱した二人の衣服を、一つ残らず、機械的な動作で拾い集めた。
マリアのけばけばしいドレス、絹のように滑らかで薄いスリップ。
そして、カシウスの脱ぎ捨てられたシャツにパンツ。
それらを、さっきまでケーキの材料を入れていた紙袋に乱暴に詰め込むと
私は一度も振り返ることなく、忌々しい屋敷を後にした。
向かう先は、ここから馬車で十五分。
親友マリアの夫であり、この街で最も高潔と名高い───ジェイド・アシュフォード様が待つ、アシュフォード侯爵邸だ。
「マリア、あなたの『落とし物』……今すぐ、最悪の形で届けてあげるわ」
私は紙袋の取っ手を指が白くなるほど強く握りしめ
鏡で見たこともないほど冷え切った笑みを、その唇に浮かべた。