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夕方の高速バスを降りると、懐かしい匂いの風が頬をなでた。
駅前のロータリーには昔から変わらない商店街の看板が並んでいて、主人公―― 佐倉彩花(さくら あやか) は自然と息をついた。
社会人になって初めての大型連休。新しい仕事に追われる毎日から解放されて、ようやく実家に帰ってきたのだ。
「ただいまー!」
玄関の戸を開けると、母の声と、台所で煮込む味噌汁の香りが一気に押し寄せてくる。
荷物を置いて少し休んでから、彩花は表に出た。
実家の近くには、昔から世話になっている人がいる。小説家の 篠原誠一(しのはら せいいち)。四十を越えた今も独身で、落ち着いた物腰とどこか影を帯びた雰囲気が、近所の人にとっては「ちょっと不思議な人」として映っている。
彩花にとっては、幼いころから作文を見てもらったり、本を貸してもらったりと、まるで親戚のように慕ってきた人だった。
だけど――。
(もう、子ども扱いされたくないんだよね、私。)
胸の奥でそうつぶやきながら、彩花は篠原の家の前に立った。
玄関灯の下でチャイムを押すと、しばらくして扉が開く。
「……彩花か。久しぶりだな」
篠原は相変わらずの落ち着いた声で迎えた。
少し伸びた髪を無造作に耳にかける仕草も、昔と変わらない。
「ただいま戻りました、先生!」
彩花は冗談めかして敬礼する。
「先生はやめてくれ。俺はただの近所のおじさんだ」
「近所のおじさんじゃなくて、私の初恋の人なんだから、ちゃんと覚えててくださいね」
篠原は一瞬、言葉を失ったように目を見開き、そして苦笑した。
「また冗談を……子どものころから全然変わらないな」
彩花は心の中で小さく呟いた。
――変わってないのは、先生のほうだよ。
――――――――――――
「どうぞ」
リビングのローテーブルに、冷たい麦茶がコトリと置かれる。
氷の入ったグラスは曇り、表面を伝う水滴が涼やかだった。
「わぁ……ありがとうございます。やっぱり夏は麦茶ですね!」
彩花は両手でグラスを持ち、一口飲んで「はぁー」と声を漏らした。
篠原は対面のソファに腰を下ろし、落ち着いた目で彩花を眺めていた。
「仕事はどうだ? 慣れてきたか」
「うーん、毎日バタバタですけど……でも、やりがいはありますよ。怒られることも多いですけど、それも勉強かなって」
そう言って笑う彩花の表情は、子どもの頃とは違い、どこか自信に満ちている。
ただ、今日はとにかく暑かった。
「んー、暑いなぁ……」
彩花は着ていたノースリーブの裾をパタパタ仰ぎながら、首筋に風を送った。
その仕草に篠原は一瞬だけ目を止め――すぐに視線を逸らした。
「……男の前では、そういうの、しないほうがいい」
「え?」
思わず手を止めた彩花が目を瞬く。
篠原はグラスの水滴を指でぬぐいながら、少し照れたように続ける。
「……軽い気持ちかもしれないけどな。見てる側は……色々と意識するんだ」
その言葉に、彩花の胸がふっと熱くなる。
(先生、今……私のこと、女の子として気にした?)
「……ふふっ」
彩花は嬉しそうに笑った。
「先生って、そういうこと気にする人だったんですね」
篠原はバツが悪そうに顔をそらした。
「当たり前だろ」
――――――――――――
翌日。
「おじゃましまーす!」
玄関の戸が開き、彩花がまた顔を出した。
「……また来たのか」
篠原は呆れたようにため息をつくが、追い返すことはしなかった。
「まぁいい、上がれ」
居間に腰を落ち着けると、二人は自然に昔の思い出話を始めた。
夏祭りで迷子になった時のこと、作文コンクールのために徹夜で篠原に見てもらったこと。
「そういえば私、ずっと先生にくっついてたよね~」
彩花が笑いながら立ち上がり、ふいに篠原の背中に抱きついた。
「……おい」
篠原の声が少し硬くなる。
「あまり大人をからかうんじゃない」
「からかってないよ~」
彩花はさらに腕に力を込め、頬を背中に押し当てた。
篠原の広い背中越しに、自分の鼓動が伝わってしまいそうだった。
(あ……)
篠原の背中に、自分の胸が当たっていることに気づき、彩花の心臓は跳ね上がる。
でも――これはチャンスかもしれない。
「先生……」
彩花はそっと耳元に顔を寄せ、吐息まじりに囁いた。
「私、大人になったんだよ?」
その瞬間、篠原が勢いよく立ち上がった。
「……このガキが」
吐き捨てるように言うと、篠原は乱暴に背を向け、自室へと引っ込んでしまった。
居間に残された彩花は、ぽかんと立ち尽くす。
「……やり過ぎたかな」
自分の軽はずみな行動に、胸の奥がじんわりと痛む。
けれど――彩花は気づいていなかった。
篠原が去っていった時、その耳が真っ赤に染まっていたことに。
――――――――――――
部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、篠原は大きく息を吐いた。
「……なんて真似を」
机に手をつき、頭を抱える。
彩花の声、背中に回された腕の感触、そして――耳元で囁かれた言葉が、頭の中で繰り返されていた。
「私、大人になったんだよ?」
ぞくりと背筋を走ったあの感覚。
軽口にしては重すぎる。冗談にしては、あまりにも近すぎた。
「……子どものくせに」
吐き捨てた言葉を思い返すたび、胸がちくりと痛む。
――子ども。
そう思い込もうとするのは、自分のためだ。
彩花が子どものころからずっと面倒を見てきた。作文を直し、泣けば頭を撫で、笑えば安心した。
その時間は、彼にとって「家族のような存在」に過ぎなかったはずだった。
けれど今の彩花は――
柔らかな髪の香りも、背中に伝わった温かさも、そして大人になった胸の感触も。
あまりにも「女」を意識させるものばかりで。
「……耳まで熱くなるなんて、馬鹿か俺は」
篠原は自嘲気味に笑う。
子どもとして可愛いと思う気持ちと、ひとりの女性として意識してしまう感情。
その狭間で揺れる自分が、情けなくて仕方なかった。
――彩花には、きっとまだ言えない。
大人として、近所の「先生」として、踏み込んではいけないはずだ。
それでも、胸の奥で残響のように彼女の声が響き続ける。
「私、大人になったんだよ?」
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