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ruruha
瀬名 紫陽花
ぬいぬい
第5話 見抜かれた役者
その連絡は、開店前の値札差し替えの最中に来た。
二階の通路はまだ半分だけ眠っていて、棚の奥には昨夜の湿り気が薄く残っていた。照明の下で値札の角だけが先に目を覚まし、細い反射を返している。イオルは脚立の二段目に立ち、季節品の端に新しい札を差し込んでいた。
胸ポケットの端末が短く震える。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
急ぎの連絡ではない振動の仕方だった。
それでも指先が少しだけ止まる。
札の角が差し込み口で引っかかる。
「落ちるよ」
下からフミが言った。
メダカ頭のきりっとした輪郭が、脚立の陰から見上げている。今日は帽子をかぶらず、髪を後ろでまとめていた。襟の詰まった制服の首元まで、いつも通りぴたりと整っている。
「落ちません」
「手、止まってる」
「通知です」
「見れば」
フミはそう言いながら、棚の下段のハンガーを三本だけ揃えた。
イオルは値札を差し込み終え、脚立を降りた。
端末を開く。
制作会社からだった。
昨日はありがとうございました。
追加で短い確認をしたいです。
案内や再現ではなく、読み合わせ寄りになります。
本日夕方、可能ですか。
読み合わせ寄り。
その一文だけが、ほかより少し濃く見えた。
イオルは画面を見たまま立ち尽くす。
フミが横からのぞき込むことはしない。ただ、値札束を持った手のまま、イオルの顔だけを見ていた。
「悪い連絡?」
「わからないです」
「いい連絡でもない?」
「わからないです」
「便利な返事」
イオルは息をついた。
「再現と案内じゃなくて、読み合わせ寄りだそうです」
「読み合わせ」
「はい」
「それ、ちょっと別じゃない」
「別みたいです」
「ふうん」
フミは束の一番上の札を一枚抜いた。
「行くの」
「たぶん」
「またその返事」
「でも、たぶんです」
「行く顔してる」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥に小さな熱が灯った。
熱はもう珍しくない。
珍しくないのに、呼ばれるたび少しだけ形が変わる。
前へ出る時の熱。
人を止める時の熱。
そして今は、知らない扉の前に立たされた時の、薄く乾いた熱。
「店長に言ってきます」
「言ってきな」
フミはそれだけ言って、値札束を棚へ戻した。
「帰ってきたら、読み合わせが何か教えて」
「自分も知りたいです」
「じゃあ知ってきて」
店長は事務所の奥で納品書を見ていた。
イノシシ頭の大きな輪郭が、端末の光を受けて少しだけ丸く見える。背は高く、首は太い。作業着の袖を無造作に折っていても、立っているだけで空気を押す感じがある。
イオルが事情を話すと、店長は紙の端を指で叩いた。
「読み合わせね」
「はい」
「それ、案内枠から半歩ずれてるな」
「そうみたいです」
「戻りは?」
「閉店前には」
「じゃあ行ってこい」
「いいんですか」
「売場の人間が外で何見られるか、こっちも知りたい」
店長は笑った。
「おまえ、ただの紹介役だけじゃ済まない顔になってきたしな」
「顔は変わってないです」
「変わってなくても、出方が変わる」
そう言って、もう次の書類に目を落とした。
その言い方が、妙に耳に残る。
顔は変わっていない。
でも、出方が変わる。
自分でも少しはわかっている。
同じ制服を着て、同じ棚の前に立っていても、前みたいに完全には沈まなくなった。
客に「どうぞ」と言う時、視線が一拍だけ残る。
通路の端で説明すると、聞いていなかった人まで顔を上げる。
喉のせいなのか、それだけではないのか。
まだ自分の中では、名前がついていない。
昼前、ミナセが三階から降りてきた。
ウーパールーパー頭の丸い輪郭が、階段の手すり越しに先に見える。今日は薄い茶色のインナーに制服を重ねていて、頬のあたりがやわらかく見えた。外鰓の先には少しだけ艶がある。
「また?」
「またです」
「今度は何」
「読み合わせ寄り」
「寄りって、何」
「自分も知らないです」
「知らないのに行くんだ」
「そうなります」
「いいね」
ミナセは明るく笑った。
「知らない方に呼ばれる時、だいたい何かあるんだよ」
「困る言い方ですね」
「困る方に動いてる顔、いま似合うから」
似合う。
その言葉が妙に落ち着かなかった。
売場に似合うと言われるのとは違う。
困る方が似合う。
そんなこと、少し前まで言われたこともない。
午後、早めに退勤の処理をして、イオルは制服を脱いだ。
従業員通路の狭い鏡の前に立つ。
灰色の細い上着。
中はやわらかな緑のシャツ。
首元は詰めすぎず、開けすぎず。
鏡の中の自分は、やっぱり冴えない。
大きな目は眠そうに見えやすく、口元は何も考えていなくてもやわらかい形をしている。外鰓の輪郭も、どこか人を警戒させない。押しの強い顔ではない。
それでも、ふとした瞬間だけ、別の線が混じる。
画面の前。
人の視線が集まった時。
短い台詞を口にした時。
自分ではない誰かの枠へ、半歩だけ入るみたいな感じ。
それが何なのか、まだわからない。
会場は前よりも小さな部屋だった。
生活系の簡易スタジオではなく、制作会社の中の奥まった一室。廊下の照明は控えめで、壁には番組名よりも企画名の札が多い。受付で名を告げると、今度は待機室ではなく、そのまま細い通路の先へ通された。
扉の前で、先にひとり待っている者がいた。
ダックスフンド頭の若い男だった。
足は短いが、立ち姿の重心が低くて安定している。淡い茶色のジャケットに、首元の開いたシャツ。髪は軽く流し、目元には緊張がうっすら乗っている。
イオルが来ると、男は小さく会釈した。
「こんにちは」
「こんにちは」
「追加確認ですか」
「たぶん」
「自分もです」
男は少しだけ笑う。
「たぶん、便利ですね」
「便利です」
「でも、便利じゃない時に使う言葉ですよね」
「そうかもしれません」
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
男は自分の番号札を見てから言った。
「自分、再現枠で来たんですけど、急に読み合わせって言われて」
「同じです」
「変ですよね」
「変です」
「変な時って、だいたい向こうが何か見つけた時らしいですよ」
らしい、という曖昧さが救いみたいに聞こえた。
イオルは壁にもたれず、その場で立ったまま端末を見ないでいた。見れば、机の上の名刺や連絡票や録画の一覧まで思い出して落ち着かなくなる。
扉が開く。
スタッフではなく、先日見た年配のメダカ頭の男が顔を出した。
薄い色の襟付きの服。
短く整えた髪。
座っていても強かった視線が、立っていても変わらない。
「イオルさん、先に」
ダックスフンド頭の男が少しだけ目を見開く。
イオルはその横を通った。
通された部屋は、驚くほど何もなかった。
机。
椅子。
壁際の小型カメラ。
それだけ。
生活用品も棚もない。
ただ読むためだけの部屋だった。
中には三人。
年配のメダカ頭。
ディレクター。
そして、初めて見る女がひとり。
人型に鳥の頭。嘴は細く長くはなく、短めで整っている。羽毛は灰寄りの落ち着いた色味で、目元の印象だけが鋭い。髪の代わりに頭の輪郭に沿うような細かな羽の流れがあり、首元まできちんとした濃い茶色の服を着ていた。腕を組まず、机に片手を置いたままこちらを見る。
その視線が、最初から演じる側のものを見ている感じだった。
「こんにちは」
女が言った。
声は低く、速くない。
「今日は短い会話を読んでもらいます」
「はい」
「上手くやろうとしなくていいです」
「はい」
「役を作ろうともしなくていい」
「はい」
「でも、読んでる時に何が起きるかを見たいです」
何が起きるか。
その言い方に、イオルの喉の奥が少しだけ熱を持つ。
「相手役は向こうで振ります」
年配のメダカ頭が言った。
「こちらを見なくていい」
「はい」
「読む相手は、机の上の紙だと思って」
紙。
机。
壁。
それだけの部屋。
イオルは椅子へ座る。
紙を受け取る。
短いやり取りだった。
駅前で待ち合わせをしていた二人が、片方の遅刻で少し気まずくなるだけの場面。何でもない。事件も秘密もない。なのに、妙に間の多い台詞だった。
「では、始めて」
相手役はディレクターが読むらしい。
軽い声で最初の台詞が出る。
イオルは紙の文字を目で追い、自分の行を読む。
「来ると思わなかった」
出した瞬間、自分の中で何かが少しずれた。
喉の熱とは違う。
もっと薄い。
皮膚の裏で空気の向きが変わるみたいな感じ。
ディレクターが次を読む。
イオルが返す。
「べつに、帰ってもよかったけど」
その一言で、部屋の奥行きが変わった気がした。
ただ文字を読んだだけのはずなのに、机の向こうに誰かが立っている感じがする。会ったことのない相手。少し遅れて、少し気まずく、何かを言いそびれている誰か。
イオルは目を紙に落としたまま、その相手の位置がわかった。
次の台詞。
「待つの、嫌いじゃないから」
言ってから、自分で少し驚く。
その言葉は、自分が普段使う形ではない。
なのに、変ではない。
年配のメダカ頭の指先が止まる。
ディレクターの読みが、わずかに遅れる。
鳥頭の女だけが、動かなかった。
最後まで読む。
短い場面はあっけなく終わる。
部屋が静かになる。
さっきまで何もなかった机と壁の部屋に、誰かがいた感じだけが残っている。
イオルは紙から目を上げた。
鳥頭の女が最初に言った。
「今、どこにいました」
「え」
「この部屋じゃないでしょう」
「……」
「どこで喋ってました」
イオルは答えられなかった。
どこ。
たしかに、ここではなかった。
駅前でもない。
自分の部屋でもない。
でも、机の向こうに、少し遅れてきた誰かがいた。
その誰かへ向かって言った。
ただそれだけのはずなのに、自分の声の重さも、座り方も、呼吸の置き方も、いつもと違っていた。
「わからないです」
「でしょうね」
鳥頭の女はそう言って、紙をもう一枚差し出した。
「もうひとつ」
「はい」
「今度は立って」
立つ。
紙を受け取る。
今度は、家の中の場面だった。
帰宅が遅くなった相手に、先に帰っていた誰かが小さく拗ねるだけの会話。これも短い。
年配のメダカ頭が相手役を読む。
イオルは自分の最初の台詞を見る。
「遅かったね」
読み上げた瞬間、また、ずれた。
喉の熱はある。
でも、その熱の上に、別の薄い膜が乗る。
普段のイオルなら、こんな言い方はしない。もっと曖昧に笑うか、何でもないふうに流す。でも、今の一言は、待っていた時間ごと相手へ渡る。
次。
「先に食べた」
「ほんとは一緒がよかったけど」
「別に怒ってないよ」
三つ目を言った時、イオルはもう自分の顔をほとんど意識していなかった。
いるのは、部屋の中ではない。
少し湿った廊下。
帰宅した人の気配。
机に置かれたままの食器。
そういう、どこかの部屋だ。
終わる。
鳥頭の女が椅子の背にもたれる。
「本人、何もしてない顔してる」
「してないと思います」
年配のメダカ頭が言う。
「喉だけじゃないですね」
ディレクターが続ける。
「そうですね」
鳥頭の女がイオルを見る。
「あなた、読むと勝手に誰かになりますね」
「誰か」
「似せるとかじゃなくて」
「……」
「そこにいない人間の呼吸に、先に体が寄る」
イオルは紙を持つ指先に汗がにじむのを感じた。
誰かになる。
そんな大げさな言い方をされるようなことはしていないはずだった。台詞を読んだだけだ。上手く言えた気もしない。むしろ、間違えないようにしただけだ。
でも、さっき自分がどこにいたかと問われた時、答えられなかったのは本当だ。
この部屋ではなかった。
紙の上のやり取りを、ただ読むだけでもなかった。
「もう一回だけ」
鳥頭の女は三枚目の紙を出した。
「今度は、読まずに」
イオルが顔を上げる。
「短い状況だけ言うので、その場で返して」
「その場で」
「難しいことはないです」
「はい」
「あなたは、ずっと会ってなかった相手に、偶然、店の前で会います」
「はい」
「相手は、昔は近かったけど、今は少し遠い」
「はい」
「相手役はわたしがやります」
鳥頭の女が立ち上がる。
立つと、輪郭がさらに鋭くなった。首元から背中までの線が細く、姿勢が崩れない。感情を押しつける感じはないのに、黙って立っているだけで場面の外枠ができる。
イオルは息をひとつ置く。
どうすればいいかわからない。
紙がない。
目を落とす場所もない。
鳥頭の女が、ほんの少しだけ表情をゆるめた。
「ひさしぶり」
その一言が来た瞬間、また、ずれた。
今度は紙もないのに、さらに速い。
店の前。
偶然。
昔は近かった。
今は遠い。
その情報だけで、体の重さが変わる。
イオルの口が先に開く。
「ほんとだ」
自分でも驚くほど自然に出た。
「まだこの辺、来るんだ」
声の高さも、息の混ざり方も、普段と少し違う。
鳥頭の女の目が細くなる。
「来るよ。そっちは」
「たまに」
イオルはそこで、自分の指先が少しだけ宙を探るように動いたのを感じた。
待っていたわけじゃない。
でも、会ってしまったことを、少しだけ嬉しいと思っている。
そういう誰かの体だ。
「変わってないね」
相手役が言う。
その言葉に対して、イオルは一拍だけ黙った。
黙った時間の中に、自分のものではないためらいが入る。
「そっちの方が、変わった」
その返しで、年配のメダカ頭がはっきりと目を上げた。
ディレクターが笑いを消して真顔になる。
鳥頭の女だけが、さらに一歩だけイオルを見る。
場面は数往復で終わった。
終わった瞬間、イオルの膝が少しだけ遅れて重くなる。
部屋に戻る。
机。
壁。
小型カメラ。
さっきまで、別の場所にいた感覚が消える。
「いまの、何ですか」
思わず口にしたのは、自分だった。
鳥頭の女が短く息をついた。
「こっちが聞きたいくらい」
「自分、何も」
「そう。何もしてない」
「はい」
「なのに、勝手に役の体に寄る」
年配のメダカ頭が言う。
「喉で引く異変は、前から見えてました」
「はい」
「でも、それだけなら案内と再現で済む」
「……」
「今のは、読んでる最中に本人が少し消える」
本人が少し消える。
その言い方に、イオルの背筋が小さく冷えた。
消える。
前にも別の意味で言われた言葉だった。
うまく見せようとすると消える。
今度は違う。
演じている間だけ、本人が少し消える。
「怖がらなくていいです」
鳥頭の女が言った。
「怖い顔してる」
「……」
「よくあることではないけど、変なことでもない」
「変じゃないんですか」
「珍しい、とは思う」
「珍しい」
「でも、珍しいだけ」
彼女は机の端へ腰を預けた。
「俳優寄りの異変、たぶんあります」
「俳優」
「本人は無自覚」
「そんなの、あるんですか」
「ある」
年配のメダカ頭が静かにうなずく。
「最初に喉が見つかる人は多いです」
「喉が先」
「人を止める力が前に出やすいから」
「でも、その先に役へ寄るものが混ざると、ちょっと話が変わる」
ディレクターが腕を組みながら言う。
「生活情報の短い枠で拾うには、もったいないかもね」
「もったいない」
「便利に使おうと思えば使えるけど」
「でも、違うところがある」
鳥頭の女はイオルを見たままだ。
「あなた、自分で喋ってる時より、誰かの間に入った時のほうが、体が落ち着くでしょう」
「……わからないです」
「いま、落ち着いてた」
「そうでしたか」
「少なくとも、名乗ってる時よりずっと」
それは、否定できなかった。
名乗る時、自分はいつも少し固い。
喉が熱くなり、視線が寄るのを感じて、余計にぎこちなくなる。
でも、さっき短い場面の中に入った時は違った。
誰かの待っていた時間。
誰かの少し遅れた帰宅。
誰かの、偶然会ってしまった気まずさ。
そういうものに体が先に寄って、自分の顔や立ち方を忘れていた。
その間だけ、自分が冴えないかどうかも、同種の中で埋もれるかどうかも、考えずに済んだ。
そこに気づいた瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。
「もう一回だけやりましょうか」
鳥頭の女が言った。
「今度は確認」
「はい」
「自分で意識すると、どうなるか」
四枚目の紙。
短い。
家族にコップを取ってと言うだけの場面。
あまりにも何でもなくて、逆に難しい。
イオルは紙を見て、さっき言われたことを思い出してしまう。
俳優寄りの異変。
本人が少し消える。
役の体に寄る。
意識するなと言われても、もう意識している。
「どうぞ」
相手役の声。
イオルは台詞を言う。
「そこ、取って」
だめだ。
すぐわかった。
声は届く。
喉の熱もある。
でも、さっきのように部屋がずれない。
自分が自分のまま、うまく見せようとしている。
「もう一回」
鳥頭の女。
イオルは息を吸う。
「そこ、取って」
また違う。
今度は、わずかに寄った。
けれど、薄い。
年配のメダカ頭が、紙の端を指で叩く。
「見てる」
「はい」
「自分を見てる」
「……」
「そこが入ると弱い」
鳥頭の女が、少しだけやわらかい声で言った。
「演じる時だけ、自分から降りられるタイプかもしれないですね」
「降りる」
「自分を消すんじゃなくて」
「はい」
「自分の上に、別の人間の体をそっと乗せる感じ」
イオルはその言い方を頭の中で繰り返した。
別の人間の体を乗せる。
さっきまで感じていたことに、いちばん近いかもしれない。
待っていた相手。
食器を先に片づけた誰か。
昔は近かった相手に偶然会った誰か。
その体にいる間だけ、自分の冴えなさが消えるのではない。
気にする暇がなくなる。
自分ではないからだ。
「今日はこれでいいです」
鳥頭の女が紙をまとめる。
「結果を急いで決めるつもりはないけど」
「はい」
「俳優の確認、別で入ると思います」
「俳優」
「嫌ですか」
「嫌というより」
「怖い?」
「少し」
「普通です」
彼女は初めて、ほんの少しだけ笑った。
笑っても輪郭は崩れない。
「でも、さっき楽しそうでしたよ」
「え」
「自覚ないんだ」
ディレクターが言う。
「役に入った時だけ、顔が軽い」
年配のメダカ頭が続ける。
顔が軽い。
その表現が、妙に刺さった。
売場の鏡の前では、いつも顔が重い。
どの角度がいいか、どう立てば薄くならないか、自分のことばかり見てしまうからだ。
でも、さっき、偶然会った誰かになっている時だけ、そんなことを全部忘れていた。
部屋を出る。
細い廊下へ戻る。
さっき待っていたダックスフンド頭の男がまだいた。椅子に浅く座っていたが、イオルの顔を見るとすぐに立ち上がる。
「長かったですね」
「みたいです」
「どうでした」
「……変でした」
「変」
「喋るのと違うことを言われて」
「何を」
「役者寄りだと」
「役者」
男は目を丸くした。
それから、小さく笑う。
「それ、言われる人、たぶん少ないですよ」
「そうなんですか」
「少なくとも、自分の周りでは」
男はしばらく何か考えている顔をした。
「いいですね」
「いいんでしょうか」
「怖いでしょうけど」
「はい」
「でも、案内の人で終わらないってことでしょ」
「……」
「たぶん、それ、いいです」
たぶん。
いまの自分には、その曖昧さだけがありがたかった。
施設の外へ出ると、空は少し傾いていた。
商業区のガラス面に夕方の光が広がり、通りの案内灯が薄く灯り始めている。人の流れはまだ多い。仕事終わり前の早い足。買い物の寄り道。小さな笑い声。呼び込みの声。
イオルは建物の壁に肩をつけて、しばらく動かなかった。
俳優の異変。
その言葉が、喉の奥の熱とは別の場所に残っている。
自分の中にそんなものがあったなんて、思ったこともない。
有名になれたら、と思ったことはある。
広告の顔を見て、同じ種なのにぜんぜん違うと感じたこともある。
でもそれは、前へ出る人間への憧れであって、自分が誰かになることへの想像ではなかった。
なのに、さっき、短い台詞の間だけ、自分ではない誰かの体が自然に座った。
その間だけ、少し楽だった。
端末が震える。
フミから。
『生きてる?』
イオルは画面を見て、少しだけ息を吐いた。
『生きてます』
送る。
すぐに返る。
『読み合わせって何だった』
少し考える。
文章にすると、全部が急に嘘っぽくなりそうだった。
それでも打つ。
『役に入る方を見られました』
間が空く。
そのあと、返る。
『へえ』
その短さが妙に助かった。
ミナセにも送る。
『俳優寄りかもと言われました』
返事はすぐだった。
『やっぱり』
やっぱり。
イオルは思わず立ち止まる。
自分には予想もつかない方向だったのに、他人はそこに何かを見ていたのだろうか。
『何がですか』
送る。
『売場で説明してる時、たまに別の人みたいだったから』
その一文を見た瞬間、鳥頭の女の声と重なる。
役に入った時だけ、顔が軽い。
別の人みたいだった。
イオルは通りのガラスに映る自分を見た。
灰色の上着。
やわらかい口元。
眠そうな目。
いつも通りだ。
でも、さっきの部屋で、偶然会った誰かをやっていた時の自分は、たしかにこれと少し違った。
違うのに、無理している感じはなかった。
むしろ、いつもの自分でいる時より、ずっと自然だった気さえする。
帰りの電車で、イオルは窓に映る自分を見続けた。
乗客の影が重なり、輪郭はときどき曖昧になる。
その曖昧さの中で、ふと思う。
もし、誰かになっている間だけ、自分が楽なら。
もし、その時だけ、自分の冴えなさを気にしなくて済むなら。
それは、欲しかったものに近いのだろうか。
有名になることではなく。
前へ出ることでもなく。
別の自分で立っていられること。
部屋へ戻る。
机の上にはいつもの紙が並んでいる。
名刺。
連絡票。
応募票の控え。
雑誌。
端末。
見慣れたのに、今日は全部少し遠く見えた。
イオルは椅子に座り、前面カメラを起動した。
画面の中に、自分の顔が出る。
冴えない。
いつも通り。
喉の奥は熱いが、それだけだ。
「イオルです」
言う。
視線が寄る感じはある。
でも、自分だ。
「今日は、少し遅くなって」
そこまで言って、止まる。
違う。
いまのは、自分が言っている。
さっき部屋で起きたずれがない。
イオルは録画を止める。
少し考える。
もう一度、起動する。
今度は、画面の向こうに、遅れて帰ってきた誰かがいると思ってみる。
「遅かったね」
その瞬間、少しだけ空気が変わる。
あの部屋ほどではない。
でも、画面の中の自分の顔が、ほんのわずかに軽くなる。
イオルは息を止める。
続ける。
「先に食べた」
また少し、違う。
自分の口で言っているのに、自分ばかりを見ていない感じがする。
録画を止める。
再生する。
見返す。
たしかに、違う。
名乗っている時の自分より、誰かに向かって遅かったねと言っている時のほうが、目元も肩もやわらかい。
自然だ。
不思議なくらいに。
「演じている間だけ違う自分」
口に出してみると、少し恥ずかしかった。
でも、それ以外の言い方がいまは見つからない。
寝る前、雑誌を開いた。
若手俳優の特集。写真の中の人間たちは、どれも顔が決まりすぎていて遠い。昔から演じるのが好きだっただとか、役に入ると日常が少し残るだとか、そういう言葉が並ぶ。
イオルは頁を閉じた。
昔から好きだったわけではない。
そういう綺麗な線は、自分にはない。
ただ、今日、短いやり取りの中に入った時だけ、自分の顔の重さが消えた。
それだけだ。
でも、それだけのことが、胸の奥に小さく残る。
喉の熱とは別の場所に。
翌朝。
目が覚めた時、部屋の空気は少し湿っていた。
共用調整の具合か、外鰓の先がいつもよりよく開く感じがある。洗面台の鏡に映る顔は、やはり同じだ。眠そうな目。やわらかな口元。売場に紛れる輪郭。
なのに、昨夜の録画を思い出すと、その顔の奥にもう一枚、薄い別の面がある気がした。
自分ではない誰かの体が、そっと重なる時の面。
通勤路。
駅前の大型画面には朝の情報が流れていた。
住居特集。
仕事の向き。
変異の小さな活かし方。
切り替わる映像のどれも、日常の延長にある。そこに自分が入る想像は少し前までできた。案内役。説明役。通りすがりに聞かれる声。
でも、今は、その少し奥に別の部屋ができてしまった。
紙の上の会話。
誰かの待っていた時間。
誰かの気まずさ。
そこへ入ると、自分が少し軽くなる。
ホームのガラスに映る自分を見る。
同じ顔だ。
それでも、胸の奥で、知らなかった扉が開いた感じだけは消えていなかった。
売場へ向かう電車が来る。
扉が開く。
人が乗る。
イオルも乗る。
何も決まっていない。
でも、昨日までの自分だけで、この先へ行くわけではない気がした。
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