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上野ニ居ル。
その一行を頼りに、私たちは、日が暮れるまで山の上を歩いた。
救護所の天幕を、一つずつ覗いた。名前を呼んだ。似た背格好の人を見かけるたびに駆け寄り、そのたびに、違う顔が振り返った。
翌日も、その翌日も、上野へ通った。
冬馬様は、どこにもいなかった。
電柱の紙は、誰が貼ったのかもわからなかった。伝言を頼まれた人が、そのまた誰かに頼んだのかもしれない。上野の山には、何万という人がいた。
*
九月七日の夜。
私は、藤棚の天幕の下で、千鶴さんの当用日記を開いた。
臙脂の布張りの、大正十年の帳面。八月の頁に、三字ほど、墨で濃く塗りつぶした跡がある。その脇に、鉛筆で丸く囲んだ、罫、の一字。
蝋燭を、紙の面すれすれまで低く傾けた。
光が、頁の上を斜めに走る。
塗りつぶした墨の下で、紙が、わずかに凹んでいた。鉛筆の筆圧の溝だった。墨は上から色を塗るだけで、溝までは埋めない。
私は、溝を、一画ずつ目で追った。
ウ冠。豕。令。ウ冠。至。
家令室。
千鶴さんは、あの夏、罫の欠けた紙がどこにあるのかを、ここに書いた。そして、誰かに読まれるのを恐れて、上から墨を塗った。
行の終わりが、右へ逃げていた。
私は、日記を閉じて、胸に抱いた。
*
九月八日の夕暮れだった。
炊き出しの釜の前で、お鈴が、ふいに手を止めた。
「奥様。門に」
門の格子の向こうに、人影が立っていた。
背の高い影だった。背中に、誰かを負っている。重みで、前かがみになっていた。一歩踏み出すたびに、膝が、がくりと沈む。
煤で、顔の色がわからなかった。シャツは、元の色がわからないほど黒く汚れ、片袖が破れていた。
けれど、その手には、黒い革の手袋がはめてあった。
私は、杓子を落とした。
門番が、慌てて格子を開けた。影が、一歩、また一歩と、庭へ入ってきた。
背中の人が、顔を上げた。
父だった。
「……栞か」
掠れた、父の声だった。
「お父さん」
声が、裏返った。父の髪は焼けて縮れ、頬にはひどい擦り傷があった。けれど、目は、ちゃんと私を見ていた。
「泣くな。活版屋の娘が、みっともねえ」
そう言った父のほうが、先に泣いていた。
冬馬様が、芝の上に、ゆっくりと膝をついた。篠原さんが駆け寄って、父の体を背中から下ろした。
冬馬様は、膝をついたまま、私を見上げた。
煤の中で、灰色がかった黒い目だけが、光っていた。
「戻った」
それだけ言った。
私は、何も言えなかった。
冬馬様の前に膝をつき、煤だらけの首に、腕を回した。
煙の匂いがした。汗と、川の水の匂いがした。肋が、一週間前よりも、さらに浮いていた。
冬馬様の腕が、ゆっくりと、私の背中に回った。力が、ほとんど入っていなかった。
「父上を、連れてきた」
耳もとで、声がした。
「遅くなった」
*
父と冬馬様は、藤棚の天幕の下に寝かされた。
大奥様が、挫いた足を引きずって、冬馬様の枕元に座った。何も言わずに、煤だらけの額を、濡れた手拭いで拭きはじめた。百合絵様は、冬馬様の袖を握ったまま、声を殺して泣いていた。
父が、少しずつ、話してくれた。
一日の昼過ぎ、長屋の人たちに背負われて、被服廠のほうへ逃げかけた。途中ではぐれ、川べりに座りこんでいたところへ、自転車を投げ捨てた冬馬様が、人波を掻き分けて現れた、と。
「侯爵様は、わしを背負って、川に繋いであった荷船に飛び乗りなすった」
父は、天幕の布を見上げていた。
「船底に、わしを寝かせて、川の水で濡らした筵を被せて、その上から、ずっと、押さえていてくださった。火の粉が、雨みてえに降ってくるのを、一晩じゅう、手で払って」
私は、冬馬様の手を取った。
黒い革の手袋を、そっと外した。
手のひらも、指も、赤く腫れ上がっていた。ところどころ、皮が剥けている。
冬馬様は、手を引こうとした。私は、離さなかった。
「上野の、救護所にいた」
冬馬様は、目を閉じたまま言った。
「父上が熱を出して、動かせなかった。この手では、字が書けない。通りがかりの学生に頼んで、君への伝言を書いてもらった」
知らない字だったのは、そのせいだった。
「昨日、父上の熱が下がって、二日かけて歩いてきた。……途中で、何度も休んだ」
「十二階が、折れていたぞ」
父が、ぽつりと言った。
「上野の山から、見えた。八階のあたりで、ぽっきりと」
千鶴さんが、一人でてっぺんまで登った塔。千鶴さんの封筒を、十か月も預かってくれていた、八階の写真屋。
私は、何も言わずに、冬馬様の腫れた指を握った。
冬馬様が、目を開けた。
片手で、ズボンの隠しを探った。
出てきたのは、汚れた紙に包まれた、小さな握り飯だった。半分以上が、黒く焦げていた。
「今朝、配られた」
冬馬様は、それを、私の手のひらに載せた。
「私が用意したものだ。食べろ」
私は、握り飯を見下ろした。
「旦那様の分では、ないのですか」
「君の握り飯は、船の上で、父上と半分ずつ食べた」
冬馬様の声が、少しだけ、柔らかくなった。
「焦げていた。うまかった」
私は、握り飯を口に入れた。
焦げの苦さと、冷えた米の味がした。塩は、ほとんどなかった。
涙が、止まらなかった。泣きながら、全部、食べた。
冬馬様は、腫れた手で、私の頬の涙を拭おうとして、痛みに顔をしかめた。
大奥様が、横を向いて、扇子で顔を隠した。
*
その夜、私は、冬馬様の枕元で、八日のことを全部話した。
藤棚の下の、白い指。帯の上を正確に押さえた指先。タキさんの、平仮名の三行。宇の字の封。宮内省に出された書状。九月十日の親族会。未亡人。
そして、浅草の観音様の境内へ、ふささんを背負って走った人のこと。
冬馬様は、黙って聞いていた。
「宗介は、私が死んだと思っている」
しばらくして、冬馬様が言った。
「十日まで、私が戻ったことは、伏せておく。あれに、書状を出させる。皆の前で、もう一度」
私は、うなずいた。篠原さんが、茶室を寝所に整えると言った。お鈴とハナには、口を固く閉ざすよう、大奥様が言い渡した。
鬼塚警部補へは、篠原さんが、夜明け前に走ることになった。
九日の朝、警部補は、裏の切り戸から、人目を忍んで入ってきた。
茶室の狭い躙り口をくぐり、冬馬様の顔を見るなり、帽子のつばを押し上げた。
「……化けて出なすったかと思いましたよ、侯爵」
それから、抱えてきた包みを、畳の上に下ろした。
「日本橋の貸し倉庫、見つけました。蔵造りの、小さな倉庫でしてな。外の壁は焦げとったが、中は無事だった。借り主の名は、偽名です。だが、大家の婆さんが、家令の人相を、ちゃんと覚えとった。七三の髪に、銀縁の眼鏡、それはそれは丁寧な人だった、と」
包みの中から、紙の束が出てきた。
厚手の、少し焼けた色の和紙。子持ち罫。細い輪に、丸い葉が四枚。
束を括った帯紙に、見覚えのある字があった。
久遠寺家御用 罫紙。
父の、細い字だった。
「千九百枚と、少々。使ったのは、百枚に足りん」
警部補は、もう一冊、表紙の焦げた分厚い帳面を、私の膝に置いた。
「それと、これも、倉庫の棚にありました」
見本帳だった。
志摩活版所の、二十年分の仕事。大正七年五月の頁だけが、綴じ糸の根元で、きれいに切り取られていた。
父が、天幕から運ばれてきて、茶室の隅で、それを撫でた。黙って、何度も撫でていた。
冬馬様は、茶室の小さな窓の障子の隙間から、和館の黒い屋根を見ていた。
大広間の、床の間の脇。今は壁に立てかけられたままの、先代様の肖像画のあたりを。
「宗介には、私の口から言う」
腫れた指が、膝の上で、ゆっくりと握られた。
「……兄上、と」
コメント
1件
冬馬様、戻ってきた…! ああもう、本当に良かった……読んでる間ずっと息を止めてたみたいだった。焦げたおにぎりを「うまかった」って言うシーン、涙が止まらなかったよ。あの腫れた手で涙を拭こうとする仕草とか、大奥様が扇子で顔を隠したところとか、全部心に刺さった。千鶴さんの日記の筆圧の溝を読む栞さんの冷静さもすごく印象的だった。最後の「兄上」…次が怖いけど、ちゃんと読みます。
local99
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瑠璃マリコ
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