コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
Side 北斗
その日本家屋は、出てきた時と全く同じ姿で迎えてくれた。
ああ、家だ。帰ってこられたんだ。
門柱には、縦書きで『睦石荘』と札がある。だいぶ古くて傾いているが。
それを見て、一気に懐かしさが込み上げてきた。
門をくぐると、短い石畳の脇に梅が咲いている。まだ花びらは残っているが、自分がいない間に花開いてだんだん散っていたのかと思うと少し寂しい。
ガラガラと玄関扉を開け、土間に踏み入った。
年季の入った木の匂いがする。懐かしい匂い。
ここは元々旅館だったそうで、意匠や当時から残る調度品が豪華で美しい。
きちんと手入れもされているな、とどこか安心しながら廊下を進むと、奥から歩いてきた着物の女性に気づいた。
「…お千代」
松村さん、とその口が動く。そして顔をほころばせた。
「お戻りになっていたのなら言ってくださればよかったのに! 良かった、ご無事で何より」
お千代と呼んでいるこの女性は、千代子さん。年下だがここの大家の妻で、よく掃除などに来てくれている。
「お帰りなさいませ、松村さん」
「ただいま戻りました」
召集を受けてからは全く帰ってきていないから、会うのは何ヶ月かぶりだ。
「あ、そうだ。もうすぐ新しい入居者が入ってくるんです。よろしくお願いしますね」
そうなんだ、とつぶやく。
俺が入ったときは誰もいなかったし、その後も今まで一人だった。
新しい人が来るなんて、緊張するけど楽しみだ。
「しっかりお休みくださいね」と言って玄関を出て行った。彼女と夫の住まいはこの隣だ。
自室に入ると、やはり綺麗に保たれていた。お千代の丁寧さには舌を巻く。
荷物を部屋の隅に置き、とりあえず畳にそのまま寝転ぶ。
すると、床の間に綺麗な花が花瓶に生けてあるのに気づいた。新しいから、きちんと替えられていたのだろう。
縁側の障子の奥から、雀の鳴き声が聞こえてくる。
俺はゆっくり立ち上がって、そこを開ける。縁側に腰掛けた。
何室かの客室を囲むように、小さな庭園がこしらえられている。これもまたお千代夫妻が丹念に守ってくれているものだ。
小ぶりな石鉢に水を注ぐししおどしが、ちょうどカンッと乾いた音を立てた。
空はあの時と同じように青く澄んでいる。
また海の光景が浮かんできそうで、ぎゅっと目をつむった。
「ふう…」
大丈夫、ここは日本だ。無事に帰ってきた。
目を開けると、まだ軍装のままでいたことに気づき、着替えようと室内に戻る。
箪笥からお気に入りの着物を取り出した。
袖を通すと、やっと固まっていた心がほぐれていく感覚があった。
そうなると、一気に空腹を覚える。そういえば、帰ってから何も食べていない。
台所に行き、氷冷蔵庫を開ける。しかしすぐに食べられそうなものはなかった。
俺は部屋に戻って財布を懐に入れ、下駄を履いて家を出る。
近くには小さな和菓子屋がある。そこに向かった。
「こんにちは」
のれんをくぐると、店の娘が振り返ってにこりと笑う。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」
「いや、少し仕事がな。じゃあ…いつものおはぎをひとつずつ」
はあい、と朗らかに返事をして、硝子の商品棚からあんこときなこのおはぎを取り出す。
そのままお皿に乗せて手渡してくれる。
「ありがとう。いただきます」
店の奥の長椅子に座って、甘いおはぎを頬張った。
「……松村さんは、海軍でしたよね。どちらまで行っていたんですか?」
彼女が訊いてくる。
「地中海といってな、ヨーロッパなんだ。遠かったけど、日本が勝ったというんですぐに戻ってこられた」
良かったですね、と心底嬉しそうに言った。「お疲れ様でございました。ご無事で嬉しゅうございます」
俺は微笑みを返し、
「ごちそうさま。美味しかったよ。またよろしく」
お皿を渡して、代金を払ってから店を出た。
続く