「随分と⋯⋯
僕の妻に──
好き勝手してくださってますね⋯⋯?」
低く、鋭く
だが紛れもなく聞き覚えのある声が
拷問の室内に響いた。
瞬間
アリアの視界を淡い桜色が満たしていく。
花弁が一枚、また一枚と舞い落ち
それは空間を撫でるように螺旋を描きながら
やがて吹雪となって渦を巻く。
桜吹雪は旋風に乗ってうねり
やがてひとつの輪郭をかたどった。
黒褐色の髪が、柔らかく流れ
切れ長の鳶色の瞳が真っ直ぐに前を射抜く。
藍の着物の裾が風に舞い
足元に淡い桜が咲いたように散る。
それは、アリアが──
この世の誰よりも愛し、心焦がれた者。
そして、もうひとつ。
桜の渦の中心から
白い影がひらりと跳ねた。
艶やかで美しい、長毛の猫──
ティアナが、時也の肩に静かに着地し
目を細めると
その身体から結界が展開され
彼をそっと包み込んだ。
「⋯⋯おや、ティアナさん⋯⋯
付いてきてしまったのですか」
その言葉に、アリアの瞳が──
深紅の双眸が、わずかに揺れる。
そして、薄く開いた唇から
震えるような言葉が紡がれた。
「⋯⋯時也」
その名を呼ぶと、彼女の瞳に
かすかな光が戻ってくる。
だが、 目の前のモニターには
なおも時也らしき人物が拘束され
暴れ続けている映像が流れ続けていた。
アリアが時也を見間違う筈は無い。
だからこその、無抵抗だった。
「──っ、櫻塚 時也!?
どうして、ここが⋯⋯!」
驚愕に染まるアラインの声。
アースブルーの瞳が、大きく見開かれる。
アラインはすぐに大太刀を掴み
身体を起こし、距離を取って構えた。
だが、時也は一歩も引かず
静かに、深く一礼をしながら
穏やかな声音で告げた。
「はじめまして。
僕の名前はご存知のようなので
割愛させていただきますね。
妻を迎えに参りました」
口調は丁寧。
だが、明らかに怒気を孕んだ声色だった。
それは冷たい炎のように
静かでありながら燃えていた。
「時也⋯⋯本当に⋯⋯お前か?」
床に伏すアリアが、弱々しく手を伸ばす。
次の瞬間
時也はそのもとに駆け寄り
彼女の手を強く、しかし優しく握りしめた。
「はい。貴女の僕ですよ。
こんな姿にされて⋯⋯お可哀想に⋯⋯っ」
彼は、感情を堪えきれずに
ぽろぽろと涙を零した。
「もしもの為に
貴女に何かあれば発動する術を
ピアスに仕込んでいて正解でした⋯⋯
本当は
発動する事態には
なってほしくなかったのですが──」
言葉を切ると
時也は静かにアラインを睨み付けた。
「ほんと⋯⋯
キミのアリアへの愛は、気持ち悪いね」
アラインも即座に表情を切り替える。
思わぬ事態に動揺を見せながらも
冷笑を浮かべ
間髪入れずに大太刀を突き出す。
だが
斬撃は結界に阻まれ
空を裂く音だけを残して止まった。
「⋯⋯ほんと、この猫──っ!!」
時也は微動だにせず、淡く首を傾げた。
「貴方⋯⋯何者ですか?
アリアさんが見ているのと
僕が見ているのとでは
貴方の容姿が違うように感じます」
アリアの瞳には、前世──
かつて魔女の青年としての姿をしていた。
華奢な体躯に
冷酷に光るアースブルーの瞳。
しかし、時也にはそれが見えない。
壮年の、老いを隠せぬ男の姿が映っていた。
それは
ティアナの結界が
時也を〝記憶操作〟の干渉から
護っていたからこそ。
時也は
先ほどアリアが手を伸ばしていたモニターに
目を遣る。
そこには
砂嵐が三つの画面を淡く包むように
揺れていた。
「なるほど⋯⋯
それが貴方が
前世の魔女から引き継がれた能力ですか」
静かな言葉。
だが確信を得たその声に
アラインは悔しげに歯噛みし
大太刀を握りしめる手に力を込めた。
時也は視線を戻し、静かに微笑んだ。
「アリアさん。
青龍の傷は、貴女のおかげで完治しました。
それに⋯⋯
ソーレンさんも、レイチェルさんも
皆、喫茶桜で貴女のお帰りを
〝無事で〟お待ちですよ」
その一言が、アリアの胸を貫いた。
傷だらけの身体を、彼女は即座に起こした。
伏していた身体から炎が溢れ、瞬間──
彼女はアラインの腕を掴み、引き摺り倒す。
「──な⋯⋯っ!離せっ!!」
だが、アリアの手は離れない。
高熱を帯びた身体がアラインを抱きしめ
──焼く。
「ぐ、ああああああああッ──!!」
悲鳴が響いた。
傷の再生によって生じる高熱が
容赦なくアラインの皮膚を灼く。
だがその血によって癒され、また焼かれる。
終わらない苦痛の輪廻の中
アリアはさらに強く
その身体を抱きしめた。
両翼に火が灯る。
不死鳥の炎の羽根が展開され
アラインの身体を逃がさぬよう包み込んだ。
それが
今アリアにできる、最大の反撃だった。
燃え盛る炎の中、アラインの悲鳴が続く。
そして──
時也の目が、それを捉えた。
一瞬、炎の向こうに小さな影が映る。
手足をもがくような、あまりにも幼い影。
(──赤子?)
だが、すぐにその影も
燃え尽きるように視界から消えた。
アリアの腕の中で
アラインの姿は完全に消えた。
炎が静かに収束し
彼女の身体は再び力尽きて傾いだ。
「アリアさん───っ!!」
すぐに駆け寄った時也が
彼女の身体を受け止める。
再生の高熱が直ぐに時也を襲うが
もはや時也は灼ける痛みも厭わなかった。
その鳶色の瞳に、大粒の涙が溢れた。
「⋯⋯お前が、無事で良かった」
掠れたアリアの声。
我が身よりも
まず時也の無事を確認する──
それが彼女だった。
時也はその言葉に、喉を震わせながら
さらに強く彼女を抱きしめた。
じゅう⋯⋯っと、音をたてて腕を焦がす。
時也は敢えて
その身を灼かせているようにも見えた。
「迎えに来るのが遅くなり⋯⋯
本当に申し訳ありません。
どうか、傷が癒えるまで
僕の腕でお休みください⋯⋯」
その言葉に僅かに首を振り
アリアは灼かぬようにと
時也の胸を押して離れ
代わりにゆっくりと腕を伸ばした。
時也の頬を濡らす涙を、そっと拭い取る。
血に濡れた空間に
やわらかな温もりが灯る。
二人が静かに視線を交わしたその瞬間──
安堵と、赦しの気配が
そこには確かに宿っていた。