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だから俺は静かに、しかしはっきりと言葉を紡ぐことにした。
「だけど……それ聞いて、兄さんのこと、恨めない
よ」
それは、俺自身の心に問いかけ、辿り着いた、偽りのない本心だった。
俺の言葉に、兄さんはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、深い困惑と、微かな希望が入り混じっていた。
まるで、じられないものを見るかのように、俺を見つめ返している。
「……え」
兄の口から漏れたのは、驚きと戸惑いの混じった、小さな声だった。
「だって………兄さんは、兄さんだよ。俺のたった一の兄さんで、俺にとっては、それだけは変わらない事実なんだ」
その言葉が、兄さんの心を震わせたのが分かった。
彼の目尻に、透明な雫が滲む。
それは、絶望の涙ではなく安堵から来る涙なのか
「………っ」
兄は、言葉にならない嗚咽を漏らした。
「家族だよ。俺にとって、兄さんは、家族なんだ。……それだけは、ちゃんと、そう思ってる」
俺の言葉は、兄の心の奥底に、温かく響いたようだった。
赦したわけじゃない。
でもきっと、兄さんを恨んだって意味は無い
兄さんを責めても意味は無い
あの時の深い傷が癒え、心から笑えるようになるには
きっと、まだまだ長い時間が必要だろう。
もしかしたら、完全に癒えることはないのかもしれない。
けれど、それでも一
俺は目の前の兄を、切り捨てることなどできなかった。
彼の苦しみを目の当たりにし、彼の過去の恐怖を知った今
彼を突き放すことなど、俺には到底できなかった。
だって俺は、あの頃兄さんが大好きだったから。
誰よりも、兄さんのことを本気で、心から信じていたから。
俺にとって、兄は絶対的な存在だった。
その気持ちは、今も、変わっていない。
壊れてしまったままの心の奥底に、まだ確かに残っている。
幼い頃、恐怖に震えながら、兄の背中に泣きながらしがみついた
あの温かい記憶が。
あの頃の兄の腕の温もり、背中の広さ
そして、何があっても守ってくれると信じていた
あの確かな安心感が、今も俺の心に深く刻まれている。
兄さんが、俺の知らないところで、想像を絶する苦しみを味わっていた。
それは紛れもない事実だった。
嘘偽りなく、彼もまた、母親の犠牲者だったのだ。
こんなにも長い間、俺たち兄弟を苦しめ続けたのは、他ならぬあの母親で
兄さんはその毒に冒された、もう一人の被害者でしかない。
俺の心は、兄を憎むことなど、到底できなかった。
憎むべき相手を憎みきれない、この矛盾した感情が、俺の心をさらに複雑にした。
「楓………ありが、とう…っ」
兄さんは、震える声で、掠れた息のように呟いた。
その言葉が、俺の胸を締めつける。
同時に、彼が今までどれほどの重荷を背負い
どれほど苦しんできたのかを思うと、何度も何度も謝り続けるその姿に、俺の心が深く痛んだ。
「もういいよ……謝らなくていいから…」
俺は、そう言って、兄の肩にそっと手を置いた。
その手から、俺の微かな温もりが伝わることを願った。
この、互いの深く刻まれた傷を癒し、痛みを和らげることができるとしたら……
それは、ただひたすらに、時間だけなのだろう。
ゆっくりと、しかし確実に、傷も痛みも忘れさせてくれる
静かな時間だけが、俺たちを救う唯一の道だと感じた。
「それより、母さんのことだけど…」
俺は、少しだけ声のトーンを変えて、現実的な話へと移った。
重い空気を少しでも変えたかった。
「兄さんも、あの人とは絶縁した方がいいと思う、これ以上、あの人の言いなりの人生である必要なんて、どこにもないんだ」
「それが、兄さんの本当の幸せのために、今、一番必要なことだと思うから」
俺の言葉に、兄さんは深く頷いた。
「……自分のためにも、楓のためにも…俺も母さんと決別する覚悟を持つよ」
「うん…俺、家族は兄さんだけでいい、兄さんだけ居てくれれば、それでいいんだよ」
俺がそう言い切ると、兄さんは少し驚いたように目を見開いた。
そして、その瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ落ちた。
彼はしばらく俯いたまま、やがてゆっくりと顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、彼はただ「あぁ」
とだけ答えると
震える腕で俺を優しく、しかし力強く抱きしめた。
「ごめんな……楓、本当に、こんな兄ちゃんでごめんな…ありがとう…楓…っ」
兄さんが、俺の耳で掠れた声で囁く。
その腕に包まれていると、不思議と懐かしい暖かさを感じた。
それは、幼い頃に感じた、兄の腕の中の安心感とどこか似ていた。
あの頃の、何にも代えがたい温もりと、安心感。
俺たちはしばらくの間、ただ互いの存在を確かめ合うように、そのままでいた。
言葉は必要なかった。
ただ、この温もりだけが、今、俺たちに必要なものだった。
互いの存在を感じ合うことで、少しずつ心の傷が癒えていくような気がした。
◆◇◆◇
それからしばらくの後
ようやく二人とも落ち着きを取り戻した。
重かった空気は、少しずつ軽くなり、部屋には穏やかな時間が流れ始めた。
俺は立ち上がり、兄さんのために温かいコーヒーを淹れてあげた。
湯気の立つマグカップを兄の前に置くと
彼は少し照れたようにそれを手に取り、ゆっくりと口をつけた。
温かい液体が喉を通り過ぎる音だけが、静かな部屋に響く。
兄さんは、コーヒーを一口飲んでから、少し間を置いて口を開いた。
「楓、本当に悪かった」
また謝罪の言葉か、と「だからもういいんだって」と否定しかけたものの
兄は俺の言葉を遮るように続けた。
その表情は、先ほどまでの絶望とは異なり、どこか決意を秘めたものだった。
「違う、あの人…犬飼さんのことだよ、頭ごなしに否定して悪かったな」
まさか、そんな言葉が兄の口から出るとは思わなかった。
俺は驚いて思わずコーヒーをテーブルに置き、兄の顔をまじまじと見つめた。
彼の言葉は、俺にとって予想外であり
同時に、彼の心の変化を強く感じさせるものだった。
「だってあれは……」
と、反射的に反論しようとした瞬間
兄は再び俺の言葉を遮るように、静かに話し始めた。
「最初は……お前が、犬飼さんに騙されてるんじゃないかって、本気で思ったんだ」
兄は目を伏せて、小さく、しかし深く息を吐いた。
その横顔には、後悔の色が濃く滲んでいる。
彼の過去の行動が、俺への心配から来ていたのだと、今、改めて明確に理解できた。
「やっぱりあの時の俺は、冷静じゃなかった…ただ、楓を守りたいって思うあまり、俺自身の思い込みに惑わされすぎてたんだ」
その言葉に、俺の胸が締め付けられるように痛ん
だ。
今まで知っていた兄とは、まるで違う、弱さと人間らしさを併せ持った一面を見た気がした。
「兄さん……」
俺は、思わず兄の名前を呼びかけたが、彼は首を振った。
「いや、やっぱりこれは謝罪じゃないな」
兄は、まっすぐ俺の目を見つめ返した。
その瞳には、今までとは違った
温かく、そして真剣な光が宿っていた。
「楓が、犬飼さんとちゃんと向き合っているなら、それでいい」
兄さんの言葉は、もはや過去の過ちを悔いるだけでなく、未来への希望を語るものへと変わっていた。
「俺は、楓の選んだ道を尊重したい……だから、犬飼さんも交えて、今度は三人で、ちゃんと話をしたいと思う」
「え、ほ、本当に…………?」
「もちろん。だから今度の連休に、俺の家に二人で来てもらえるか犬飼さんと話してみてくれないか?」
その真剣な眼差しと、今までとは打って変わった温かな言葉に、俺は胸の奥で熱くなるものを感じた。
仁さんとの関係を、兄さんが受け入れようとしてくれている。
その事実に、俺の心は震えた。
俺は深く、何度も頷いた。
「兄さん……っ、ありがとう!!わかった、俺、仁さんに予定合う日聞いてみるから……!」