――――呪い。
そう神津は口にし、その後俺たちは何事もなく電車に乗り昼食を済ませ事務所に帰ってきた。あの後、神津はそれ以上何も口にしなかったし、話題を変えてどうでも良いことをぺらぺらと話していた。俺はそれを聞いていたつもりだが、神津の『呪い』という言葉が頭から離れず何度か神津の話を聞き漏らした。そのたびに、「春ちゃん聞いてる?」と怒ったような目で見られて、俺は「聞いてなかった」と素直に返すしかなかった。
俺が、二十面相や、二年前のことを黙っていたように、それが呪縛であり罪悪感としてまとわりついているように、神津にとってピアノはそれと同じもなのだろうと思った。だからこそ、俺はあえて聞かなかった。
「恭……?」
夜、目が覚めると隣に神津はいなかった
いつもは横で俺を抱きしめるようにして寝ているのに、布団から抜けたあとがあるだけで辺りを見渡しても神津は何処にもいなかった。寒さを覚えつつ、まあトイレかと、その内戻ってくるだろうと目を閉じれば、ポロン……とピアノの音が聞えた。
(こんな夜に弾いてんのか?)
俺はだんだんはっきり聞えてくる音に目が冴えてきて、布団から出てピアノのある部屋へと足を進めた。昼間の暑さに比べ夜は少し肌寒い。俺が寒がりなのもあって、素足で廊下を歩けば、すぐにその指先は冷たくなってしまった。
「……神津」
そうしてピアノの部屋につけば、案の定神津がいて、まるでロボットのようにただひたすらにピアノを弾いていた。
こちらの気配に気づいていないのか、その手が止ることはなかった。
「夜間の演奏は近所の迷惑になるのでやめてくださーい」
「春ちゃん」
うわっ。と驚かしてもよかったが、さすがにそこまでする必要性を感じなかったため、俺はわざとらしく声を出して注意すればやっと気付いたようで、神津は演奏をやめた。
そして、振り返った彼の目は赤く腫れているように感じた。泣いていたのかと首を傾げれば、「なあに?春ちゃん」と優しく微笑むので、気のせいかと気にしないことにした。
神津は俺の顔を見ると安心したような顔をして、俺の方に身体を向ける。
「もしかして、僕がいなくて寂しかったとか?」
「あの部屋寒いからな。それに、抱き枕がいなくなって眠れなくなっただけだ」
「寂しかったって、言えば良いのに素直じゃないんだから」
と、神津は何処か嬉しそうに言う。
俺はそんな神津に呆れつつも、グランドピアノの鍵盤に指を置く。音を鳴らしてみようかと思ったが、先ほど近所迷惑だといった身、弾けないなと指を引っ込める。
「さっき弾いていた曲、月光か?」
「おおー春ちゃん、正解。勉強でもした?」
「馬鹿にしてんのか」
俺はそう言って、神津の隣に無理矢理座る。元々一人用の椅子のためさすがに狭い。
俺がピアノを眺めていると、神津は俺が座りやすいように背を向けた。
「……勉強したよ。お前の過去のコンサートの動画があったからな。それがたまたまお前が今弾いていた曲だったから」
「そうだったんだ」
と、神津は興味なさそうな返事をする。
前に自分のことしって欲しいみたいな雰囲気を出していたくせに、いざ俺が調べて言うと素っ気ない態度を取るのか。
「じゃあさ、その時の演奏と、今の演奏。どっちの方がよかった?」
「どっちの方がって……」
神津の意地悪な質問に俺は少し頭を抱えた。
生で演奏を聴いているのと、動画で聞くのとではまず違うだろうと文句を言いたくなった。だが以外と俺の答えはすぐに出た。
「今の方がよかった」
「根拠は?」
「今日、お前滅茶苦茶意地悪だな」
そう俺が言えば、「春ちゃんだから意地悪したくなるの」とクスクスと笑っていた。
根拠は? と聞かれても、直感的にそう思ったのだから仕方がない。
「だって不思議って思わない? もう、プロじゃない人間の演奏と、プロだった頃の演奏が同じなはずないじゃん」
「…………」
「ごめん、意地悪しすぎたかも」
「……お前の演奏。動画で見たお前の演奏、空っぽだったから」
俺の言葉に神津は目を見開く。
確かに、現役時代よりかは腕が落ちたと本人が言えば、そうなのかも知れないと思うだろう。一音のミスなど分からない。だから、はっきり言って素人の俺に違いなんて聞かれても分からないのだ。それでも、雰囲気というか、弾き方が全く違うように聞えた。
プロだった頃の神津の演奏は誰もを魅了する音だったが、大衆向けというか、誰もに向けた無償の愛のようなものに聞えた。
それに比べて、今の演奏は誰かを思って弾くような少し滑稽でむずがゆくなるようなもの。まあ、これは俺の感覚なのだが。
「そう、春ちゃんにはそう聞えたんだ」
「……じゃあ、お前は何を思って弾いていたんだよ」
俺が尋ねれば、神津はフッと口の端を上げて嘲るように俺を見た。だが、その嗤いは自分に向けたようなものにも思える。
「そう。春ちゃんの言ったとおり、何も考えていない、空っぽな演奏だったよ。でも、それを聞いた皆凄い、感動するって拍手を送ってくれる。ほんと、僕の何を知っているんだって感じだよね」
神津はそう言って、自傷気味に笑う。
俺はそんな神津を見て、何だか悲しい奴だと思った。
「ねえ、春ちゃん覚えてる?」
神津がその言葉を口にすると、あたりに散っていた音がピタリとやんだ気がした。
若竹色の瞳は、暗闇の中でも仄かに光を帯びている。
「春ちゃんが僕の音、好きって言ったこと」
「……」
「もしあれが、僕にとって呪いだって言ったら、春ちゃんどうする?」
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