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産業革命のおかげで日本もだんだん豊かになっているのだとか、欧米の文化を必死こいて真似た鹿鳴館を知っているかと話をされました。そのたびに菊さんは顔を赤くしたり、真顔になったり、嬉しそうに微笑んでいたりと、今までに見たことのない表情をしていたから、とても驚きました。私の知らない菊さんがそこにはあって、そんな私の知らない表情をさせたカークランドさんのことが、なぜだか羨ましく恨めしく思ってしまいました。
「と、いうわけだから、俺とサー・ホンダには強い繋がりがあるのだ。今は利害関係で繋がってるが、……ほら、サー・ホンダのこれ。」
と、カークランドさんは菊さんの頭に乗っていた山高帽をひょいと持ち上げ、にこりと怪しく笑いました。
「この帽子……ヤマタカボウ? も、我が英帝国が作ったものなんだ。これからの時代、もっと英帝国と日本の文化が混ざり混ざっていくんだ。……今のうちから、俺に媚を売っていくといいぞ、少年。」
カークランドさんは私の額をつんと突いて、すくっと立ち上がりました。
「それでは、英国紳士はここで去ろう。行かねばならないところがあるからな。じゃあな、サー・ホンダ。そして、日本の少年。」
カークランドさんは汽車が止まった途端、一番に外へ出ていって、最後、こちらを振り向いて片目だけをつむっていったのを見て、私は不思議な気持ちでいました。今まで見たことのない人柄に圧倒されたのもあったのでしょう。
「ごめんなさいね、こうちゃん。こんなところで出会うなんて思ってませんでしたから……」
そう言う菊さんは少し不貞腐れていて、少し頬を膨らませていたので、つい可愛らしくて笑ってしまったのです。
菊さんは恥ずかしそうに顔をしかめて、私の頬をつねりました。つねられたけれど痛くなかったから、にしにしと笑っていると、それも不服だったみたいで、さらにぷくーっと頬を膨らませるのでした。
「あ、もうすぐ着く」
ふと、窓を菊さんは嬉しそうに見上げました。どこに着くのだろう、そう思い、窓の外を眺めてみるとあったのは、
「丘?」
少し高めの丘が見えました。菊さんはそれはそれはもう嬉しそうに微笑んでいました。
そして、汽車が停まり、私は菊さんの手を握って降りました。目の前には丘と田んぼばかりで、かなりの田舎のようでした。
菊さんは迷いもなく、私の手を引いて歩き出します。私もその後をちょこちょことついていきました。
丘の上を登って、私たちはぽふんと芝生の上に座りました。そして、菊さんは嬉しそうに膝を抱いて、そよそよと吹く風に吹かれて、心地良さそうでした。
「……嬉しそう、だね」
「ええ、嬉しいです。なんていったって、ここから私の愛す国がよく、見えますから。」
「……愛す、国……」
「ええ。私が愛する日本の自然が、よく、見えるのですよ。この空気に触れていると、私の存在がはっきりとするのです。ですからよくここを訪れるのです。」
「……それじゃあ、ここは菊さんの、秘密の場所なんだね。」
「そうなりますね。だけど、私だけの秘密の場所ではないですよ。……こうちゃんと、私の、秘密の場所です」
また胸が締め付けられて、苦しくなって、嬉しくなって、もう、どんな気持ちで菊さんを見つめていればいいのかわからなくなってしまいます。
菊さんはすごい。菊さんは素敵な人だ。私をこんな気持ちに、艶やかで鮮やかで豊かな気持ちにさせてくれる。させてくれるのです。
だから、あなたへ向ける私の瞳が、どれほどの熱情をもっていたのか、自覚してしまったのです。あなたといる時の時間の流れが、あまりにも速いのだと、自覚してしまったのです。あなたが私に向ける眩しい笑顔が、黒い瞳が、温かい優しさが、芯のある声が、愛しい行動が、優雅な振る舞いが、しなやかな白い指が、まんまと私の心を惹きつけてしまっているのだと気付いたのです。……きっと、菊一 さん。あなたは知らない。私があなたを、これでもかというほど惚れていることを。ありえないほど、そばにいたいと思っていることを。何も、知らないでしょう。でも、その方が気が楽です。その方が、まだ、頼れる兄、人懐っこい弟という関係でいられますから。……
「そろそろ、戻ろうかな。こうちゃんのご家族も、心配なさるでしょうし。」
自覚してしまったから、菊さんの顔を直視できませんでした。だけど、差し出された手があまりにも心地よくて、だから離したくないと気持ちを込めてしっかりとつかんで、私は立ち上がりました。その優しい温かい手を、私は今でも忘れずにいるのです。
その時ふと、
「我が国。こちらにいらしたのですね。お迎えにあがりました。」
とざんぎり頭の偉そうな男性三名が、ぞろりとやって来たのです。菊さんの顔色が変わったような気がしました。
「……もう少しお時間を……とは、いかないのですよね。」
「ええ。ロシアの南下政策について話し合わなくてはなりません。そうでなくては、我が大日本帝國はまたあの頃のように弱い国になってしまいます。我が大日本帝國を列強とするには、我が国、あなた様の力が必要なのです。」
偉そうな男性のうちの一名が、険しい目つきをして、菊さんを見つめました。菊さんは仕方がないというような様子で、
「それが、化身として生まれた私の役目ですから、承知の上です。……ごめんなさいね、こうちゃん。一人で、帰れますか?」
寂しそうに、切なそうに、苦しそうにおっしゃるものだから、頷かないわけにはいきませんでした。
「うん、大丈夫。僕、一人で帰れるよ。」
その日はそうして別れました。
こうやって国のために動いている菊さんを見ると、少し遠い人だなと思ってしまいます。ですが、その分、国民にたくさんの愛を注いでいるのだと思うと嬉しくてたまりませんでした。だけど、少しだけ嫌でした。