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岩崎は五杯目の汁粉を食べ終わると両手を合わせ、ごちそうさまでしたと呟いた。
そして、ポケットからハンカチを取り出し口元を丁寧に拭うと、月子をじっと見る。
「え?あ、あ、は、はい」
恐らく、口髭は大丈夫かという意味合いなのだろうと月子は思うが、岩崎の言わんとする事に自信が無く、しどろもどろになっていると、うん、と岩崎は頷く。
やはり、口髭に汁粉がついてないかと問いたかったようで、岩崎は一人納得し、ポケットへハンカチを戻した。
月子は慌てる。
岩崎の食べっぷりに当てられ、自分の汁粉にほとんど手をつけていなかったからだ。
「ああ、ゆっくり食べなさい。別に焦らなくてもかまわんよ」
岩崎は、ちょっと食べすぎたから、もう少し座っていたいと言っている。
「……で、このあとだが、買い物をして帰ろうと思う。月子はどう思う?」
食材を買った方がよいのではないかと、岩崎は、汁粉を五杯食べた後も、食べることを語っている。
月子は、まだ食べ物の話かと驚くが、言われてみれば、食事の用意が待っているのだと気が付いた。
執事の吉田が、米、調味料、乾物など、調理に必要な物と日持ちしそうな物を揃えてくれていたはずだが、食材は多い方が良い。
特に、岩崎の食べっぷりを見てしまった後では、しっかり買い込んでおくべきだと月子は思う。
それに、まだ月子は、神田界隈に慣れていない。岩崎は明日からは帰りが遅くなる。
店がどこにあるか覚える事も兼ねて、食材の買い出しに行くべきなのだろう。
「あっ、はい。そうですね。ぜひ……」
言いながら、月子は椀を置くと手を合わせた。
もういいのか?と言う岩崎に、月子はコクンと頷く。
「お勘定!」
相変わらずの岩崎の大声に、周りの客は、クスクス笑い、女給も、ほほを緩め勘定にやって来た。
こうして、二人は甘味屋を出ると、食材の買い出しに向かったのだった。
「取りあえず、青物、野菜だな。この大通りを下った所に、青果市場があるのだが、小売りも確かにしてくれる。だが、毎日の食事の支度には向いてないだろう?」
岩崎が、月子へ確認した。
確かに、卸問屋である市場で物を買うのは敷居が高く、そして、やはり、不便だと月子も思った。
「できましたら、青物を扱うお店に……」
そこまで月子が言うと、岩崎は、少し考える素振りを見せて、立ち止まる。
「……やはり、歩かなければならない……で、だ、やはり、やはり、月子……ここは……」
「ここは?」
いい淀む岩崎に月子は、続きを問いかけた。
「こ、こ、ここは……こ、こ、こい……こい……」
「こい……もしかして、鯉ですか?」
岩崎は、今晩の食事、夕食に鯉を食べたいのかもしれない。体も大きい。野菜では、物足りないのだろう。
鯉料理といえば、鯉の洗いが一般的だ。
鯉をさばいて、温水で洗い、冷水でしめる刺身だが、そのさばくのは、生きた鯉と相場が決まっている。
魚をさばくのは、月子もできるが、生きた鯉をとなると、初めての作業だけに、自信がなかった。
「……旦那様。それは、お魚屋さんにお願いしたほうが……」
というよりも、鯉など簡単に手に入るのだろうか?
できるだけ、岩崎の希望を叶えたい月子ではあるが、良く良く考えれば、鯉の洗いなど、一般的な夕食の献立ではない。
魚屋に注文しても、鯉を取り寄せる事になるだろうから、今日の夕食という話にはならないだろう。
「……魚屋?そ、そうだな、魚屋も、行った方が良いのだろうが、その道すがら……」
岩崎は、月子の言うことが掴めないと、オロオロしつつも、
「だから!つまり!腕を組むのはどうだろうか!!そ、そ、その、こ、恋仲になれば、腕を組んでも不自然ではないはずだっ!月子!恋仲にならないかっ!!」
通行人が、ぎょっとして、振り返るほどの大声をあげてくれた。
「こ、鯉が、ど、どうして?!」
突然の事に、月子も、すっとんきょうな事を言ってしまう。
岩崎は言い切ったとばかりに、ソッポを向いて、月子とは目を合わせようとしない。
岩崎の態度は、照れ隠しなのだと、月子にも分かるが、何も、街中《まちなか》で、他人の注目を浴びるほど大きな声をださなくても……と、困惑しつつも、月子は頬を染め、つき出された岩崎の腕に黙って手を添えていた。