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「……ということなんだ。今まで、黙ってて本当にごめん」
兄さんの声は、ひどく掠れて震えていた。
その言葉と共に、彼は深く、深々と頭を下げる。
まるで、その行為自体が、彼自身の存在
そして過去の自分を否定するかのようだった。
俺は、ただ呆然と、その光景を見つめることしかできなかった。
兄さんの口から語られた真実は、あまりにも重く
あまりにも非現実的で、俺の思考は完全に停止していた。
脳裏には、彼が語った過去の出来事が、まるで白昼夢のように鮮明に蘇っては消え、また蘇る。
幼い日の恐怖、混乱
そして、兄への絶対的な一頼が打ち砕かれたあの瞬間の痛みが鮮烈なフラッシュバックのように押し寄せた。
怒り、悲しみ、そして何よりも
途方もない困惑と、どうしようもない無力感が俺の心を支配していた。
正直、今、なんと言葉を返せばいいのか
全く分からなかった。
喉の奥がカラカラに乾き、声を出そうとしてもただ微かな息が漏れるだけだった。
「とりあえず、顔、上げて……」
絞り出すような俺の声は、自分でも驚くほどか細かった。
その言葉に、兄さんはゆっくりと
まるで何十キロもの重みに耐えるかのように、ぎこちなく顔を上げた。
その刹那
俺の周りの時間が止まったかのように感じられた。
空気の粒子一つ一つが凍りつき、音もなく世界が静止したかのようだった。
彼の瞳は、もはや俺が知る兄のそれではなかった。
そこには、かつて見たことのない
純粋な絶望が結晶化したような、研ぎ澄まされた刃のような光が宿っていた。
その刃は、何の躊躇もなく、俺の心臓を真っ直ぐに買いた。
その深い淵のような瞳の奥には、俺という存在が
まるで遠い記憶の残骸
あるいはもう二度と触れることのできない過去の幻影のように映し出されているのが見て取れた。
過去の裏切りが、彼の意識の中で永遠に繰り返される悪夢と化しているのだとその肌で感じ取れた。
俺への罪悪感が、彼の存在そのものを内側から蝕んでいく光景がその双眸に凝縮されていた。
彼の魂の奥底に、どれほどの苦痛が渦巻いているのか、想像するだけで息が詰まるようだった。
「…もう、隠してることは無いんだよね」
震える声で、探るように尋ねた。
わずかな希望と
これ以上の真実を突きつけられることへの抗いがたい恐怖が入り混じった問いだった。
もし、まだ何か隠していることがあるとしたら
俺はもう、それを聞く心の準備ができていない
そう本能的に感じていた。
「あぁ……ないよ」
兄さんの返事は、その広大な絶望の前に無力な砂粒のようにかき消えていく。
彼の瞳の奥には、俺の裏切りが刻まれた巨大な碑が、永遠にそびえ立ち続けているのが見て取れた。
その冷たい影が、彼の魂全体を覆い尽くし、光を拒んでいるかのようだった。
彼の存在全体が、その碑の重みに押し潰されているように見えた。
俺は、兄さんの瞳に宿るその深い絶望が、他ならぬ母親の過去の行為が作り出した
あまりにも残酷な現実なのだと痛感した。
どれほど兄さんが、結果的に俺の誘拐の幇助のような行動をしてしまったとしても
あの時、兄さんはまだ16歳だったのだ。
多感で、精神的に不安定になりがちで
衝動的な無謀な行動に出てしまったり、未来への漠然とした不安や焦りを感じやすい
まさに危うい年頃だった。
あの母親の、常軌を逸した支配的な脅しを受ければまだ未熟な少年が、抗う術もなく言いなりになってしまうのも無理はなかったのだろう。
兄さんもまた、母親の毒牙にかかった紛れもない被害者だったのだ。
その事実は、彼の苦しみをより一層深く感じさせた。
そう、頭では理屈として理解できる。
兄さんが置かれた状況、恐怖
そして選択肢のなさ。
それら全てが、論理的には納得できる。
兄さんの行動の背景には、兄さんなりの恐怖と
俺を守ろうとする深い愛情があったのかもしれない。
しかし、俺の心は、ちっともその理解に追いついてはくれなかった。
あまりにも深く刻まれた傷は、すぐに笑って許せるほど浅いものではなかったのだ。
胸の奥に、鉛のような重みが横たわっていた。
たった一言
「母さんに脅されたけど、そんなことしたくない」
と、そう言ってくれたら。
「逃げよう」と、俺を強く抱きしめて、連れ出してくれたら。
あの時、まだ幼かった13歳の俺は、あんな地獄のような目に遭わずに済んだかもしれないのに。
あの悪夢のような日々を、経験せずに済んだかもしれないのに。
そう思うと、胸が張り裂けそうになった。
だが、兄さんは16歳だった。
まだ、大人と子供の狭間を揺れ動く、未熟な存在だった。
あの人に脅されて、恐怖に支配され
何も言えなくなってしまった兄さんの気持ちは痛いほど想像できてしまう。
彼の震える声、絶望に満ちた瞳を見ていると
彼がどれほどの重圧に晒されていたかが、ありありと伝わってくる。
できてしまうからこそ、余計につらかった。
彼の苦悩を理解すればするほど、俺の心の痛みは増していくようだった。
それは、まるで自分自身の過去の傷を、再び抉られているような感覚だった。
そして何よりも、あの母親が心底気持ち悪かった。
その存在を想像するだけで全身の毛穴が逆立ち、鳥肌が立つ。
全身を掻き毟り、バラバラに解体してしまいたい
ほどの生理的な不快感と嫌悪感が、俺の全身を駆け巡る。
胃の奥から込み上げてくる吐き気と、頭を鈍器で殴られたような衝撃が俺を襲った。
しかし、そんな衝動を現実に実行して良いはずがない。
この忌まわしい現実を直視し、受け入れなければならないのは他でもない、俺自身なのだと
強く、何度も、自分に言い聞かせた。
俺は、兄さんの絶望に染まり切った瞳を、真正面から見つめ返した。
その瞳の奥に、彼の計り知れない苦しみが宿っていることを感じながら
ゆっくりと、言葉を選びながら口を開いた。
「…あの人の異常な毒親気質は、昔から知ってたし……兄さんが追い詰められていた状況も、理解は、できなくもない」
俺の言葉は、兄さんの心に微かな光を灯したように見えたが
彼はすぐに首を横に振った。
その動きは、まるで自分自身を赦すことを拒むかのようだった。
「だとしても、俺は本当に楓に赦されないことをし
た」
その声には、深い自責の念が滲んでいた。
彼の言葉の重みが、部屋の空気をさらに重くする。
「……そりゃあ、すぐに笑って許せるほど、俺もそこまでできた善人じゃないよ」
俺は正直に言った。
無理に笑顔を作ることも、偽りの言葉を紡ぐことも、今の俺にはできなかった。
そんなことをすれば、自分自身を裏切ることにな
る。
兄さんは、その瞳をゆっくりと、床に吸い込まれるかのように下に向けた。
その肩が、微かに震えている。
彼の全身から、深い悲しみと絶望が立ち上っているのが感じられた。
「……理解は、できる。兄さんが、あの時どれほど怖かったか、どれほど追い詰められていたか、ってことも…」
俺は言葉を続けた。
一つ一つの言葉を選ぶたびに、胸の奥が締め付けられるようだった。
「でも、それとこれとは、別なんだよ」
俺の心は、まだ過去の傷に囚われていた。
理性と感情の間に、深い溝が横たわっている。
「…理解できたからって、すぐに許せるわけじゃない。俺は、兄さんのこと……裏切られたって、思っちゃう」
その言葉を最後に、俺は少し、間をあけた。
部屋には重い沈黙が満ち、時計の秒針の音だけがやけに大きく響く。
そのカチコチという音が、俺たちの心の鼓動のように聞こえた。
兄さんは、目を伏せたまま、微動だにしなかった。
まるで、俺の言葉が、彼を完全に打ちのめし、石像に変えてしまったかのように。
彼の肩が、さらに小さく見えた。